「酒井さん、お世話になりました」
美幸をお泊りさせてもらったお礼に、マカロンの詰め合わせを手渡した。
「気を使わないで、全然お世話していないのよ。美幸ちゃんには陽菜の勉強見てもらったし、うちの子の方がお世話になっちゃった。美幸ちゃん、また来てね」
ほめられた美幸は、照れくさそうに笑みを浮かべながらペコリとお辞儀をした。
「はい、陽菜ちゃんママ、ありがとうございました。陽菜ちゃん、また遊ぼうね」
「うん、美幸ちゃんバイバイ」
ありがとうございましたと手を振って、沙羅と美幸は駅へと向かい歩き出した。
普段と違い濃紺のスーツを着ている沙羅を、上から下まで眺めた美幸は満足気に「ふふっ」と笑う。
「お母さん、今日はカッコいいね」
本当は政志と離婚協議のための戦闘服として、着たのだと美幸には言えなかった。
「そう、ありがとう。これから、お母さんが働く会社の社長さんに会うからちゃんとした格好したの」
「社長さん⁉」
意外な登場人物に美幸は目をパチクリさせている。
美幸の中で「社長さん」とはどんなイメージなのか……。恰幅のよいおじさんだとしたら、スラっとして若い田辺社長を見たらビックリするだろう。
想像するとチョット楽しい気分になる。
「うん、美幸とお母さんがふたりで暮らす部屋を探しているって言ったら、親切にもお部屋を紹介してくださるそうなの。美幸にも一緒に見てもらって、気に入ったら決めようかと思って」
「そうかー。楽しみだね」
「ねえ、美幸。お父さんと離れて、お母さんとふたり暮らしになってもいいかな」
「うーん。お父さんに会いたくないから、お母さんとふたりで暮らすのは賛成かなぁ。でも、受験はどうなるの? わたし中学受験していいの?」
親の勝手な行動に振り回されるのは、いつだって子供だ。
美幸の頑張りを一番近くで見てきた沙羅は、申し訳なさで胸が痛んだ。
親がバックアップしなければいけない、この時期に離婚で子供を悩ませ、最低な事をしている。
「……美幸はあの学校に行きたいのよね」
美幸は視線を下に落とし、地面を蹴り上げるようなしぐさで、言いづらそうに口を開いた。
「うん。でも、私立はお金が高いっていうし、チア部に入りたいのも、わたしの我が儘だし……」
「お金の事は心配しなくていいのよ。お父さんが美幸のために用意してくれているわ」
「お父さんが?」
美幸は意外だと言わんばかりに沙羅の方へ顔を向ける。
「美幸の事はお父さんも大切に思っているのよ」
「そうなんだ……」
再び視線を落とし、地面を蹴り上げた。
美幸は心の中で、父親を慕う気持ちと軽蔑する気持ちが行き交い複雑に揺れる。
沙羅は、眉尻を下げ困ったように微笑んだ。
「お母さんはね。昔、ある事情があって、行きたい学校に受験出来なくてずっと後悔していたんだ。だから、美幸には好きな学校を受けてもらいたいの 」
美幸に好きな学校に受験をしても良いんだよと伝えたかったのだが、美幸は違うところに食いつく。
「ねえ、ある事情ってナニ⁉」
さっきまでの沈んだ様子と違い、好奇心いっぱいの瞳を向けられた。
沙羅は自分の失言に頭を抱える。
「そっ、それは……」
歩きながら話をしているうちに待ち合わせ場所の駅に着いていた。
時計を見ると約束より少し早い時間。田辺を待たせずに済んだとホッとして、目印の改札前の柱の所で待つことにした。
すると、さっきの話しがよっぽど気になるのか、美幸の追求が止まらない。
「それで、ある事情って何だったの?」
こんな話しを娘にするのはどうかと思うが、元はと言えば自分が失言をしたせいで興味を持たれたのだ。沙羅は、重い口を開く。
「んー、今じゃ考えられないんだけど、お母さんの地元で力のある人に反対されて、その頃のお母さん子供だったから、怖くて逆らえなくて……。それで関西の大学をあきらめて東京の大学に進学したの」
「えーっ、そんなの変!」
「そうよね。でも、その頃は誰にも相談できなくて、仕方ないってあきらめたの」
「その反対した人ってどんな人?」
おそらく、沙羅とどんな関係の人物なのか聞いているのだと思う。けれど、高良聡子との関係を説明するなら、慶太と付き合っていた話しをする必要がある。美幸になんと言っていいのか、沙羅は考えあぐねた。
「その人は……綺麗で冷たい人だったわ」
寂し気に視線を落とす沙羅の様子に、美幸は自分が余計な事まで聞きすぎてしまったのだと思った。
向かい合い押し黙るふたりに声が掛かる。
「佐藤さん、お待たせしてしまったかな?」
黒のトラウザーパンツにグレーのカルゼテーラードジャケット、カジュアルスタイルの田辺だ。
もしかしたら、美幸と話していた内容を田辺に聞かれてしまったかも……。と、沙羅は思った。
でも、金沢で起きた出来事と関係のない田辺から誰かに伝わるような事はないだろう。
「田辺社長、今日はありがとうございます。この子は娘の美幸です」
「こんにちは、佐藤美幸です」
すらっと背の高い田辺を見てビックリしたのか、美幸は目をクリクリと丸くしている。
「こんにちは、田辺です。美幸ちゃん、今日はよろしく」
田辺と挨拶を終えた美幸は、沙羅の耳に口を寄せ、コソッと話す。
「ねえ、お母さん。社長さんって、若くてカッコイイね」
しっかり聞こえてしまったのか、田辺がクスリと笑う。
「ありがとう。美幸ちゃんからしてみたら、おじさんと呼ばれる年代なのに、褒めてもらえてうれしいよ」
「お母さん……」
美幸は恥ずかしいのか、顔を赤くして沙羅の後ろに隠れてしまった。
「ふふっ、お母さんは、素敵な社長さんの居る良い会社で働けるから、美幸と安心して暮らせるのよ」
「うん」と、うなずいた美幸は、おずおずと顔を見せる。
その美幸に田辺がニコッと微笑むと、余計に顔を赤くして沙羅の背中に隠れてしまう。
「さあ、お部屋を見に行こうか。二駅先になってしまったんだけど、良い条件だと思うよ」
普段、車で移動している田辺がわざわざ駅で待ち合わせをし、電車を利用したのは、住む場所の駅までの街の景色や環境がわかりやすく伝えるためだ。
駅の階段で田辺の後ろ姿を見ていた沙羅は、金沢駅で別れた慶太の広い背中を思い出していた。
自分の事は忘れてと言ったのに会いたくてたまらない。
電車を降りてからも、どこか寂し気な沙羅の様子を美幸は密かに気が付いていた。
「お母さん、どうしたの?」
「ごめんね。ちょっと考え事しちゃった」
沙羅は慌てて、美幸へ微笑みを返した。
美幸とふたりで暮らして行くために、生活の基盤を作って行かなければならないのに、弱い自分が顔を出す。
しっかりしないとダメだな……。と気持ちを引き締める。
「お母さん、お部屋楽しみだね。どんな感じなんだろう」
沙羅を元気づけるように、美幸は努めて明るく話し出す。
ただ、その返事をしたのは、田辺だった。
「説明不足だったね。急に海外赴任になった友人から掃除を頼まれていた物件でね。駅近の上、築浅でセキュリティーもバッチリ。家具や家電もそのまま使っていいって言っていたよ」
「家具や家電もいいんですか?」
家具付き物件とはありがたい。
家具も家電も一から買い揃えるとなると、かなりの金額だ。
「とは言っても、気に入った家具を使いたいだろうから、使わない物はレンタル倉庫に預けられるし、好きにレイアウトしてもらって大丈夫だよ」
「そんな好条件の物件、お家賃が……」
そう、好条件イコール高価格なのだ。
沙羅のお給料を払う立場の田辺なら、無茶な家賃を言わないと思うのだが、この辺りの相場を考えると油断出来ない。
「いや、部屋って使わないと痛むから、風を通してくれる人がいるのは助かる。それに帰国までの短期貸しだから、相場の半額ぐらいでOKをもらっているよ」
「ただ、貸し出し期間が、海外赴任から戻るまでの1年と短いのがネックでね。それでも良かったら……っていう条件なんだ」
田辺は申し訳無さそうに眉尻を下げる。
でも、沙羅はそれを聞いて安心した。
何にも条件が無くて、家具付きの家賃半額だったら怪し過ぎて、何か裏があるのでは?と考えてしまうが、期間限定というなら頷ける。
「いえ、良いお話ありがとうございます。私もお部屋を拝見するのが楽しみです」
駅から徒歩10分の所にあるマンション、casa del ventoの502号室のドアを開けた。人感センサーが反応してパッと玄関が明るくなる。
美幸のテンションもMAXだ。
「わー、お部屋いろいろ見ていいですか?」
「ああ、あちこち探検してごらん」
「はーい、おじゃまします」
田辺の了解を取るなりパタパタとあちこちのドアを開け、美幸の探検が始まる。
「トイレだ」「こっちは、お風呂だ」と、年相応にはしゃぐ美幸の様子に沙羅は目を細めた。
2LDKのお部屋はふたりで暮らすには十分の広さ。
美幸の学区から外れてしまうが、卒業までの半年なら越境通学も学校の許可が降りるだろう。
「田辺社長、本当にこのお部屋お借りしていいんですか?」
「もちろん、そのつもりで紹介しているんだから使ってもらえると嬉しい。それに佐藤さんと美幸ちゃんになら安心して貸せるよ」
「田辺社長には、お世話になりっぱなしですね。足を向けて眠れません」
「あはは、大げさだな。佐藤さんの手助けが出来るの僕も良かったと思うし、《《紹介してくれた人》》も安心だと思うよ」
沙羅は、紹介してくれた人と聞いて、田辺の名刺をくれた日下部真理を思い浮かべた。
「そうですね。limpiezaを紹介してくれた日下部真理にもお礼の連絡入れておきます」
素直な沙羅の言葉に、田辺はキョンと固まる。
「あっ、ああ……そうだね」
と返事をしたものの。
なかなか前途多難だなと、同情を寄せる田辺だった。
もうすぐ、仕事も兼ねて上京すると言っていたから偶然を装い、ふたりを会わせてあげたいと心の中で甘い陰謀を企てる。
「お母さーん、わたしの部屋こっちでもいい?」
美幸の興奮気味の声が聞こえて、困り顔の沙羅がそれをたしなめる。
「美幸、ちょっと落ち着いて」
「ごめんなさい。でも、楽しみなんだもん。ねえ、このお部屋にいつから住めるの?」
沙羅はいつ引っ越しをしようかと顎に手を当て本気で悩む。
すると横に居る田辺が助け船を出してくれた。
「この部屋自体は直ぐにでも住めるよ。でも、美幸ちゃんの今住んでいる家から持って来る物があるなら準備をしてからだよね」
「そうかー。直ぐに住みたいけど、準備しないとですよねー」
父親の政志と会いたくない美幸は、ガックリとうなだれる。
それを察した沙羅は、美幸を励ますよう声を掛けた。
「今日から荷造りして、早く引越しが出来るように頑張りましょう」
「うん!」
「じゃあ、この部屋に住むのは決定でいいね。佐藤さん、鍵を渡して置くから」
「ありがとうございます」
沙羅は、田辺から部屋の鍵を受け取る。
一歩前へ進んだような気持ちになり、自然と笑みがこぼれた。
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