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都築七美
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葉菜
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もな
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「お母様、お願いです。嫁ぎたくありません!!」
白無垢の裾を膝の下に敷いたまま、私は継母の袖にすがりついた。実の母が死んでから、お母様と呼んできた人だ。継母は私の指を一本ずつつかむと、爪を立てながら袖から引き剝がしていく。
「離しなさい、みっともない。迎えが待っているのよ」
「嫌です。お母様、私、死にたくないんです!」
立ち上がった継母を追い、もう一度手を伸ばす。その途端に頬を張られ、私は横に倒れ込んだ。畳に手をついて体を起こすと、口の中に血の味が広がる。
「泣くなら顔を上げて。白無垢を汚すんじゃないよ」
頬を押さえようとした手まで払われ、私は涙に濡れた顔を上げるしかなかった。
今日は、私が白蛇様に嫁ぐ日だ。里では、あの神様に嫁いだ娘は食われて、二度と帰ってこられないと言われている。
すぐそばの鏡台の前では、一つ下の異母妹、|珠実《たまみ》が贈り物の箱を開けていた。継母は実の娘に目をやってから、私に言った。
「珠実には、ちゃんとした縁談が来ているの。あんたなら、食べられても構わないでしょう」
十八歳の妹は、銀の藤の花が揺れる簪を取り出し、私にかざしてみせる。
「これ、私がもらうわね。どうせ向こうでは、使う暇もないでしょう」
「それは、嫁入りの……結納品なんじゃ」
「何よ、その顔は。欲しいの? あなたには贅沢すぎよ。それに、どうせ食べられるんだから、いらないでしょう」
珠実は簪を髪に挿し、わざと首を傾けて笑った。悔しくて睨みつけると、継母がまた手を上げかける。
私は身を縮め、戸口で贈り物の目録を読んでいる父に顔を向けた。
「お父様、ここで働きますから。今までどおり、何でもしますから、どうか」
「神を怒らせて、この家を潰す気か!」
父は私を見下ろし、手にしていた目録を畳に叩きつけた。
「酒蔵を増築するのに、いくら借りたと思っている。あの泉まで取り上げられたら、どうするつもりだ」
|倉橋《くらはし》家の酒は、白蛇様が先祖に授けた泉の水で仕込んでいる。うちの敷地に湧くその水のおかげで酒の評判がよいのだと、父はいつも自慢していた。
その泉を守るためなら、十九歳の娘が食われてもいいらしい。
「早く乗れ。お前は、大人しく従えばいいんだ」
逆らえば父にも殴られる。珠実はもう鏡に向き直っていた。私は部屋から連れ出され、白い袖で顔を覆ったまま、門の前に止まっている輿まで歩かされた。
輿の中でどれほど泣いても、誰も引き止めに来てはくれなかった。
◇
山道を輿に揺られ、ようやく降りた時には、神域の屋敷に灯がともっていた。
玄関で待っていた白髪の女の人が、上がり框で手を差し伸べてくれる。
「お足元にお気をつけください。こちらで白蛇様のお世話をしております、|澄《すみ》と申します」
澄さんに支えられ、玄関に上がった。
「こちらが白蛇様でございます」
廊下の奥から歩いてきたのは、銀白色の髪をした青年だった。金色の目で私を見つめ、喜びを隠そうともせず、白い着物の袖から手を差し出す。
「|千鶴《ちづる》。待っていた」
「この方が、白蛇様……?」
「|伊織《いおり》と呼んでほしい。ようやく顔を見られたな」
食べる相手を、こんなに優しい目の綺麗な顔で迎えるのか。差し出された手を取れずにいると、伊織様は私の頬を見て足を止めた。
「その頬はどうした」
「何でもありません」
家のことを言いつけて、あの人達に知られたら、もっとひどい目に遭うかもしれない。私がうつむいていると、澄さんが風呂の支度はできていると告げる。
湯で顔を洗うと、打たれた頬がひりつく。澄さんが用意してくれた冷たい布をしばらく当ててから、借りた浴衣に着替え、白無垢を預けた。
通された座敷には、白飯と豆腐の味噌汁が用意されていた。卵焼きの甘い匂いもする。勧められるまま座って箸を取ったものの、食べる気にはなれない。
伊織様は私のすぐ隣に腰を下ろし、横から顔を覗き込む。
「食べないのか。冷めてしまう」
「いただきますから……」
「千鶴、こちらを見て」
顎に手が伸びてきて、身を引いた拍子に箸を取り落とした。太らせてから食べるのかもしれない。もう、黙って座ってなんかいられなかった。
「食べないでください……! 何でもしますから、お願いします、殺さないで」
伊織様は伸ばしかけた手を止め、私を見据える。
「誰がそんなことを言った」
「家で、白蛇様の生贄になるんだって。帰ってこられないから、覚悟して行けと」
「あなたも喜んでいると、ご両親から返事をもらった。違うのか」
「嫁ぎたくないと、お願いしました。そうしたら、お母様が……」
打たれた頬を押さえると、縁側の向こうで水音がした。池の水が激しく波立ち、縁の石に叩きつけられている。風もないのに、どうして。
伊織様は一度庭に目をやってから、私の肩を抱く。
「食べない。私は、あなたを嫁に欲しいと伝えたはずだ」
「お嫁に……私を?」
「千鶴を嫁にほしいと、名指しした。生贄を寄越せなど、一言も言っていない」
抱き寄せられ、浴衣越しに彼の胸を感じる。伊織様は片腕で私の背を支え、もう片方の手で、打たれたところを避けながら涙を拭ってくれた。
食べられずに済むと分かり、泣きながらほっと息をつく。けれど、家へ帰れと言われたらどうしよう。
「家には帰りたくありません」
伊織様の袖を両手でつかんだ。神様を怒らせて戻ったら、父が何をするか分からない。
「また殴られます。あそこには、帰さないでください」
「あの家には渡さない。あなたには、ここにいてほしい」
伊織様は私を強く抱き締め、落ち着くまで離さなかった。
「私の妻になるかどうかは、今夜決めなくていい。まずは食べて、休みなさい」
私は何度も頷き、袖から手を放して少し体を離す。背中には、まだ彼の腕が添えられている。澄さんが新しい箸を渡してくれる。
「卵焼きは好きだろう」
どうして好みを知っているのだろう。不思議に思いながら口に運ぶと、甘くて柔らかい。そこでようやく、お腹が空いていたことに気づいた。
伊織様は私が飲み込むのを見届けてから、自分も箸を取る。私は白飯をひと口食べた。飲み込もうとするたびに喉が詰まって、また涙が出た。
◇
その夜、用意された部屋で布団の端に座り、髪をほどき終えた時だった。少し開いていた障子の隙間から、小さな白蛇が入ってくる。
白蛇は畳の上を進んで私の膝に乗ると、ためらいもなく袖に潜り、手首に頭を乗せる。
昨冬、離れの前で拾い、一緒の布団で冬を越した蛇だ。冷え込む夜には、いつもこうして袖の中に入り込んできた。
「あなただったの。どこへ行ったのかと思った」
袖口からすくい上げ、頬を寄せる。春になって急にいなくなってから、ずっと気にかかっていたのだ。
「元気になったのね。よかった……ここに住んでいたの?」
白蛇は私の手からするりと滑り、畳に降りた。ついさっきまで触れていた白い体が、ほどけるように大きくなっていく。目の前に現れたのは、人の姿をした伊織様だった。
「ああ。あなたを迎える支度をしていた」
「い、伊織様!?」
目の前に膝をつく伊織様から、座ったまま後ずさった。布団に手をついた拍子に体勢を崩し、慌てて彼の袖をつかむ。抱き留められて畳に座り直しても、彼の顔から目を離せない。
冬じゅう布団に入れて、眠れない夜にはお腹のあたりに抱え込んでいた。あれが、この人?
「どうして、蛇に……あ、もともと蛇でしたけど」
「昨秋の洪水を覚えているか」
「はい。川があふれるからと、蔵の荷物を運ばされました」
「あれを止めた後、力を使い果たしてしまってね。冬になっても人に戻れず、あなたに拾われた」
私は伊織様の袖に触れた。さっきまで手に乗せていた蛇が入っているわけでもないのに、つい確かめたくなってしまう。
「ずっと眠っていたんじゃないんですか」
「時々は起きていた。あなたが帰ってきて、布団に入れてくれる頃には」
「じゃあ、私が話していたことも?」
「卵焼きは甘いほうがいい。珠実の皿に盛るたび、自分でも一人前食べたくなる、と」
夕食に好物が出てきた理由が、やっと分かった。私は神様に、自分も卵焼きをたらふく食べたいなんて話していたのか。恥ずかしくなって、顔を伏せた。
殴られたことだけは、あの蛇にも話せなかった。口にしたら、泣くのを我慢できなくなりそうだったから。
「春に力が戻って、ここへ帰った。あなたの親に申し入れて、順を踏んで迎えるつもりだった」
伊織様は、打たれた私の頬に目をやった。
「だが、返事はあなたから直接聞くべきだった。怖い思いをさせたな」
「本当です。あの蛇が伊織様だと知っていたら、あんなに怖がらずに済んだのに。何度も布団の中を探したんですよ。何も言わずにいなくなって……寂しかったんです」
小さな声で付け足すと、伊織様は私の背に腕を回す。
「私を探してくれたのか」
「だって、誰に話せばいいか分からなくて」
「千鶴」
自分から身を寄せかけて、伊織様の胸に頬が触れたところで固まった。蛇なら抱き込めるのに、今は私のほうがすっぽり腕に収まってしまう。伊織様は嬉しそうに抱き締めてくるから、ますます困る。
「あの、助けたお礼なら、もう十分です。こんなにしていただかなくても」
伊織様は私の顔を自分のほうへ向け、真顔で言う。
「屋敷に戻っても、あなたが隣にいないのが嫌だった。だから迎えに行かせた」
「でも、私の布団、あんなに薄くて」
「『私の布団、薄いけど。それでもよかったら、ここにいてね』と言ったのは、あなたのほうだ」
拾った晩、冷えきった白蛇にかけた言葉だ。離れには火鉢もなく、せめて布団に入れようと、その端を持ち上げたのを覚えている。
「私はあそこにいたかった。あなたが話し終わって眠るまで、起きていたかった」
私はただ聞き役が欲しくて、勝手に抱えていただけのつもりだったのに。
伊織様の胸に額を預けた。
◇
屋敷に来て三日目の午後、澄さんが座敷に反物を運んできた。私は畳に並べられた布を見て、膝の上で手を握りしめる。
「私の着物を仕立てるんですか」
「ええ。まずは普段のお召し物を。気になるお色はございますか」
山吹色の反物に目を留めると、隣の伊織様がそれを手に取る。肩に広げてもらい、布にそっと指を滑らせる。こんなにすべすべした袖なら、手を通すのも気持ちよさそうだ。
「似合う。この色が好きなのか」
「はい。でも、珠実のほうが似合うかも……」
「妹に着せるために選んだのではない。私は、あなたに着てほしい」
いつもより低い声で遮られた。伊織様は山吹色の布を私の肩に当てたまま、離そうとしない。
また言ってしまった。珠実が欲しがる前から、自分で譲るつもりになっていたなんて。
私は布の端を持ち、肩から下ろして胸に抱え直した。
「私、これが欲しいです。これで作ってください」
伊織様が身を寄せ、髪に口づける。澄さんの目の前で何をするのかと見上げた時には、もう機嫌よく私の髪を撫でていた。
「出来上がったら、最初に私に見せて」
「……今も、当てているのを見ているじゃないですか」
「出来上がったものを着ているところは、まだだ」
そんなことを言われたら、早く仕立ててもらいたくなる。澄さんに反物を渡す時、私はつい、いつ頃仕上がるのか尋ねてしまった。
◇
その日の夕方、部屋で向かい合って座ると、伊織様は薬の入った小壺をそばに置いた。
「手を見せて。澄に薬を用意させた」
「自分で塗れます。汚い手ですから」
「洗ってきたのだろう」
「そういう意味じゃなくて……あかぎれで、見苦しいんです」
浴衣の袖に隠しかけた手を取られた。水仕事で切れたところに触れないよう、伊織様は私の手を下から支えている。
「冬には、私をこの手で抱いていた。今さら隠すな」
そう言われると、もう手を引っ込められなかった。伊織様は少しずつ薬を塗り、私が痛がると、指に込める力を弱めてくれる。
小壺の蓋を閉めたので、手当ては終わったのだと思った。けれど、引こうとした手をつかまれ、傷のない手の甲に唇が触れた。
「何を……」
文句を言いかけたのに、彼の唇を見つめたまま黙ってしまう。伊織様が顔を上げた。
「唇を見つめられると、口づけてほしいのかと思う」
「違います。びっくりしただけです」
「本当に?」
顔を近づけられ、私は彼の胸を押した。
「急に近づかないでください」
伊織様はそこで止まり、握っていた手も放した。けれど、離れて座り直そうとする伊織様の袖を、私はつかんでいた。
「ここにいてほしいなら、そう言ってくれ」
「……いてほしいです」
伊織様が私の隣に座り直して指を絡めても、今度は手を引っ込めなかった。
◇
それから数日たった夕方、私は部屋で小さな白蛇を膝に乗せていた。伊織様だと分かっていても、この姿なら気楽に頬を寄せられる。
「あなた、こっちの姿だと大人しいんですね。人の時も少しは……あっ」
白蛇は膝から畳に滑り降り、その場で人に戻った。伊織様は座ると私の腰に腕を回し、体を寄せてくる。
「さっきまでは、あれほど触ってくれたのに」
「同じようには、できません」
「蛇の時だけ撫でてくれるのは、不公平だろう」
その顔で言うのはずるい。蛇を撫でている時には、口づけたいなんて思わない。
伊織様は私の手を取って自分の頬に当てると、手を放す。薬を塗ってもらうようになって、深かったひび割れも塞がりかけている。私は手を引っ込めず、その頬をそっと撫でてみる。
伊織様が目を細める。もっと触ってもいいのだと思った途端、ふと嫌なことを考えてしまった。
「前の奥様にも、こうなさっていたんですか」
思ったよりきつい声が出た。自分でも驚いて、言い直そうと口を開きかける。
伊織様が私の腰を引き寄せた。
「前の妻などいない。妻にしたいと思ったのは、あなただけだ」
「でも、嫁いだ娘は食べられるって。前にも誰かが来たんじゃ……」
「あなたのほかに迎えた娘はいない。誰の話だ」
そう聞かれて、答えに詰まった。里で聞かされたのは、いつも『嫁いだ娘』だった。誰の娘とも、いつの話とも聞いていない。伊織様は、白蛇様として遥か昔からいたのだから、誰にも分からない。
「私も、名前までは知りません。誰かがいたんだと、ずっと思っていました」
誰のことかも知らない話を、私は本当だと思っていた。あの日、死にたくないと泣きながら輿に乗ったのは、何だったのだろう。
それでも、伊織様がほかの誰かを妻に迎えたことはないと分かって、ほっとした。頬に当てていた手を、そっと離す。
「それほど嫌だったか」
「嫌です。他の方にもこうしていたなんて、考えたくありません」
「千鶴。私も、あなたを誰かに渡す気はない」
見つめ返していると、伊織様が顔を寄せてきた。今度は胸を押さず、私も顎を上げる。
唇が触れた瞬間、ぎゅっと彼の着物をつかんだ。思っていたより柔らかくて、離れた後も、すぐそばにある唇を見てしまう。
「もう一度」
小さな声で頼むと、伊織様は返事もせずに私を見つめた。聞こえなかったのかと顔を上げ直したところへ、今度は深く口づけられる。
自分で頼んだくせに息を継ぎ損ね、彼の肩を押して離れた。それでも伊織様は、私を抱く腕だけは緩めなかった。
「もう一度では、済ませられる気がしない」
「私だって、今だけじゃ嫌です」
口にしてから、どうしようもなく恥ずかしくなった。けれど、もう取り消したくない。
「伊織様のお嫁さんに、なりたいです」
他の女の人を抱くところなんて見たくない。明日も、その次の日も伊織様の隣に座って、夜にはこの腕の中で眠りたい。ただここに置いてもらえるだけでは、もう嫌だった。
伊織様は私を胸に抱き込み、髪に顔を埋めた。
「毎晩、隣に寝かせたいのを我慢していた」
「毎晩って、そんな」
「妻になってくれるのだろう。婚礼の支度を急がせる」
伊織様が澄さんを呼ぼうとしたので、私は慌てて袖を引いて止めた。今の顔を見られては困る。
伊織様は少し待ってから、里の社で花嫁を披露し、その後、神域で式を挙げるのだと話してくれた。
◇
花嫁披露の日、私は出来上がった山吹色の着物に袖を通した。帯を結んでもらっている間は嬉しかったのに、輿に向かおうとして、廊下で足が止まる。
今日は里の社に、父たちも来る。お母様に打たれた頬はもう痛まないけれど、怒鳴られたら何も言えなくなるかもしれない。
先を歩く伊織様の手をつかむと、すぐに振り返ってくれた。
「今日は、そばにいてください」
「そのつもりだ。あなたを一人で会わせはしない」
「私からも言いたいんです。伊織様の妻になるって」
伊織様は指を絡め、歩き出した私に足を合わせてくれた。
里の社には、氏子たちが集まっていた。手水鉢の向こうに並ぶ酒樽には、うちの名が入っている。
私は伊織様と、境内の縁台に並んで座った。つないだ手を離せずにいると、彼が両手で包み直してくれる。
「冷えている。もう少し、このままでいよう」
顔を寄せて言うので、私は慌てて周りを見た。石段を上ってきた父たちが、私たちの前で足を止めている。
珠実は伊織様をじっと見つめ、それから私たちの手に目を落とした。
「お姉様が、本当に白蛇様のお嫁さんに……?」
「見れば分かるでしょう。千鶴、ご挨拶もなし?」
継母は珠実を黙らせ、私の着物を上から下まで眺めた。父は、伊織様が私の手を温めているのを見て、口元を緩める。
「娘がお世話になっております。これからは、私どもの酒もいっそうお引き立ていただけるものと」
伊織様は父に答えず、珠実の髪を見た。銀の藤の簪が、あの日と同じように耳元で揺れている。
「なぜ、それをあなたが挿している。千鶴に贈った品だ」
「姉が私にくれましたの。ねえ、お姉様」
私は首を振った。本当にお嫁に迎えてもらえると知っていたら、あの日、もっと強く止めただろうか。それとも、どうせ取り上げられると思って黙っていただろうか。
伊織様が私を見る。
「ほかの品は。反物も届けさせたはずだが」
「何も……いただいていません」
伊織様は私の片手を握り直して立ち上がった。私もその隣に立つ。
「千鶴は遠慮がちな子でして。妹が欲しがると、すぐ譲ってしまうのです」
継母は笑顔のまま、珠実を前に押し出した。私が食べられていないと知ったら、今度は実の娘を嫁に出したがるとは。
「正式なお式がまだでしたら、珠実をお迎えください。姉よりずっと器量のよい子です」
「珠実には、縁談があるでしょう」
思わず口を挟むと、珠実が私を睨んだ。
「まだ決まっていないわ。お姉様こそ、正式なお嫁さんじゃないのね」
「こちらの娘のほうが、神の妻にふさわしいかと。千鶴は家へ戻し、前のように働かせます」
父まで平然と続けた。珠実は伊織様の空いている腕に手を伸ばしたが、触れる前に払いのけられる。
「嫁にと名指ししたのは千鶴だ。取り替えるつもりはない」
伊織様は珠実を見下ろし、つないだ手を引いて私をそばに寄せた。珠実は赤くなった顔を伏せたが、すぐに私に向き直った。
「お姉様が譲ると言えばいいのよ。いつもそうしてきたじゃない」
腕をつかまれた。引かれた勢いで一歩踏み出しかけ、父の顔を見て息を詰める。あの目で睨まれると、いつもは謝っていた。
けれど、伊織様の隣に珠実が座るところを想像してしまった。私にしたように髪に口づけて、夜になったら抱いて眠るのか。
「嫌よ。伊織様だけは、絶対に譲らない」
私は珠実の手を振り払った。
「妾の娘のくせに、何なの!」
「だからって、何でも取っていいわけじゃないでしょう!」
「千鶴、口の利き方に気をつけなさい。育ててやった恩も忘れたの」
継母に叱られると、涙が出た。泣くな。今泣いたら、また言い返せなくなる。そう思うのに、頬を伝う涙を止められない。
「あの日、食べられても構わないって言ったでしょう! 私が泣いて頼んでも、誰も止めてくれなかったじゃない! それを食べられていなかったからって、羨ましくなったの!?」
「そんなことを、ここで言うんじゃありません」
「生きていてよかったって、一言も言ってくれないのに。どうして私が、珠実のためにこの人まで諦めなければならないの!」
近くにいた里人たちがこちらを見て、話すのをやめた。父は周りを見回すと、引きつった笑みを伊織様に向ける。
「娘の躾は、私にお任せください」
私に向き直った時には、笑みは消えていた。父はもう、伊織様を見ていなかった。昔から、人前で逆らうと、後でいつもよりひどく殴られた。逃げようとした私に、父が大股で詰め寄ってくる。
「生意気な口を利くな!」
父は左手を私の襟元に伸ばし、右手を振り上げた。思わず目をつぶりかけた時、伊織様が私の手を放して前に出る。
振り上げられた腕をつかみ、父の背中へひねり上げた。そのまま足を払って地面に叩き伏せ、片膝をついて肩を押さえつける。
「私の妻に、何をする!」
伊織様の怒鳴り声を、初めて聞いた。土の上に伏せた父は唇を切り、顎から血を垂らしている。起き上がろうとしても肩を押さえつけられ、ねじられた腕も引き抜けない。
「し、躾です。白蛇様、私は、娘の躾を……」
「本人も喜んでいると、よく言えたものだ。殴って送り出しておいて」
「嫁ぐのを怖がって、駄々をこねたものですから……」
「千鶴は、私に殺さないでくれと泣いた。あの家へ帰すなともな」
声を震わせる父の腕を、伊織様はさらにひねり上げた。父が呻く。周りの誰も助けに入らない。父は地面に伏せたまま私を睨んだ。
「千鶴、お前からも言え!」
私が首を振ると、父は歯をむき出しにした。
「お前はまだ私の娘だぞ! 父親がこんな目に遭っているのに、黙って見ているつもりか!」
「千鶴! お父様を助けなさい。何を突っ立っているの!」
継母が私に手を伸ばす。伊織様は父を放して立ち上がり、私を背後に庇った。珠実まで泣き声で私を責め始める。
「お姉様のせいよ。お姉様が素直に譲れば――」
その声が悲鳴に変わった。
目の前にいた伊織様が白蛇に姿を変え、太い胴を私の背後へ回して囲い込んだ。その白い胴は私の腰よりも高く、家族と向き合う正面だけが開いている。頭は木々よりも高いところにあった。
手水鉢から水がせり上がり、酒樽に叩きつけられる。板が割れて神酒がこぼれ、境内に酒の匂いが広がった。父たちは逃げようとしたが、足元を走る水に足をすくわれ、泥まみれになった。
「お、お待ちください。白蛇様」
父が私に向かって這ってきた。その目の前に伊織様が尾を打ちつけ、石畳を砕く。尾が引かれても、父は両手をついたまま動けずにいた。
あんなものに打たれたら、人の体なんてひとたまりもない。私は白い胴のそばにしゃがみ込んだ。
すぐ脇の鱗が動き、私の裾に触れる手前で止まる。石を砕いたのと同じ体が、私のそばでは着物にも触れずにいる。
「娘を差し出したのですぞ! どうか、泉の加護だけは」
伊織様が頭上から問い返した。
「まだ、この娘を使って私に物をねだるのか」
さっきまで殴ろうとしていたくせに、今は、私をくれてやったから水を寄越せと言うのか。
もう、あの家には戻らない。父の借金を返すために、伊織様にお願いするのも嫌だ。
「倉橋の家に与えた泉の加護を取り上げる。今日限りだ。私の水で、二度と酒を造るな」
「お許しください! あれがなくては、仕込みができません。家が、蔵が」
父は泥に額を擦りつけた。近くにいた里人が水路を心配する声を上げると、伊織様はそちらに頭を向けた。
「取り上げるのは、お前の家の泉だけだ。里の水には触れない」
珠実がずぶ濡れの袖で顔を拭い、私に泣きつく。
「お姉様、助けて。食べられる」
「私が泣いた時、あなたは笑っていたでしょう」
珠実は口を開けたまま、私を見ていた。
「それを返して。伊織様が、私にくださったものよ」
珠実が簪に触れると、伊織様はその足元に水を寄せた。珠実は悲鳴を上げて簪を抜き、私のほうへ放った。
そばの濡れた土に落ちた簪を拾い上げ、指で泥を拭う。銀の花びらの隙間には、まだ泥が詰まっている。洗えば落ちる。今度こそ持って帰ろう。
「千鶴、悪かった。謝るから、白蛇様にお願いしてくれ」
「家族でしょう。私たちが困るのを見捨てる気なの?」
父と継母が口々に呼んでも、私は答えなかった。言うことを聞く気にはなれない。
簪を握りしめて立ち上がり、白い鱗に手を当てた。
「伊織様、帰りたいです。私たちのおうちへ」
伊織様はこちらに頭を下ろし、私のそばで人の姿に戻った。私は一歩近づき、濡れた土で裾が汚れるのも構わず、その胸にすがりつく。
背中と膝の下に腕が回り、抱き上げられた。
「千鶴! 待ちなさい、千鶴!」
継母に呼ばれても振り返らず、片腕を伊織様の首に回す。伊織様は私を抱いたまま、待たせてあった輿へ歩いていった。
◇
屋敷に帰ると、私は澄さんに泥のついた簪を渡した。
「洗って、使いたいんです。婚礼の日に」
「きれいにしておきましょう。どうぞ、お休みください」
部屋で伊織様と並んで座っても、まだ手の震えが止まらなかった。膝の上で両手を重ねると、伊織様がそっと握ってくれた。
「あの姿は、怖かったか」
「怖かったです」
正直に答えた。お父様の腕をひねり上げたところも、石畳を砕いたところも忘れられない。
私はつないだ手をほどき、自分から彼の胸に顔を押しつけて続けた。
「でも、私のために怒ってくれた。誰も、あんなふうに助けてくれなかった」
また泣き出した私を、伊織様は両腕で抱いてくれた。
「あの家に加護を戻すつもりはない」
「そうですか……」
私は顔を上げ、袖で涙を拭った。
「伊織様が珠実を選ばなくて、よかった」
「選ぶはずがない」
すぐにそう答えると、伊織様は私に口づけた。私はその背中に腕を回し、もっと近くに引き寄せた。
◇
数日後、神域の屋敷で婚礼を挙げた。
自分で選んだ白無垢に袖を通すと、澄さんが簪を収めた小箱を持ってきた。蓋を開けてもらうと、洗って磨かれた銀の藤が、花びらの裏まできれいになっている。
伊織様は簪を受け取り、私の髪に挿してくれた。
「ようやく、あなたに渡せた」
「似合いますか」
「よく似合う。こうして挿してやりたかった」
「やっと、私が使えます」
手を差し出すと、伊織様はすぐに握ってくれた。並んで婚礼の座に進み、腰を下ろしても、なかなか放してくれない。
「伊織様、杯を持てません」
「片手で持てるだろう」
「こぼしたら、どうするんですか」
渋々指をほどく伊織様を見て、笑ってしまった。差し出された杯を両手で受け、口をつける。
伊織様と杯を交わし、澄さんに返すと、今度は私から彼の手を握り直した。
◇
婚礼からひと月ほどたった頃、澄さんが実家の顛末を知らせてくれた。
「泉は、あの日から枯れたままで、仕込みが止まったそうです。白蛇様に見放された蔵の酒は扱えないと、取引先も離れたとか」
「蔵は、どうなったんですか」
「増築の借金が返せず、お屋敷と一緒に売り払われました。珠実様の縁談も、先方からお断りが」
黙って話を聞き、澄さんが差し出した手紙を受け取った。
継母からだった。開くと、詫びの言葉より先に、暮らしに困っているから金を送れと書いてある。
「返事はしません。お金も送りません」
最後まで読まずに握り潰し、そばの火鉢に入れた。紙の端が燃え上がるのを見届けてから、伊織様の待つ部屋へ向かった。
◇
その夜、髪をほどいて布団に入ると、細く開いた障子の隙間から白蛇が顔を出した。
私は上体を起こし、布団の端まで来た小さな夫を手のひらで受け止める。昨夜はあんなに離してくれなかったくせに、今夜は私の腕に収まるつもりらしい。袖に潜ろうとするのを、そっと引き止めた。
「今夜も、人の姿で来てください」
白蛇が顔を上げた。頬が熱くなる。それでも今の言葉を取り消さず、布団の隣の畳に下ろした。
人に戻った伊織様が、布団の脇に膝をつく。
「今夜は、蛇では駄目なのか」
「いつも私を離してくれないのに、自分だけ撫でられて眠るつもりですか」
私は彼の襟元をつかみ、自分のほうに引き寄せた。
「抱いてほしいんです」
伊織様は私の腰を抱いて布団に入ってきた。並んで横になると、背中に腕が回り、引き寄せられる。
「明日の朝まで離せなくなるが」
「朝のことまで、今聞かないでください」
私は夫の首に腕を回した。伊織様が何か言いかけたので、その口に自分の唇を重ねる。
背中を抱く腕に力がこもった。唇が離れると、私はもう一度、自分から口づけた。
完。
コメント
1件
**美月ゆめか🌸の感想** うわ〜〜〜〜〜っ!!😭💕✨ めっちゃ良かった…っ! 千鶴ちゃんが最初っからずっと「生贄で食べられる」って怯えてたのに、実は冬に一緒に寝てた白蛇が白蛇様で、しかも名指しで嫁に欲しいって…そのギャップがたまらん!!🥺💖 伊織様の「食べない」「あなたにいてほしい」の優しさと、最後にあの家族に立ち向かう強さ、もう全部が尊い…。 千鶴ちゃんが「譲らない」って自分の意志で言えたシーン、本当に胸熱でした🔥 完結おめでとうございます、素敵な物語をありがとうございました…!!🌸🎉