テラーノベル
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トウマは、黒ずんだ鍵を食卓の中央に置いた。
「昔、外では人が死んだ」
門の前でシンが言ったのと同じ言葉だった。
けれど今度は、逃げずに続きを話すつもりらしい。
ユイも向かいに座っている。ナナは隣の部屋で眠っていた。
「どれくらい昔?」
「俺が生まれるよりずっと前だ。じいさんの、そのまた前の世代だ」
トウマは言葉を選んだ。
昔、世界では人が増えすぎ、食料や水、エネルギーが足りなくなった。場所によっては争いが起き、作物が取れず、病気も広がった。
「全部いっぺんに?」
「そう教わってる。ただ、どこで何が起きたのかまでは知らない」
ハルは黙って聞いた。
「人が住める場所を残すために、小さな生活区域が作られた。水を回し、食べ物を作り、電気を確保する。外の状況が落ち着くまで、人を守る場所だ」
「ここ?」
「そうだ」
「村じゃなくて?」
トウマは一瞬迷った。
「昔の記録では、居住区と呼ばれていたらしい」
ハルの頭にC-17が浮かぶ。
「十七」
父は否定しなかった。
「この場所の番号?」
「たぶんな」
「たぶん?」
「俺たちも昔の記録を全部読めるわけじゃない。残ってないものも多い」
ハルは少し拍子抜けした。
父が秘密を全部知っていると思っていた。
でも、トウマが持っているのは答えではなく、古い話の断片だった。
「じゃあ31も居住区?」
「そうかもしれない」
「人がいる?」
「今は分からない」
また、その言葉。
ただ、今夜の「分からない」は前より信用できた。
「境界は?」
ハルが鍵を見る。
「外の危険から守るため?」
「それが一番の目的だったと聞いている」
「でも、中からも自由に出られない」
トウマは頷いた。
「非常時に人が勝手に外へ出れば、区域全体を危険にさらす。感染症、争い、物資不足。何が外にあるか分からない時代だった」
「だから閉じ込めた?」
「そういう言い方をするなら、そうだ」
ハルは父が否定しなかったことに驚いた。
「ただし」
トウマの声が強くなる。
「閉じ込めるために作ったんじゃない。生かすためだ」
その言葉に、ハルは反論できなかった。
ユイが静かに言った。
「昔の診療記録にも、外から来た人をすぐ中へ入れない決まりが残ってる。病気を持ち込まないためだったみたい」
「本当に危なかったんだ」
「たぶんね」
ハルは門の隙間から見た暗い草を思い出した。
自分には何も起こらなかった。
でも、それは数秒だった。
昔も同じだったとは限らない。
「じゃあ、ソウさんは?」
トウマの顔が変わった。
「ゲンから聞いたのか」
「うん」
「……そうか」
怒ると思ったが、父はため息をついただけだった。
「ソウさんが帰らなかったから、外は危険だって?」
「それもある」
「死んだか分からないのに」
「分からないから怖いんだ」
トウマは鍵を握った。
「ハル。お前は答えがないと、確かめたくなる。でも俺たちは、答えがないからこそ近づかないことを選んできた」
「ずっと?」
「ずっとだ」
「いつまで?」
父は答えなかった。
翌日、学校ではいつも通り授業があった。
境界を開けたことは、村中に広まっていた。
小さな村だ。隠せるはずがない。
休み時間、同級生が寄ってきた。
「本当に外見たの?」
「ちょっとだけ」
「何がいた?」
「草」
笑いが起きた。
「怪物は?」
「いない」
「じゃあ安全じゃん」
「分からない」
自分の口から出た言葉に、ハルは少し驚いた。
ミオが横で笑う。
「何」
「いや。ハルがちゃんと分からないって言ったから」
「俺だって学ぶ」
放課後、シンに呼ばれた。
管理棟の小部屋にはトウマとセイジもいた。
叱られると思った。
シンは最初に言った。
「お前たちが開けた補助解除は、今日封鎖した」
「もう開かない?」
「簡単にはな」
「何で?」
「昨夜話した通りだ」
シンは机に一枚の古い紙を置いた。
そこには、畑、水槽、発電設備、住居が図で描かれていた。
「これは、この場所が作られたころの説明図だ」
中央に小さな文字。
RESIDENTIAL AREA C-17。
英語は読めないが、17は分かる。
「ここは最初から、外と切り離して暮らせるよう作られた」
シンが言う。
「何のためだと思う」
「外が危険だったから」
「そうだ」
「でも今は?」
「それを確かめるために門を開けるのか?」
ハルは黙る。
シンは怒鳴らなかった。
「俺が若いころ、循環装置が止まりかけたことがある」
初めて聞く話だった。
「三日、水の使用を半分にした。畑も一部を諦めた。部品が直らなければ、ここで二百人以上が暮らし続けることはできなかった」
「それと外と何が関係あるんですか」
「安全というのは、怪物がいないことだけじゃない」
シンは説明した。
水。食料。薬。電気。人手。
一つ崩れるだけで、小さな共同体は簡単に危うくなる。
「外へ出る者が増えれば、働く人間が減る。外から誰か来れば、食べる人間が増える。病気を持ち込むかもしれない」
「だから誰も出さない?」
「だから簡単に決められないと言っている」
ハルは紙を見る。
二百五十八人。
数字ではなく、一人ずつ顔が浮かんだ。
ナナ。母。父。ゲン。先生。畑の人たち。
「境界がなければ」
シンが言った。
「お前は生まれていなかったかもしれない」
その言葉は重かった。
帰り道、ハルはミオに言った。
「俺、もっと簡単だと思ってた」
「何が?」
「大人が隠してるだけだって」
「隠してはいた」
「でも理由もあった」
「うん」
「じゃあ、俺たちが間違ってた?」
ミオはしばらく考えた。
「昔、境界が必要だったことと、今も必要なことは同じじゃない」
「でも今が安全だって証拠もない」
「そう」
答えはまた遠くなった。
境界は牢屋だった。
そう決めれば簡単だった。
でも実際には、人を生かすために閉じた場所だった。
守ることと、閉じ込めること。
その二つは、最初から別々ではなかったのかもしれない。
夜、ハルは窓から境界の方角を見た。
昔、外では人が死んだ。
それは作り話ではなかった。
それでも、疑問は消えない。
昔は危険だった。
では――今は?
その夜の話には、まだ続きがあった。
トウマは食卓の図を指でなぞった。
「居住区は、人を閉じ込めて終わりじゃない。中で生活が続くように作られていた。水を循環させる。排水を処理する。種を残す。電気を分ける。病人を隔離する。何か一つが止まっても、すぐ全部が止まらないようにな」
「じゃあ、すごい場所だったんだ」
「今だってそうだ」
トウマは少しだけ笑った。
「古くなっただけでな」
ハルは家の蛇口を見た。ひねれば水が出る。夜になれば灯りがつく。畑には決まった時間に水が回る。
今まで、それを境界と結びつけたことはなかった。
「外が危険だから壁を作った。それだけじゃないんだ」
「中で生きられるようにした。その二つは一緒だったんだと思う」
ユイが言った。
「病気の記録もそう。外から入れないだけじゃなくて、中で広げない仕組みもあった」
「じゃあ、昔の人は外に出たくなかったのかな」
トウマは首を振った。
「そこまでは分からん。ただ、外へ戻れる日を考えていた形跡はある」
「え?」
「搬入門が残ってるだろ。完全に封じるだけなら、あんな大きな門はいらない」
ハルは父を見る。
それは、父の口から初めて聞く言葉だった。
「戻るつもりだった?」
「少なくとも、行き来する必要があると考えて作られたんだろう」
「なのに、今は開けない」
「そうだ」
父の声には、以前のような断定がなかった。
ハルはそこで初めて、父もまた同じ疑問の入口に立ち始めているのだと感じた。
翌日の管理棟で、シンはさらに古い説明図を見せた。
居住区の中央に貯水槽。
周囲に農地。
端に診療区画。
境界の外側には細い矢印が何本も描かれ、『供給』『連絡』『保守』という文字が残っている。
「外と切り離して暮らせるって言ったじゃん」
ハルが言う。
「一定期間はな」
シンが答える。
「永遠に何も受け取らず暮らせる、とは書いてない」
「じゃあ、今の村って予定外?」
セイジが図を覗き込んだ。
「予定より長く続いている可能性はあるな」
「どれくらい?」
「それを知る記録が足りない」
また分からない。
けれど今回は、分からない場所がはっきりした。
居住区は失敗したから残ったのではない。
むしろ成功したから、中央からの助けがなくなったあとも人が生き続けられた。
その成功が、いつの間にか「ここから出ない」という生活そのものになった。
ハルは図の外側へ伸びる矢印を見た。
昔の人にとって、壁の向こうはただの死の世界ではなかったのかもしれない。
物資が来る場所。
連絡が来る場所。
いつか状況が変わるかもしれない場所。
「シンさん」
「何だ」
「境界を作った人が今の村を見たら、ずっと閉めてて正解だって言うと思う?」
シンはすぐには答えなかった。
「死人に聞け」
「聞けないから聞いてる」
「なら、俺にも分からん」
少し間を置いて、シンは続けた。
「ただ、ここまで生き延びたことを間違いだとは言わせん」
ハルは頷いた。
「俺も、それは思ってない」
シンが初めて意外そうな顔をした。
昔の人たちが間違っていた、と言いたいわけじゃない。
ただ、今の自分たちまで同じ答えでいいのか。それは別の話だ。
コメント
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うわあ、この回は重かったけどすごく好き。C-17がただの「監禁施設」じゃなくて「生き残るために設計された場所」だったっていう二面性の描き方が巧いよね。ハルが「昔は危険だった。じゃあ今は?」って問いを抱えたまま夜の窓から境界を見るシーン、あの余韻がじんわり来る。大人も答えを持ってないって分かってからのハルの視点の変化もリアルだった。続きが気になるなあ。