『おはよう、昨晩はいつも通りの時間に寝ましたか?』
『陽菜ちゃんとおしゃべりして、遅くなっちゃた』
『陽菜ちゃんママの言う事聞いてね。夕方には迎えに行くからね』
『りょ』
美幸とのスマホのメッセージ。
お友達の家にお泊りに行って、楽しそうな様子に、沙羅は安堵のため息をもらした。
スマホをテーブルの上に置き、リビングの掃き出し窓に掛かるカーテンを勢いよく開けた。
日曜日の朝。窓の外は、どんよりとした曇り空。
天気のせいなのか、いつもうるさいほど鳴いている蝉の声も心なしか元気が無いように感じられた。
身に着けた濃紺のスーツに白いブラウスは、戦闘服。
今日は、絶対に負けられない。
約束の時間は午前11時。
まだ約束には、かなり早い時間だ。けれど、切り札のための仕込みがある。
沙羅は、バッグを持ち玄関に向かった。
「沙羅、もう出るのか?」
後ろから声を掛けられた。パジャマ姿の政志だ。
政志は眠れなかったのか、目の下にはクマが出来ている。
「ええ、私、外で朝食を取るから、弁護士事務所で会いましょう」
きっぱり言い切る沙羅に、政志は上手く言葉が返せない。
「……ああ、後で」
ちらりと政志を見ただけで、沙羅は動きやすいアーモンドトゥのパンプスを履く。
「じゃあ、先に行くわ」
玄関の扉を開け、沙羅は歩き出した。
◇
時刻は午前10時50分になろうとしていた。
弁護士事務所のミーティングルームには、ダークブラウンの楕円形の会議用テーブルが置かれている。
沙羅は、キャスターのついている椅子を引き、腰を下ろした。
横についてくれている壮年の男性の胸には、正義と自由の象徴の徽章、弁護士バッチが輝いている。
「真田先生、今日はよろしくお願いします」
緊張した面持ちの沙羅に、真田は目じりにしわを寄せ柔らかく微笑む。
「はい、頑張りましょう」
ひとりじゃないという事が沙羅の心を強くさせた。
ノック音がして、白髪交じりのスーツの男性・黒川弁護士と政志が入って来た。
簡単な挨拶を交わし、沙羅の斜向かいに座る。
アタッシュケースから茶色の封筒が取り出され、テーブルの上には、書類とタブレット端末が並ぶ。
コチコチと壁掛け時計の音が響き、時折、声をひそめた会話が聞こえる。
部屋の中には、ピンと張りつめた空気が漂っていた。
コンコンとノック音がして「失礼します」と女性の声がした。
入って来たのは、レトロ感のあるワンピースを着た片桐だ。
「こんにちは」
片桐は沙羅を見つけるなり、勝ち誇ったような笑みを浮かべ、政志の横に座ろうとした。
それを黒川弁護士にたしなめられ、片桐は不満げに口をとがらせ、少し離れた席に落ち着く。
片桐は今日は何の為に呼ばれたのか、たぶん理解していないのだろう。
沙羅が政志から離婚を言い渡され、片桐はめでたく政志と結婚宣言でもするつもりなのかも知れない。
まったく頭の中がお花畑だと、沙羅は思った。
真田弁護士が黒川弁護士に目配せをして、口火を切る。
「では、皆さまお揃いになりましたので、まず最初に佐藤政志さんと片桐綾香さんの不貞行為及び、精神的苦痛に対して、佐藤沙羅さんより慰謝料の請求の申し立ての件についてお話させて頂きます」
「先ずは、佐藤政志さんに不貞行為による離婚で慰謝料500万円と財産分与、月々の養育費7万円。片桐綾香さんに不貞行為による精神的苦痛の慰謝料500万円を請求致します」
片桐がテーブルをバンッと叩き立ち上がる。
「はぁ? なんで慰謝料を払う側にわたしの名前が入っているんですか? それにわたし妊娠しているんですけど」
女だと言うだけで、慰謝料を払わなくていいと、トンデモ勘違いをしている人種は一定数居るのは知っている。そして、片桐がこの一定数に含まれているという事は、ファミリーレストランで不貞の証拠写真を意気揚々と見せて来た頃から沙羅は予測をしていた。
しかし、弁護士を前にそれを押し通すつもりなのは、まったく開いた口が塞がらない。
真田弁護士も内心呆れているのだろうが、ポーカーフェイスで問い掛ける。
「片桐さん。離婚の慰謝料の意味をご存知でしょうか?」
「そんなの知っているわよ。慰謝料は離婚の時に女がもらえるんでしょう」
「違います。この場合のは慰謝料というのは、浮気や不倫不貞をされた被害者に対して、浮気をした側から支払われる弁償金、賠償金です」
「はぁっ!? 女でも払わないといけないの?」
「男女関係無く、不貞をした側がされた側に支払うモノです」
「じゃあ、このオバサンがなかなか離婚してくれなかったせいで、精神的苦痛を受けました。こちらこそ、慰謝料請求します」
「それには証拠を揃えて、申し立てしてください。もっとも弁護士はボランティアではありませんので、負けるとわかっている訴訟の弁護を引受ける弁護士は居ないと思いますが」
片桐は、悔しそうにグッと言葉を詰まらせた。
それでも、よほど言い返したいのか、片桐は勝気な姿勢を崩さない。
「いくら何でも500万円だなんて、法外な金額の請求おかしいじゃない!」
高いのは沙羅も承知している。けれど、家庭を壊された挙句、沙羅だけでなく娘の美幸にまで、暴言を吐かれたのだ。
贖罪をさせるには、慰謝料の支払いで数年苦しむような金額でなければ、意味が無い。
満額取れるとは思って居ない、でも、少しでも多くの慰謝料を支払う事で、自らの愚かな行いを後悔すればいい。
沙羅は、背筋を伸ばし、片桐を見据えた。
「片桐さん、あなたが主人と不倫をしたせいで、私は離婚をする事になりました。13年間積み重ねて来た暮らしを壊されたのです。そして、度重なる無言電話や自宅に訪問され主人との離婚を迫られました。その上、娘の美幸を待ち伏せして、暴行未遂をしていますよね。慰謝料の500万円は片桐さんの行いの結果です」
「はっ、500万円なんて持っていないわ。妊婦にそんな金額請求してバカじゃないの。政志さんとの子供を妊娠したわたしに対しての嫌がらせだわ」
片桐が小ばかにしたように両手を肩の横で広げて見せる。
その挑発を躱すように沙羅は、フッと口角を上げた。
「片桐さん、妊婦であろうがなかろうが過ちを犯したら、償いが必要なんですよ。それに、そのお腹の子供が政志さんとの子供って言うのも疑わしいのに、私がわざわざ嫌がらせをするいわれはないわ」
この場に居る、すべての人の視線が片桐に集まる。
「バカ言わないで、政志さんとの子供よ!」
部屋に片桐の声が響く。
真田弁護士が、手元の資料の束から、ファイルを取り出した。
「片桐さん、あなたは、ここに居る佐藤政志さん以外の男性とも関係がありますね」
真田弁護士の指摘に、片桐はまったく心当たりがありませんと言うように目を見開き小首を傾げる。
「まさか、わたしが?! 」
「片桐さんが、今お住まいの部屋は、山元康平 52歳 山元不動産社長が手配したマンションですよね」
「そ、それは、山元社長の善意で借りて居るだけよ!」
「そうですか」
真田弁護士が引くと片桐はホッとした顔を見せる。
だが、真田弁護士は言葉を続けた。
「では、吉川祐一 38歳 三興建設の専務と先日、腕を組んで買い物されていましたね。その後、宿泊施設に入られたとか」
片桐は開き直ったのか、悪びれる感じも無く言い返した。
「あー、買い物の途中で具合が悪くなったから支えてもらって、仕方なくホテルで休んだだけです」
「そうですか。では、上田大輔、24歳。セロウムというバーでバーテンダーをしている方で、片桐さんは足繫くこのバーに通い、閉店になると彼と連れ立って部屋に泊まっていますよね。お腹の子供の父親候補が複数人いますが、佐藤政志さんに結婚を迫ったのは、この上田さんに振られたからですか?」
サッと顔を青くした片桐は、悔し気に言い放つ。
「変な言いがかりはヤメて、みんな、ただの知り合いよ!子供の父親は政志さんに決まっているでしょう!」
「先に述べた方々と片桐さんがお付き合いをされているという証拠があります。山元さんと吉川さんも既婚者ですね。山元さんでは親子ほど年齢が離れ過ぎています。吉川さんは、専務という地位であるものの婿養子。離婚したらその地位はなくなります。それで、パパ活の相手の中で一番条件の良かった佐藤政志さんをお腹の子の父親にしようと白羽の矢を立て結婚を迫ったのでは?」
「そんな……」
片桐の男性遍歴を聞いて、政志は唖然と佇む。
まさか、自分以外に複数人の男が居るとは思わなかったのだろう。
そもそも、既婚者でありながら片桐の誘惑に乗った時点で、政志自身も二股をかけているのだ。片桐が自分だけを一途に想って居るだなんて、信じる方がどうかしている。
不倫をしても平気だと思って居る人に、貞操観念を期待するのは間違っているのだ。
沙羅がこの日の話し合いに同行したのは、片桐に慰謝料を請求するだけが目的ではなかった。政志が片桐と話し合いをする前に托卵をされそうになっている事を教え、自分の愚かな行いの結果を理解して欲しかったのだ。
「誰がなんと言おうと、この子の父親は政志さんなの! 責任とって結婚してよ!」
やぶれかぶれの片桐は、金切り声を上げる。
その片桐に向かって、沙羅はぞっとするほど美しい笑顔を向けた。
「そう、あくまでも片桐さんのお腹の子供は政志さんのとの子供だと言い張るのね。その子は不貞の動かぬ証拠という事になるから、やっぱり慰謝料の500万円は請求するしかないわ」
「だから、500万円なんて払うわけないじゃない。オバサンはわたしの前からささっと消えてよ」
「片桐さん、あなたの卒業した中学校では道徳の授業はなかったみたいね。じゃあ、仕方ないから、校長先生に道徳とは何かを説いて頂けるようにお願いしないと……」
沙羅の言葉をさえぎるように、片桐が叫ぶ。
「やめてっ!!」
沙羅は、片桐から視線を逸らさずにゆっくりと立ち上がった。
「片桐さんが通っていた中学校とても遠いのね。飛行機の距離だったけれど、今の校長先生がわざわざ駆けつけて来てくださったの」
片桐は首を左右に振り、「イヤ、イヤ」とつぶやいている。
フッと口角を上げた沙羅は、ドアへと視線を移した。それを合図に黒川弁護士がドアを開く。
そこには、恰幅の良い白髪頭のスーツの男性と夜会巻にしたメガネの女性が立っていた。
「こちら本町中学校の校長先生をなさっていらっしゃいます片桐亘行さんです。本日はお越しくださりありがとうございます」
顔面蒼白になった片桐綾香は、信じられない物でも見ているように口をパクパクと動かしている。
今朝、沙羅が早く家を出たのには理由があった。片桐の両親を空港に迎えに行っていたのだ。
片桐の両親には、弁護士から事前に連絡を入れてもらい、娘の真実の姿を見分してもらうために上京をお願いした。もちろん片桐綾香には、上京することは言わないと口止めをしてある。
怒り心頭といった片桐亘行は、震えるこぶしをグッと体の脇で握りしめた。それでも、親としての体裁を整えるべく沙羅に向かい頭を下げた。
「この度は、私どもの娘綾香が佐藤様にご迷惑をおかけしました事を深くお詫び申し上げます」
そして、顔をあげるとツカツカと綾香の元へ歩み寄る。
「お前は、なんという恥さらしなマネをしてくれたんだ!」
片桐亘行が、誰も止められないほどの速さで手を振り上げた。
娘の頬を打つバチンという音が、部屋に響き渡る。
「きゃー」という悲鳴と共に、ガタンと椅子ごと片桐綾香が倒れた。
それでも、怒りの収まらない片桐亘行の怒号が飛ぶ。
「パパ活だなんて言葉に惑わされおって。お前のしている事は、ただの売春行為だ。これが地元で知られたら、家族全員が仕事を続けるどころか、暮らして行くのだって難しくなる。ましてや誰の子かわからない子供を身ごもるなんて、とんだ恥さらしだ。このバカ者!」
そう言って、再び振り上げた腕を黒川弁護士が止めに入る。
「片桐さん、落ち着いてください。これ以上の暴力行為は容認できません」
ハッと我に返った片桐亘行は振り上げた手を下ろし「申し訳ない」と唇を嚙みしめる。
教育者でありながら、自分の子育てが失敗であったと認めるしかない状況は、亘行を落胆させるには十分すぎた。
娘の売春まがいの行い、未婚で父親がわからないような子供を妊娠した事が地元で知られたら、村八分どころの騒ぎじゃない。
あきらめたように亘行は大きく息を吐き、床の上で泣きじゃくる綾香の頭を押さえつけ土下座の姿勢を取らせる。
「佐藤様、娘の綾香が多大なご迷惑をお掛け致しました事を深くお詫び致します。先ほど、ご提示頂きました慰謝料はお支払い致します。綾香には子供をあきらめさせます。今後ご迷惑にならないよう、田舎に連れて帰り、本家筋に嫁がせますので、何卒ご容赦ください」
これ以上事を大きくせず、出来るだけ穏便に収束させたい。
しかし、亘行の気持ちも考えずに綾香が声を上げる。
「えっ⁉ 本家だなんて、忠明さんしかいないじゃない。あんな禿上がったオジサンで大姑までいるような農家の嫁なんて冗談じゃないわ」
頭を上げた亘行は、押さえつけていた綾香の頭を床に擦りつけるようにグッと押した。ゴンッと額が床にぶつかる音がする。
「本当に我が儘ばかりでみっともない。嫁に行けるだけでもありがたく思え」
片桐綾香が遠くに行くというのには大賛成だが、沙羅にはまだ納得しかねる事がある。
「片桐さん、お気持ちはわかりますが、私は慰謝料が支払われれば良いと言う訳ではありません。綾香さん御本人の反省と謝罪を頂きたいと思っております。それと、差し出がましいお話しですが、お腹の子供を産むかどうかは、綾香さん自身が決める事です」
「し、しかし……」
と言葉を濁し、亘行は綾香の様子を伺う。
「わ、わたしは、田舎になんか帰りたくない。昔の慣習にとらわれて女だからといって朝から晩まで、こき使われて何の楽しみもない生活なんてイヤ。だから、東京で結婚すれば田舎に帰らなくて良いと思ったのに、自由に生きたかっただけなのに」
駄々っ子のように泣きじゃくる綾香に沙羅はゆっくりと話しかけた。
「片桐さん、結婚って自由のための手段でも道具でもないのよ。ましてや子供を産んだら365日24時間目が離せなくて、自分のために使える時間なんて無いの。赤ちゃんって、小さくて弱くて世話をしないと死んでしまうの。親として、責任と愛情を持って育て行かなければならないのよ」
綾香は泣くのを止めて沙羅へと顔を上げる。
「結婚だって、田舎から逃げるためにするものでもないわ。血のつながりがない相手と婚姻関係を結び、法的にも認められた家族になる。他人と家族になるんだから簡単な事ではないわ。お互いを思いやり、譲り合い価値観をすり合わせて、居心地の良い場所を作って行かなければならないの。自分勝手に振舞っていては、その関係は簡単に壊れてしまう」
政志の視線を感じた沙羅は、チラリと見るが直ぐに綾香へと向き直った。
「法的に認められた婚姻関係を知って不貞を持ち掛けたのなら、片桐さんの真意がどこにあろうと、不貞に対して責任を取らないといけない。慰謝料の金額が高いというなら裁判で争ってもいいわ。裁判ともなれば片桐さんの所業が公開されて記録にも残るから、一生消えずに付きまとう。この先、本当に好きな人が出来て結婚したいと思っても、自分のしてきた事があなたの幸せを壊すのよ。大人なのだから泣いていないで、どうするべきか自分で考えて行動しなさい」
ただの恋愛なら横恋慕をしようが、嫌いになったからと別れようが、法的責任は問われない。
小説や映画では、略奪愛が悲しく美しく描かれている。
結婚している男を奪うという事を片桐綾香は、恋愛関係と同じように考えていた。
結婚するという行いを、真っ白なウエディングドレスを着て、楽しい新婚生活が始まり、そして、お腹の子供が産まれれば、祝福されるイメージしかなかった。
そう、おとぎ話のような表面上の綺麗な事ばかりに夢中で、現実を見ていなかったのだ。
「裁判……」
まさか、結婚している男を奪ったぐらいで、犯罪も犯していないのに裁判になるなんて考えた事もなかった。
欲しい物を欲しいと言っただけだった。でもそれは、大人になった今はゆるされない、度を越した我が儘。
示談に応じなければ、不倫したという事実が裁判の記録として残り、一生の傷となって付きまとうとは……。
自分の犯した罪の重さを、綾香は、やっと飲み込むことが出来た。
ショックを受けている綾香の耳に真田弁護士の声が届く。
「ご自身の行いを反省し、佐藤沙羅さんに誠意をもって謝罪すれば、裁判にはなりません」
助けを求めるように父親である亘行へ視線を送る綾香だったが、肝心の亘行は「自分の過ちは自分で何とかしろ」と言わんばかりに厳しい瞳のまま動かない。
綾香は細く息を吐き出し、居住まいを正すと、沙羅に向かって頭を深々と下げた。
「奥さま。ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
「いままで、いろいろ嫌がらせをしてすみませんでした。慰謝料も頑張ってお支払いします。ゆるされない事をしてしまいました」
これまでと違った綾香の真摯な態度にウソは無さそうだ。
「片桐さんからの謝罪は受け入れました。ただ、ひとつだけ訂正を……私、離婚を致しましたので、奥さまと呼ばれても……返事に困ります」
沙羅の口から離婚という言葉を聞いて、あんなに離婚してと迫ったのにその「離婚した」という事実が嬉しくない。それどころか、取り返しのない事をしてしまったと後悔する綾香だった。
「本当に申し訳ございません。東京で結婚できれば幸せになれると思い込んでいました。妊娠も……。そうですよね、子供を産んだら育てていかないといけないのに、わたし……深く考えていなかったのかも……」
声がだんだんと小さくなり、綾香の顔色は血の気が引いたように青く、額には脂汗を浮かべている。
「片桐さん、大丈夫ですか?」
「急に、お、お腹が……」
綾香がお腹を押さえてうずくまる。隣にいた亘行が慌てて支えると、離れたところでオロオロしていただけの母親・芙美が駆け寄る。
「あ、綾香。大丈夫か!」
「綾香」
「救急車の手配を!」「早く救急車を呼べ」と部屋の中が騒然とし、タオルやひざ掛けが運び込まれる。
さっき、亘行に叩かれた際、椅子ごと倒れた綾香はしたたか腰を打ち付けていた。それを思い出した沙羅は気が気じゃない。
「片桐さん、いま助けが来ますから、がんばって」
「あ、綾香っ!」
政志が綾香へと駆け寄り、そっと抱き上げた。
心配そうな顔をみせる政志へ、綾香が弱々しく微笑む。
「政志さん……。女慣れしてなくて真面目そうなあなたなら、騙されて父親になってくれると思ったのにアテが外れちゃった。悪い女に引っかかって……ホントだめな人」
青白い顔をした綾香の瞳から、後悔の涙がポロリとこぼれ落ちた。
綾香のせいですべてを失った政志だったが、それは弱い自分が招いた結果だとわかっている。
「もうすぐ救急車が来るから、しゃべらなくていい」
「きっと……わたしには、子供を育てられないから……これで……」
けたたましいサイレンの音が近づき、声がかき消される。
続きを話そうと口を開いた綾香は痛みが走り顔を歪ませた。
「こちらです」と焦った声とバタバタと足音がして、救急隊員が部屋へと入って来る。
綾香は政志の手から離れ、ストレッチャーに乗せられた。
「佐藤様、こんな事になって申し訳ない。後日、書面にもサインして送らせていただきますので、弁護士の先生もお手数おかけしますが、今日はこれで失礼します」
疲れ切った顔の片桐亘行が頭を下げた。お腹の子供をあきらめさせると言っていた亘行だったが、こんな結果を望んでいたわけではないだろう。
沙羅は複雑な気持ちで、片桐たちを見送った。
不倫は誰も幸せにしない。
一般的にも言われているが、まさに今の状況が物語っている。
己の欲求や性的な衝動を優先させ、家族を裏切る行為は、代償が付きまとう。
モラルを外れてしまうのは、責任感が欠如し、パートナーに対しての尊敬や感謝の念の欠落が原因なのだろう。
いまさら、政志に対して想いはない沙羅だったが、目の前で綾香を抱きしめられたのは、まるで安いドラマを無理やり見させられたようで、不快感を感じた。
いっそ、片桐亘行に殴られたのが政志だったら良かったのに……とさえ、思ってしまう。
誰のために日にちを合わせて同行したのか、わかっていない政志に苛立ちを募らせた。
優しいと思っていた政志の性格は、裏を返せば優柔不断。相手に良く思われたいと、自分を良く見せたいと思ってその場かぎりの行動する。
離婚協議書作成のために、再び席に付いた沙羅は、政志の顔を見るのも嫌で既に帰りたい気分だった。
黒川弁護士より書類が渡される。
金額は概ね沙羅の希望した通りの内容で異論は無い。
ただ、美幸との面会交流が月に2度と記載されているのが気に掛かる。
「あの、面会交流の条項に美幸が希望しなかった場合は、会わなくても良いと追加してください」
「何でなんだ? 養育費を払うんだし美幸に会わせてくれていいじゃないか」
政志は不満の声を上げた。
でも、民法第766条1項に「子の利益を最も優先して考慮しなければならない」とされている。
意趣返しではなく正当な権利だ。
「信じていた父親が母親以外の女性と付き合っていたと知ってショックを受けています。ましてや、その相手に殴られそうになったんですよ。美幸は父親に裏切られ傷ついているんです」
「でも、美幸に会えなくなるのは……」
と、政志はなおも食い下がる。
確かに美幸には、良い父親として接していた政志だったが、片桐との不倫を知った美幸からは信用を失い、嫌悪の対象になっている事を自覚していない。
「政志さんの不倫相手の片桐さんに、美幸は殴られそうになったんですよ。大人相手に、どんなに怖い思いをしたのか美幸の気持ちを考えてください。何も一生会わせないと言っている訳じゃないでしょう。美幸が会いたいのであれば、反対しません」
沙羅の言葉にうなずいた真田弁護士が後を引き継ぐ。
「そうですね。お子さんの気持ちが一番重要です。父親との面会を無理やりしてもお互い気まずい思いをするばかりで、返って溝が深まる原因になりかねません。お子さんの気持ちが落ち着いている時に会うのが良いと思います」
「それなら……」
「では、離婚協議書に明記します。よろしいですね」
黒川弁護士が念押しの確認に政志が力なく答える。
「……はい、よろしくお願いします」
離婚協議がまとまり、話し合いの終わりが見えて来た。
途中、ハプニングもあったが、どうにか慰謝料も満額受け取る運びになって一安心だ。がめついと思われようと、子供との生活がかかっているのだから仕方ない。
あと、ひとつ言い忘れた事があったのを沙羅は思い出した。
「今後、政志さんが誰と結婚しようが自由だけれど、誰のタネかわからないような子供を身ごもる頭も股もゆるい女性はやめてくださいね。政志さんの子供は美幸の兄弟になるんですから」
片桐綾香に托卵されそうになったのに、その綾香に駆け寄るような日和見の男には、これぐらいの嫌味はゆるされるはずだ。
「この先も美幸と会いたいのなら、顔向け出来ないような事はしないでください」
沙羅の言葉に政志はビクッと体を振るわせた。そして、羞恥と自身への怒りなのか、見る見る顔を赤らめさせていく。
「沙羅……片桐の事、本当にすまなかった。」
「気持ちや行動が伴わない軽い謝罪はいりません。私からあなたに望む事は、美幸の良い父親で居てください。これだけです」
きっぱりと言い切る沙羅の瞳は冷ややかだ。
政志は、これ以上何を言ってもムダだと覚った。
「……わかった。精一杯努力する」
「では、これで話し合う事はすべて終わりましたね」
と、沙羅は弁護士たちへ水を向ける。
「はい、慰謝料の支払い期限は、佐藤政志さん、片桐綾香さんの双方共に1週間となっています。振り込みの確認が取れなかった場合には、再度請求致しますのでご連絡ください」
「わかりました、ありがとうございます。では、この後予定がありますので失礼させて頂きます」
沙羅は、椅子を引き立ち上がった。
政志と綾香の短絡的思考は良く似ていると思う。
その場を取り繕い、芯の無い行動をする。先ほど受けた謝罪も綾香はその場の雰囲気に酔い、悲劇のヒロイン気分でしたのだろう。
ほとぼりが覚めれば、きっと今までと同じような生活に戻るのかも知れない。
話し合いをしていた部屋から出た沙羅は、グンっと大きく伸びをした。
綾香と関係のあった残り男性の内、既婚者はふたり。そのふたりの家に《《誰か》》から匿名のタレコミが1週間後に届くのは仕方ない。
片桐綾香には、その場限りではなく、長い時間自分の過ちを見つめ直す必要があるのだから。
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