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水曜日、専務室から出ようとしたのぞみに、京平が言ってきた。
「樫山が早苗と四人で食事をしないかって言ってるが、どうだ?」
……なんか今、胸がちくっとしましたよ。
足を止め、振り返ったまま、のぞみは思う。
早苗さん。
大学時代、みんなが狙っていたという美人ですよね?
……専務も狙っていたかもしれませんよね。
少なくとも、樫山さんはそう疑っていたようですよ?
再会させて大丈夫なのでしょうかね、と思いながらも、せっかく樫山が誘ってくれているのに、断るのも悪いかと思い、のぞみは了承した。
「失礼します」
と頭を下げ、出て行きながら、なんだかわからない不安でいっぱいだった――。
木曜日。
のぞみは京平たちが学生時代通っていたというレストランに行った。
こんな高価そうな店に、学生のくせに通っていやがったか、と思うのぞみの前には、落ち着いた感じの女性が居た。
美人っ。
大人っ。
そして、すごく綺麗な人だっ。
のぞみは固まる。
こ、これが早苗さんか。
この人にとても勝てるとは思えないが……となんの勝負も挑まれていないのに思う。
早苗は、のぞみを見て、にこりと微笑んできた。
「初めまして。
横田早苗です」
すごいっ。
余裕たっぷりの大人の笑みだっ、と思いながら、のぞみは、ぺこりと頭を下げた。
「は、初めましてっ。
坂下のぞみです」
うーむ。
我ながら、余裕の欠片もないな……と思ったとき、早苗が京平に微笑みかけ、
「ウワサ以上に綺麗な方ね、のぞみさん」
と言ってくれたのだが、京平は、これがか? という顔をしていた。
いや、だからですね。
好みでないのなら、結婚しようとしないでください……とのぞみは思っていたが、京平の顔をつぶさないよう、この場では、ただ、微笑んでいることにした。
早苗のような堂に入った微笑みにはならなかったが――。
しばらく話してみてわかったのだが、
案の定、早苗は、いい人だった。
こんな人なら、誰でも好きになっちゃうような……。
専務、チラチラ早苗さんを見てたりしないだろうか、とのぞみは不安に思っていたのだが、ふと気づけば、早苗の方がチラチラ京平を見ている。
な、何故ですかっ。
何故なのですか、早苗さんっ。
懐かしいからっ?
お友だちだから?
いや、そんな雰囲気ではない。
もう一度、早苗を見たが、たまたまなのか、また、早苗は京平を見ていた。
ひいーっ。
肉を切りかけのまま、のぞみは固まる。
じーっと早苗を窺っているのぞみを見ながら、京平は、
ふふふ。
しめしめ、と思っていた。
ヤキモチを焼いてるな、のぞみめ。
ナイスだ、早苗。
なんで、さっきから、こっちを見てるのか知らんが……。
京平がそう思ったとき、のぞみが、
「早苗さんっ」
といきなり、話をぶった切って、早苗に呼びかけた。
どうした、のぞみ。
まさか、早苗に俺をめぐって、喧嘩をふっかけようとか?
と京平は思ったのだが、のぞみは樫山の方を見ながら、言い出した。
「早苗さんっ。
樫山さんはいい人ですっ。
幸せにしてあげてくださいっ」
そっちかっ。
そういえば、さっきから、こっちばかり見ている早苗を、樫山が心配そうに見ていたな、と気づく。
「樫山さんが居なかったら、私たち、今、こんな結婚話なんて出ていません。
だから、樫山さんには、かっ、感謝してますっ。
……感謝……」
と言いかけ、のぞみは黙った。
いろいろと今までのことが走馬灯のように頭の中をよぎっているらしい。
「嘘ですっ」
といきなり叫んだのぞみを、
ええっ?
と樫山と早苗が見る。
「く、詳しくは話せませんが、樫山さんのおかげで、私、無理やり専務と結婚させられることになって――」
お前、詳しく話せませんがって、そんな言い方したら、ほぼ、しゃべったも同然だぞ、と京平は思っていたが。
不思議と腹は立たなかった。
本当はずっと自信がなかった。
教師を辞めて、会社に入ってから、ずっと。
これで本当によかったのだろうかとか。
自分はちゃんとできているのだろうかとか。
いつもそんなことばかり考えて、落ち着かなかった。
公務員と民間とでは、仕事が成功しているかどうかを決める尺度がまったく違う。
本当にちゃんと仕事がこなせているのか不安だった。
こなせてなくとも、誰も注意してくれないかもしれない、とも思っていた。
血筋だけで、専務になった自分をわざわざ正してくれる人間が居るかどうかわからないからだ。
だからと言って、下っ端のままでいても、みんなが自分を使いにくいだろうというのもわかっていた。
そこに今の自分にに自信を持って、堂々としている樫山が現れて、つい、強がって、のぞみと結婚すると言ってしまった。
だが、今は、もうそのことを隠したいとは思っていないし。
どちらかと言えば、自分も樫山に感謝の気持ちを伝えたいと思っている。
それに――
今こそ、のぞみの本心が聞けるのでは?
そう思い、京平は怒らず、黙って、のぞみの言葉を待っていた。
「私、最初は、樫山さんを恨みました。
でも、今は樫山さんに感謝しています。
……たぶん。
きっと……」
とのぞみは皿の上で半分になっている二十日大根を見ながら、
「うさぎともふもふ出来ましたし……」
と曖昧なことを言う。
待て。
そこで話を切ると、樫山のお陰で、うさぎともふもふ出来たから、感謝してるみたいになるんだが。
うさぎより、俺ともふもふして、感謝しろっ、と思ったとき、早苗が笑った。
のぞみではなく、早苗が告白を始めてしまう。
「私ね。
本当は、ずっと京平さんが好きだったの」
初耳だ、と思う京平の前で、樫山がビクリと肩を震わせる。
早苗は京平を見つめて言ってきた。
「でも、貴方はいきなり、教員になって、田舎に行くと言い出して――。
私、田舎は苦手なのよね」
えっ? そんな理由っ? と早苗の告白を聞いたのぞみと樫山は身を乗り出していた。
だが、早苗は、
「だって、考えてみて」
と真剣に語り出す。
「今までと全然違う場所に行くのよ。
全然違う都会、なら、まだなんとかなるけど。
全然違う田舎なんて、もう、無理無理」
と早苗は手を振る。
ある意味、素直な人だな……。
でも、うち、そんなに田舎じゃなかったんですよ?
いや、ほんとに……と高校まで住んでいた土地を思い出しながら、のぞみは思う。
そのとき、樫山が、ふう、と息を吐き出し、言ってきた。
「よかった。
京平が都会で教員にならなくて」
いや、だから、ほんとに、そんなに田舎じゃないんですよっ、と思うのぞみたちに、樫山が訊く。
「ところで、お前ら、いつ、結婚するんだ?」
京平が口を開きかけたとき、樫山は早苗を見て、微笑み言った。
「俺たちは七月頭の予定なんだが」
すると、京平が、
「じゃあ、うちは六月にしよう」
と言い出す。
いや、私の意見も聞いてください、と思うのぞみの前で、今度は樫山が言う。
「……じゃあ、うちは五月にする」
「なんだと?
じゃあ、俺たちは来週にするよっ」
睨み合う樫山と京平に、また始まった……と早苗と視線を合わせ、二人で笑った。
樫山と早苗たちはまだ呑みに行くようだったが、どうしても、のぞみの父親の好印象を崩したくないらしい京平は、それには付き合わずに、のぞみを送っていくと言い出した。
タクシーを呼ばずに、最寄りの駅まで歩く。
ちょっと二人で歩きたいと京平が言ったからだ。
だが、自分が言い出したくせに、京平は暗がりに来ると、何度か後ろを振り返っていた。
「御堂かと思った……」
と背の高い男が後ろを過ぎったのを見て呟く。
いや、確かにちょっと似てましたが、よく真後ろが見えましたね。
スナイパーですか、と思っていると、
「俺は360°見えるんだ」
と京平は言い出した。
この間、うさぎ島で知ったのだが。
草食動物の視界は広く、馬などは350°だが、うさぎは近視ながらも、なんと360°見えるらしい。
……貴方、スナイパーじゃなくて、うさぎでしたか、と思いながら、のぞみは言った。
「あの、何故、専務は、そんなに御堂さんに怯えるんですか。
私――
御堂さんのことを好きになるとかないですから」
言ってしまったーっ、とのぞみは思っていた。
自分では告白したつもりだったのだ。
だが、京平は、
「そうか」
と言ってきただけだった。
……いやあのですね。
今のはですね。
御堂さんが好みでない、というだけではなく。
私は、貴方のことが好きみたいだから、御堂さんのことは好きにならない、という意味だったんですけど。
「お、ちょうどタクシー居るな」
と京平は駅前を見て言う。
聞いてください、専務、人の話、と思いながら、のぞみが溜息をつくと、
「どうした?」
と京平は振り返り、言ってくる。
「いや、思いを伝えるって難しいですね……」
と愚痴のように言うと、京平は、
「なんの話だかわからないが。
俺はお前と話すたび、いつもそう思ってたぞ。
ようやく、俺の気持ちがわかったか」
と文句を言ってくる。
「……うーん。
今、我々は、めちゃくちゃすれ違っています」
「なにがだ?」
「いや、なんでもないです……」
と答えながら、のぞみは、でも、変だな、と思っていた。
すれ違ってはいるのだが、なんだか幸せなすれ違いだ――。
そんなことを思いながら、タクシーに向かい、二人、夜の街を歩いた。
「結婚することになりました」
「結婚?」
「来週」
「来週?」
万美子がらしくもなく、オウム返しに訊き返してくる。
万美子と二人、会社近くの公園で、移動販売のサンドイッチを食べていたときに、のぞみが昨日決まったばかりの話をしたからだ。
「専務がうちのお父さんの機嫌を取りたくて、来週」
「いや、それ、どっちかと言えば、怒りを買うんじゃないの?」
「いえ、なんだかお父さんは感激していました」
昨日、のぞみを送ったあとで、いそいそと酒の用意をしてきた信雄に付き合い、京平はまた呑んでいた。
そして、言い出したのだ。
『結婚前に娘さんに手を出したくないんですが。
お宅の娘さんは可愛過ぎるので、私はこれ以上待つ自信がありません。
来週にでも結婚させてください』
そんなに娘を大事にしてくれるとは、というのと、そこまであけすけにしゃべるほど、自分に気を許してくれているのか、と信雄は感激したらしく、あっさり結婚をオーケーしてしまったのだ。
いや、私はまだしてないんだが……。
そして、浅子と伽耶子が反対するはずもない。
「今、猛烈な勢いで流されていっています。
周りには、誰も私の意見を聞いてくれる人など居ないので」
と自分の手にある細切りの野菜とチキンのサンドイッチを見ながら、のぞみが呟くと、
「誰かに反対して欲しいのなら、祐人にでもしてもらいなさいよ。
祐人に連れ去ってもらえばいいじゃないの、式場から~」
と万美子は、やけくそのように言ってきた。
「……いや、専務VS御堂さんだと、狡猾さで、確実に専務が勝つと思うのですが」
とのぞみは言う。
っていうか、万美子さんは、御堂さんが好きなんじゃなかったのか、と思いながら見ると、
「もういいのよ、祐人のことは~。
わかったのよ、あいつの好みが。
おねえちゃんでしょ。
あんたでしょ。
あいつ、誰にでもモテるような、いい女は好きじゃないなのよ~」
と万美子は嘆き出す。
……先輩と言えども、そろそろチョップくらい食らわしてもいい気がするんですが、どうでしょう。
「決めたっ。
コンパするわよ、のぞみ。
一緒に来なさい。
一緒に来て、私を引き立てるのよっ」
「ええっ?
コンパとか、専務に殴り殺されますっ」
と言うと、
「あんた、なんだかんだ言って、専務の言いなりじゃない。
確かに、専務が束縛してるのかもしれないけど。
自分から扉開けて、専務の作った檻の中に入ってってる感じがするのよね~」
と言ってくる。
「いやだって。
昨日、思ったんです。
……私、やっぱり、専務のこと、好きなのかもなって」
「じゃあ、結婚したんでいいじゃない」
「でも、お友だちと喧嘩した弾みでとか。
お父さんと話した弾みでとかで、話が進んでいくばっかりで。
私とは、なにも進んでないし。
昨日もそんな感じで、ちゃんとプロポーズとかしてもらってな……」
いきなり、ガサガサ片付け始めた万美子は、
「さ。
もう戻ろうかな」
といきなり立ち上がる。
「ああっ、私の話も聞いてくださいよっ」
と腕をつかむと、万美子は、のぞみを見下ろし、言ってきた。
「傷心のこのとき、人ののろけ話なんて聞きたいわけないじゃない」
のろけてません~っと訴えたが、
「いいから、コンパ行くわよ。
ああ、来週結婚するんだっけ?
じゃあ、再来週くらいでいいわよ」
と万美子は言い出す。
いや、待ってください。
来週、結婚式なら、じゃあ、再来週、コンパでっておかしくないですか!?
「ちゃんと私を盛り立てるのよ。
いいわねっ?」
「いや、ちょっとっ。
待ってくださいっ。
待ってください、万美子さんっ」
万美子さんーっ、とまだ食べかけだったサンドイッチを慌てて紙袋に戻しながら、のぞみは立ち上がった。
その日はやけに、てんてこ舞いで、のぞみも遅くまで残っていた。
京平は会議に行ったまま戻らないので、あれから話も出来てはいなかった。
「専務、戻りませんね」
専務室の横の秘書室で、祐人と向かい合って仕事をしていたのぞみは、そう呟いた。
単に、京平に今やっている仕事の確認を取らないと帰れない感じだったからなのだが。
祐人はどういう意味に受け取ったのか、ノートパソコンを打ちながら、チラとのぞみを見て、
「今度、俺の前で、専務の『せ』の字でも言ってみろ。
はっ倒すぞ」
と言い出した。
いやあのー、此処、専務専用の秘書室なので、言わないとか不可能だと思うんですが、と思いながら、
「なんでですか」
とのぞみもノートパソコンの上から祐人を見て訊く。
「傷心だからだ、お前にフラれて」
そう素っ気なく祐人は言ってきた。
万美子と同じで、傷心なら、なにを言ってもやっても許されると思っているらしい。
「結婚するんだってな、来週」
「誰に聞いたんですか?」
「聞こえたんだ。
運悪く、公園を横切ってカツ丼屋から戻ってたら。
専務の何処がいい?」
「いや……、それが自分でもよくわからないんですよね」
と言うと、
「よくわからないのに結婚するなよ」
と言ったあとで、祐人は、ふと考え、
「いや、でも、俺もお前の何処がいいのか、さっぱりわからないな」
と言い出した。
あのー、私は、『よくわからない』と言っただけで、『さっぱり』なんて言ってないんですけど。
そっちの方がひどくないですかね? と思っていると、祐人は、
「だが、好きだ。
自分でも訳がわからない」
と言う。
「俺はそれなりモテるのに。
なんで、好きになってはいけない相手ばっかり好きになってしまうんだろうな?」
いきなり、祐人は立ち上がり、こちらに来た。
えっ? なにっ?
と思うのぞみの肩をつかみ、キスしてくる。
ひーっ。
「ちょ、ちょっと待ってくださいっ」
とのぞみは、祐人の胸を突いて押し返そうとした。
だが、祐人は、
「ちょっと待ったら、あとはいいのか」
とのぞみの言葉尻をとらえ、言ってくる。
いや、そうではなくてですねっ、と思ったが、動転していて、いい言葉を思いつかない。
祐人はのぞみの肩をつかんだまま、上から見下ろし、言ってきた。
「坂下。
一度、俺のものになってくれ。
そして、俺を好きだと言ってくれ。
そしたら、飽きて忘れられる気がするから」
いやいやいやっ。
貴方のものになった挙げ句に、飽きて捨てられるとか意味わからないんでっ、と思いながら、立ち上がろうとしたのぞみは、椅子に足を引っかけ、その場に転んだ。
「いたたたっ」
と見上げると、座り込んだせいか、大きな祐人が更に大きく見えた。
怖くなって、
「専……っ」
と思わず呼びかけると、
「今、専務って言ったろ」
と言われる。
祐人は倒れているのぞみの身体の側に両の手をつき、言ってきた。
「言ったろ。
専務って次言ったら、はっ倒すって」
いやいやいやっ。
これは、はっ倒すじゃなくて、押し倒すですからっ。
「せ……」
専務っ、と助けを呼ぼうとしてやめる。
呼ぶと余計、祐人が激昂しそうだったからだ。
え、えーと。
「きょ、京平さんーっ」
と思わず、叫んでしまい、
「余計、腹立つだろうがっ」
と祐人に言われたとき、
「御堂っ。
その手を離せっ」
と祐人の後ろから声がした。
見ると、専務室の方の扉が開いている。
京平が帰ってきたらしい。
その手には、あの金のチョコ棒がまるで凶器のように握られていた。
まだ、食べてなかったんですか……、とホッとしながら思うのぞみの前で、京平は叫んだ。
「落ち着け、御堂っ。
これが俺と取り合うほどの女かっ!?」
おい……。
「御堂」
と京平は落ち着いた声で祐人の名を呼び、訴えかける。
「御堂、俺はお前を失いたくない」
……なんかそのセリフ、言う相手、間違えてませんか?
「坂下ごときのために、お前の将来を潰すな。
お前はいずれ、この会社の未来を背負って立つ人間の一人となるだろう有能な社員だ。
こんなことで人生をふいにするな」
御堂―― ともう一度、京平が呼びかけると、
ふっ、と笑って、祐人はのぞみから手を離した。
「さすがですね、専務。
教師をされていただけのことはある。
道を踏み外そうとしている人間を説得するのが上手いですね。
畑違いの仕事についたからと、いろいろとご心配されていたようですが。
貴方は立派な上司ですよ。
ちゃんと部下を上手く乗せて、正しい道に導いてくれようとする――」
あの……。
その、上手く人を乗せて、導いてくれるはずの人に、私、今、坂下ごときとか言われたんですけど……と思うのぞみを見下ろし、京平は、ぽんぽん、と頭を叩いてきた。
「御堂」
とまだ、やりかけのデスクを見て、京平は言う。
「今日はもういい。
帰り支度をしろ。
ちょっと……三人で出かけるか」
そう京平は言ってきた。
「お祭りやってるじゃないですか」
いきなり、京平に縁日に連れて来られたのぞみと祐人は立ち尽くす。
会社から少し離れた海沿いの町。
なんのお祭りなのか、道路には屋台が立ち並び、たくさんの人が歩いていた。
「さっき戻ってくるとき、見つけたんだ。
ほら」
と京平は、のぞみたちに、五百円ずつくれる。
「まあ、今は、なんでも一回五百円だったりするからな。
よく考えて遊べよ」
寺へと続く、ずらっと並ぶ、きらびやかな屋台を見ながら、京平は、
「俺は射的をやる。
あんまり遠くへ行って、はぐれるなよ」
と言うと、そのまま、さっさと射的のところに行ってしまった。
「……やっぱり、教師っぽいな」
と手のひらに五百円載せたまま、ぼそりと祐人が言ってくる。
「坂下」
は、はい、と突然連れて来られた縁日を呆然と見ていたのぞみが返事をすると、祐人が五百円を突き出し言ってきた。
「専務にもらった五百円だが、さっきの詫びになんか奢ってやる。
なにがいい?」
……お詫びの好きな人だな、と思いながら、
「あ、じゃあ、そこのアイスコーヒーを」
とよく行くカフェが出店している場所を指差すと、
「待て。
全然祭りっぽくないじゃないか。
もっと怪しい屋台とかで買えよ」
と文句を言ってくる。
「いやですよ。
そんな怪しいもの飲むの……」
結局、なんだかわからないが、ピコピコ光っているジュースを買ってもらった。
くずかごから溢れ出しているゴミの山の横の花壇の端に腰掛け、二人でそれを飲む。
「やはり、専務にはかなわないな」
とこちらを見ないまま、祐人は言ってくる。
「こんな非日常の空間に連れ出して、俺の毒気を抜いて、坂下に詫びさせようとか」
「いや――
単に遊びたかったんじゃないですか? 自分が」
さっきから、随分つぎ込んでいるようだが、大丈夫だろうか、とのぞみは斜め前の屋台で、射的に興じている京平を見ていた。
「抑圧された少年時代を送ってそうですからね。
あんまりこういうところで遊んだことがないんじゃないですかね」
と京平が聞いていないのをいいことに勝手なことを言っていると、
「のぞみ!」
と珍しく浮かれた様子の京平が戻ってきた。
「ほら、キャラメルをやろう」
「キャラメルとれたんですか。
……偉いですね」
なにか他に言いようもなく、そう言うと、京平は祐人に、
「お前には、これをやろう」
と小さなマスコットを渡していた。
パンダだと思うのだが、全然パンダに見えない怪しいマスコットだった。
私が作っても、もうちょっとマシだと思うが、と思いながら見ていると、
「こっちをのぞみにやろうと思ったんだが、取ってみたら、変だったから、お前にやる」
と言っている。
「専務」
罰として(?)、それを受け取りながら、祐人は京平を見上げて言った。
「すみませんでした」
「謝るな。
思い出すと、お前を射殺したくなるから。
言っておくが、あの射的の銃でじゃないぞ。
いつもグアムとかで撃ってる本物でだ」
のぞみ、と射的の屋台を振り返り、京平は大きな声で言ってくる。
「難しいぞ、あれ!
本物の銃よりも!」
声デカイですっ。
通行人のみなさまも、地域見守り隊のタスキをかけた人たちもテキ屋のおじさんたちも振り返っていますっ、とのぞみは京平の手を引いて逃げ出したくなった。
そのあと、祐人が金魚すくいをやるのをのぞみは京平と二人で後ろに立って見ていた。
「専務……」
と呼びかけると、なんだ? と京平が振り向く。
「今日、助けてくださって、ありがとうございました。
でも――
ちょっと御堂さんに嫉妬しちゃいました」
と言うと、京平は、
「何故だ」
と言う。
「だって、専務がすごく情熱的に御堂さんを引き止めようとしてたから」
と言うと、
「なんだ。
お前も俺に情熱的に迫られたかったのか。
じゃあ、迫ってやろう」
と言いざま、京平は、のぞみの顎に手をかけてくる。
「い、いや、そういうわけではっ」
とその手を払い、のぞみは後ずさる。
「遠慮するな。
俺はいつでも準備はできている!」
なんの準備だ、と微笑みながら、すすすすっと京平の側から逃げ出すのぞみの側で、子どもたちが鳥の鳴き声のする笛を楽しげに吹いていた。
車は二台だったが、なんとなく別れがたく。
京平が、
「追走するから、前を走れ」
と言ってくれたので、素直に、ついてきてもらった。
家に帰ると、母親は風呂に入っていて、父親は二階でテレビを見ているようだった。
「お茶でも淹れますね」
と言って、リビングから続きになっているキッチンにのぞみが行こうとすると、
「のぞみ」
と京平が手をつかんできた。
そのまま、のぞみを抱き寄せる。
しばらく、黙ってのぞみを抱いていた京平が、
「よかった。
間に合って――」
と溜息をとともに言ってきた。
落ち着き払っているように見えていたが、そういうわけでもなかったのだと、そのとき知った。
専務……とのぞみは目を閉じ、その胸に顔をうずめる。
「私、よくわかりませんでした。
本当に貴方を好きなのかどうか。
考える暇もなく、どんどん話が進んでしまったので。
専務以上に好きな人は居ない気はしてたけど。
私、本当に専務を好きなんだろうか。
流されてるだけなんじゃないかなって、何度も自分で不安にな――」
そこで、のぞみは、ぎょっとする。
信雄が物陰から覗いていたからだ。
二階から下りてきたら、娘が男と抱き合っていたので、出るに出られなくなったようだ。
ひい、と思いながらも、京平に信雄の存在を気づかれないよう、のぞみは言葉を続ける。
ようやく、正直に自分の気持ちを告白しようと覚悟を決めたところだったからだ。
「――不安になりました」
震える声で続けたが、京平は信雄には気づいていないようだった。
内容が内容だけに、のぞみが緊張して、声を震わせていてもおかしくはないし。
京平自身も緊張していて、気づかなかったのかもしれない。
しかし、そんな、のぞみの告白に、柱の陰に立つ信雄は、
『なにを言ってるんだ、お前は。
こんないい人をもったいない』
という顔をする。
「じゃあ、ガンガン押していかずに、黙ってお前を見てた方がスムーズに事が進んだのか?」
と京平が訊いてくると、信雄が、
『いや、それでは、ぼんやりとしたうちの娘とでは話が進まない』
という顔をする。
「のぞみ」
と呼びかけた京平が、
「こんなに大事にした女はお前が初めてだ」
とのぞみの頰に触れながら言うと、信雄が、
『じゃあ、今まで、他の女とは、いろいろあったんですか』
と不安そうな顔をする。
「俺は――
俺が人生を共にする女はお前以外、居ないと今は思っている」
と京平が言うと、
『涙で言葉が出ない……』
という顔を信雄がする。
お父さん……。
いちいち、私の感情を先取りするような顔をしないでください、とのぞみは思っていた。
京平は、そこで、照れたように手を離し、言ってきた。
「お父さんたちも居るんだろうに。
こんなところで、告白してしまって、すまない」
……いや、そこに居ます、とのぞみが思ったとき、信雄は、のぞみと目を合わせると、コクリと頷く。
『今だ、のぞみ。
キスでもしろ』
という顔をしてきた。
……お父さん。
無理です。
貴方がそこから覗いていることにより、無理です……。
のぞみは慌てて京平から離れると、
「お、お茶、淹れてきますっ」
と言って、キッチンへと逃げ去った。
そして、一週間後。
のぞみがぼんやりしている間に、出席者やスタッフに、近年、まれに見る盛大な式だった、と言われた結婚式は終わった――。
あのあと――
「なによ、京平ったら。
日取りまで勝手に決めちゃってさあ」
と伽耶子が文句をつけてきた。
「のぞみさん。
貴女、これでいいの?
私はね、息子の結婚式には、いろいろと夢があったのよ。
なのに、なんで勝手に来週とかって話になってるのよ。
のぞみさん、貴女も言ってやりなさいよ。
女だったら、結婚式には、いろいろと思うところあったでしょう?」
と言われたので、それはお気の毒に、と思ったのぞみは、
「あ、では、日取り以外のことは、すべてお義母様のよろしいように」
とうっかり言ってしまった。
「……お前、なんという恐ろしいことを」
と京平が青ざめる。
「え?」
「俺はふたりきりで、そっと式をやったりとかいうイメージだったのに。
あの親に任せてみろっ。
そっと、なんて式になるわけないだろうっ」
……前から思っていたのだが。
男の人の方が、というより、専務の方が私よりロマンチストだな、とのぞみは思っていた。
その後、伽耶子と浅子か結託し、式は伽耶子、ドレスは浅子が仕切った。
会場は急だったので、何処もおさえられず、京平の祖父が所有しているという別邸の庭園で行われた。
風船やシャボン玉や子どもたちや、花が咲き乱れ。
牧師さんは、なんだかわからないことを英語で言っていた。
へー、こんな感じの式なんだあ、となにも知らなかったのぞみが、ぼんやり眺めているうちに、式は終わった。
そのまま、そこで披露宴が始まる。
子どもたちがくれた白とピンクのバルーンを手に、へー、とまだ感心しながら、のぞみが突っ立っていると、横に居る京平が、
「よかったのか、これで」
と言ってくる。
「なんか親たちがやりたいようにやって終わったが……」
っていうか、主に俺の親が……と大勢の客たちと話しながら楽しげな伽耶子を見て言う。
「いや、みなさん、楽しそうなのでよかったと思います。
やっぱり、餅は餅屋に任せた方がいいですよ。
私じゃ右も左もわからないので」
「いや……うちの親はウエディングプランナーじゃないんだが」
と言われたが。
かねてより、息子の結婚式をああしたいこうしたい、とイメージしていただけのことはあり、アイディア豊富で素晴らしい式だった。
女子受けが特によく、鹿子や万美子は、ぜひ、自分の結婚式にも幾つか取り入れたい、と言っていた。
「相手も居ないくせになあ」
といつものように、祐人が毒を吐き、女性陣に総攻撃を受けている。
そのとき、
「やあやあ、お招きありがとうございます」
と声がした。
げ、田中常務、とのぞみは固まる。
京平の宿敵、田中常務だ。
会社の関係で、もちろん式には呼んであった。
田中常務は、小柄だが、威圧感があり、いっそすがすがしいほどの悪人ヅラをされている方だ。
常務は並んで立つのぞみたちを見、
「結局、こういう感じに落ち着いたんですか」
と言ってくる。
「私はそういうつもりで、貴女を入れたのではなかったのですけどね」
と常務はのぞみを見て言った。
「えっ?」
常務は、
「異業種から来たので、頑張らねばと思っているせいか。
貴方は、なにもかも気合が入りすぎてて、硬かったんですよ」
と京平に向かい、言い出した。
「教師として、生き生きと生徒たちを指導していた頃を思い出してくれるかなと思いまして。
貴方の元生徒さんを合格させて、秘書に持ってきたんですけどね」
ええっ、と京平とのぞみは常務を見る。
……そういえば、履歴書に高校名も卒業した年も書いてあるよな、とのぞみは気がついた。
京平のことを調べていたのだろう常務は、のぞみが元生徒だと気づいたのだろう。
「でも、常務。
この人、教師時代もこんな感じでしたよ」
と京平を見ながらのぞみが言うと、
「じゃあ……、
……まあ、どうしようもないかな」
と常務は呟く。
……はい。
「私は坂下くんを貴方の嫁にと思ったわけではなかったのですが。
まあ、これもご縁なんでしょうな」
と常務は言った。
「常務」
とのぞみが呼びかける。
「どうして、専務のために、そこまでしてくださったんですか?」
敵ではなかったのか、と思いながら言うと、常務は溜息をつき、
「まあ、なんだかんだで、専務はいずれ、槙の跡取りになられるお方。
系列の何処かの会社に入るんだろうとは思ってました。
うちに白羽の矢が立った以上、仕方がないし。
槙家の嫡男なら、そこそこ優秀だろうと思って。
じゃあ、使えるように教育した方がいいかと思ったまでですよ」
とあくまでも上から目線で言ってくる。
「そこそこか……」
と京平は呟いていたが。
いやいや、ありがたい話ではないか、とのぞみは思う。
伽耶子と話し出した田中常務を見ながら、のぞみは呟いた。
「……ガタガタだったって言ったじゃないですか、面接。
あのとき、助け船出してくれたの、そういえば、田中常務でした」
見知らぬおじさんがいっぱい、としか、緊張していた頭では認識できていなかったが。
「……そうか」
と京平は呟く。
ちょっと笑ったようにも見えた。
もし、田中常務が強く押してくれていなかったら。
こうして、専務と此処に立ってはいなかっただろう――。
常務が言うように、これが縁というものなのだろうな、とのぞみは思った。
そのとき、
「やあやあ、京平。
可愛い嫁さんじゃないかー」
京平とそっくりなのに、何処となくチャラい年配の男が来た。
京平の父だ。
「久しぶりだな、京平。
おめでとう。
のぞみさんも忙しくて会えなくてすまなかったね。
初めまして、おめでとう」
と手を握ってくる。
いえいえ、急に決まりましたので、すみません、とのぞみが苦笑いしていると、京平の父は京平を振り向き言ってきた。
「ところで、京平。
どうだ。
結婚を機に、そろそろ社長とかやってみないか?
いい会社があるんだよ」
まるで、今日はいいネタ入ってますぜ、旦那、と笑う寿司屋のように軽い口調だった。
「いや――」
と京平が断りかけると、京平の父が、
「ああ、そうか。
まだお前には、無理かー。
今の会社で専務ですら、まともにこなせてないようだもんなー」
と笑いながら言う。
カチンと来たらしい京平の顔を見ながら、
……これか、とのぞみは思っていた。
こういう言葉であおって、教師をやめさせたんだな、と気づく。
「教師も無理。
専務もいまいち。
そんなんじゃ――」
「お義父さま」
とのぞみは京平の父の言葉をさえぎった。
「京平さん、まだやりませんから、社長とか。
せっかく、専務として、厳しい田中常務にも認められてきたところなのに」
と側で伽耶子と話していた常務を手で示すと、常務は、
えっ?
まだ、認めてないけどっ?
という顔をする。
のぞみは常務をキッと振り向き、
じゃあ、京平さんの代わりに、野心満々な専務とかやってきて、めんどくさいことになってもいいんですかっ、
と目で訴える。
京平の父に向き直り、のぞみは言った。
「京平さんは、今の会社で、常務たちに教わりながら、会社経営に必要なスキルを身に付けたいと日々語ってらっしゃいますよ」
語ってないぞっ? という顔を京平がしているのが目に入っていただろうに、京平の父は、
「はは、そうか、そうか」
と笑う。
「じゃあ、もう少し、今のとこに居ろ。
京平、本当に、いい嫁さん、もらったな」
と京平の肩を叩き、行ってしまった。
伽耶子が、
「あの人は、ほんとにねー。
仕事の勘はいいんだけど、適当だから」
とその後ろ姿を見ながら呟いている。
田中常務が、ふう、と息をつき、のぞみを見て言った。
「よかった。
この嫁にしておいて……」
京平が、
いや、あんたのとこの嫁じゃないだろ、という顔をしていたが……。
そのあと、更に友人たちだけで、二次会に行った。
久しぶりに会う友だちも多く、のぞみは、ずっと友人たちと話し込んでいたのだが、樫山が京平に言うのが聞こえてきた。
「もう帰ったらどうだ?
お前ら、本当に今日が新婚初夜なんだろうが」
「いや……いい」
と言う京平は、なにか考えてる風に見えた。
樫山は、
「おいおい、なんでだ?
緊張してるとか?」
此処まで長かったからな、と笑っているが。
いや、再会してから、まだ、そんなに経ってませんからね~、とのぞみは思っていた。
まあ、いまどき、そんなものではないのかもしれないが――。
式が急だったので、まとまった休みは取れず、新婚旅行は、また、という話になっていた。
今日は家に帰って寝るだけだ。
……寝るだけか。
専務と同じ家で寝るとか、それだけで緊張しそうなんだが、とのぞみは思う。
修学旅行で、なにかしでかして。
見張られるために、先生たちと同室にさせられる、みたいな感じで、ロマンとは程遠い。
そうか。
これから、あのマンションに帰るのか。
改めて、のぞみは、そう思った。
この間、少し、京平の部屋に荷物を運んだ。
エレベーター前で出会った同じマンションの人に挨拶しながら、不思議な感じがしていた。
最初に京平のマンションを見たとき、教員だった頃の京平が家族で住んでいても、そう違和感はないマンションだな、と思ったのだが。
あのとき、本当は、京平の家族として、あそこに住む自分を思い描き、違和感ないな、と思ったんだったような気がする。
これから、あそこに二人で住んで。
あのとき歩いた夜道を通って、買い物に行って。
ファミレスに行って――。
そうして、日々、暮らしていくんだろう。
そう思ったとき。
何故だろう。
式で誓いの言葉を言ったときより、泣きそうになった。
夢のように美しい結婚式より、リアルに自分たちの未来が見えた気がしたからかもしれない。
そのとき、チラ、とこちらを見た京平が、
「じゃあ、俺たちはそろそろ」
と言って立ち上がる。
さんざん冷やかされながら、会場を後にした。
それから、タクシーで京平のマンションへと戻った。
鍵はあのとき、もうもらっていたが、今日は、京平と一緒なので、ただ、トコトコ京平のあとをついて行った。
玄関を入ると、京平の家の匂いがした。
今はまだ嗅ぐと、どきりとするが。
いずれ、その匂いも感じなくなっていくんだろうな、とのぞみは思った。
人は自分の家の匂いは感じない。
鼻が慣れてしまっているからだ。
そして、この匂いも変化していくんだろうな、とのぞみは思う。
自分が住むことによって、新しい匂いが加わるからだ。
のぞみがそんなことを考えながら、リビングで佇んでいると、くるりと振り向いた京平が、腕時計を見て言ってきた。
「今から、各自の部屋で、三時間の仮眠をとる」
「……はい?」
軍隊か、という京平の口調に、思わず、のぞみは訊き返していた。
「三時間後、此処に集合だ。
疲れているだろうが、一分一秒遅れるなよ」
じゃ、と言って、京平はさっさとおのれの部屋に引きこもってしまう。
えーと……と思いながら、のぞみはまだそこに立っていた。
あのー、我々、新婚なんですよね?
これ、新婚初夜なんですよね?
しかし、京平の姿は既にない。
のぞみは少し酔った頭のまま、
「……はい」
ともう京平の居ないリビングで頷き、自分の部屋に入ると、倒れ込んで寝た。
誰かが自分をつついている……。
目を開けると、服を着たまま、ベッドに倒れて寝ていたのぞみをマジックハンドでつついている京平が見えた。
のぞみが起きたことに気づいた京平は、マジックハンドを下ろすと、仕事で叱るときのような顔で、
「のぞみ、寝過ごすなと言ったろう」
と言ってくる。
それは……?
とマジックハンドを見つめると、
「今、手でお前を触ると、襲ってしまいそうだからだ。
支度をして、すぐに出ろ」
と言って、京平はのぞみに背を向ける。
なんだかわからないまま、のぞみは京平の後について、家を出た。
京平の車に乗り、高速に乗る。
どうやら、このために、京平は酒を呑んでいなかったらしい。
「何処まで行くんですか?」
とのぞみが前を見て運転している京平に問うと、
「朝まで待って新幹線に乗ってもよかったんだが。
なんだか俺が待てそうになかったからな、いろいろと」
と答えになっていないような答えが返ってきた。
はあ、と思いながら、道路標識を見る。
……まさかな、と思ったが、そのまさかだった。
朝もやの中、車は学校に着いた。
のぞみが卒業した、坂の上にある高校だ。
……坂の途中で、ミドリの虫に目潰しを食らったりした高校だ。
テニスコートの前に車を止めた京平は、
「降りろ」
と言う。
のぞみが言われるがまま降りると、朝の空気は、まだ、ひんやりとしていた。
わー。
全然変わってない、とのぞみはすぐ側にある校舎を見上げる。
「坂下」
と京平が呼びかけてきた。
振り向くと、校舎と同じように、教師時代から、まだあまり変わってはいない京平が、
「坂下――
俺と結婚してくれ」
と言ってくる。
……もう結婚しました。
そう突っ込みたかったのだが、なんだか涙がこみ上げて来て、なにも言えなかった。
此処に立っているせいか、まだ、京平が教師のような気がして。
先生、なに言ってんですか、と思う。
もしかして、これ、ハッピーバレンタインッ! のお返しですか、とも思う。
でも、やっぱり言葉にできなくて、のぞみはただ、涙をこらえて、うつむいていた。
「式のとき、御堂に言われたんだ。
お前がまだ、プロポーズされてないと言っていたと。
そういえば、常にどさくさ紛れで。
お互いの気持ちがちゃんとしてからは、なにも言ってなかったなと気がついたんだ」
坂下、と京平が朝日を背に、のぞみの両手をつかんでくる。
「俺と結婚してくれ。
俺と一生を共にしてくれ。
お前を前にすると、俺は俺じゃないみたいになる。
お前とお茶をしただけで、やり遂げたと思ったり。
名前で呼ばれただけで、舞い上がったり。
でも……
そんな自分じゃないような自分が、なんだか嫌いじゃないんだ。
出席番号、八番。
坂下のぞみ。
俺と――
結婚してくれ」
涙で言葉が出なかったのだが。
京平は、何故か、のぞみの両手をつかんだまま、挙動不審に、何度も振り返っている。
「イエスだな、イエスでいいな。
まあ、もう結婚してるしな」
と途端に、いつものような事務的な口調になって、京平は言ってきた。
「早く帰らねば、朝練の連中が――」
と焦ったように京平が言ったとき、部室棟の方から、テニスウェアを着た女生徒たちと、彼女らに囲まれた、まだ初々しい感じの男性教師がやってきた。
「あっ!
槙先生!
ってか、坂下っ!?
あっ、なに手つないでんですかっ!」
同じ三年C組だった、丸田だ。
「うそー!
丸田くん、教師になったの!?」
とのぞみは叫ぶ。
早足に近づいてきた丸田は、まじまじとのぞみたちを見、
「え、なにせんせーっ。
生徒に手出してたのっ!?」
と叫ぶ。
すると、後ろの女生徒たちが、
「うそー!」
「じゃあ、せんせーも出して出してー!」
と丸田に向かって笑って言い始めた。
「あ、そしたら、受験しなくていいよねー」
「そうよねー、せんせーと結婚すればいいんだしー」
とこの新米教師はおもいっきり女生徒たちにからかわれている。
丸田くん……、頑張って、と苦笑いするのぞみの前で、丸田はまだ文句を言っていた。
「えーっ。
せんせー、モテたのにっ。
なんで、坂下っ?
他にもっといいのが居たじゃん。
相田とか吉川とか」
おい、丸田……。
頑張って立派な教師になってね、と思った心も、今、見事に吹き飛びましたよ、と思ったとき、丸田が叫んだ。
「うそー!
マジかよっ。
俺、もう同窓会行かねー!」
「やだーっ。
せんせー、この人好きだったのー?」
と笑われながら、丸田は彼女らとともに、テニスコートに消えて行った。
それを見送りながら、京平が鼻で笑って言ってくる。
「お前がいいとか言う、物好きな奴が居たようだぞ」
いや、貴方もですよ……と思ったとき、京平が校舎の方を見ながら、
「覗いていくか? お前が乗り越えた柵」
と言ってきた。
「結構です……」
去り際、のぞみはかなり明るくなってきた空の下、もう一度、校舎を見上げた。
変な感じだ。
お世話になりました、とみんなで頭を下げて、一度別れた相手なのに。
こうしてまた出会って、手をつないで歩いて。
きっと、この先、一生、何十年もこの人と居る――。
「ほら、行くぞ。
坂下のぞみ」
と車のドアを開けながら京平が言ってくる。
「だから、出席とるように呼ばないでくださいよっ」
と車に乗ると、
「そういえば、出席とるたび、こいつ、名前は可愛いよなって思ってたんだよな」
とシートベルトを締めながら、京平が言い出した。
「……名前はってなんですか」
京平は、
「のぞみって、俺の娘につけようかとか思ってたのにな」
と小首を傾げながら、車を出そうとしてやめる。
こちらを振り向いて、少し笑った。
「俺の人生、いろいろあったが――。
親父にけしかけられて、教員をやめたり」
……やっぱりそうか、と思うのぞみに京平は言ってきた。
「でも、どんな苦しかったことも辛かったことも、全部、お前と会うためにあったことだと思うと、許せる気がするよ。
これから、俺の人生にたちはだかるだろう壁とかもな。
常務とか、常務とか、常務とか」
いや、貴方、普段、どんだけ常務にやられてるんですか……と思ったとき、
「そういえば、さっき、返事聞いてなかったな。
坂下……」
と言いかけ、京平はやめた。
のぞみの手を握り、言ってくる。
「槙のぞみ。
俺と結婚してくれ」
だから、してますよ、もう、と思いながらも、
「……はい」
と言って、のぞみは笑った。
そのまま京平がキスしてくる。
車の外から、
「あーっ。
だから、せんせーっ。
学校でなにやってんのーっ」
と叫ぶ丸田の声が聞こえてきた。
離れた京平と顔を見合わせ、笑う。
京平の運転する車が走り出した。
朝もやは晴れ、朝日がグラウンドを照らしている。
朝練の生徒たちがわらわらとグラウンドに歩いていく懐かしい光景を見ながら、
「よし、これでようやく、初夜が迎えられるな!」
と笑う京平にのぞみは言った。
「いや……、あの、
もう朝ですからね……」
完