「────ハロー、エミリア」
おはよう、今日のご機嫌はいかがですかプリンセスと、いつものように笑顔で患者である子供に話し掛けた小児科医・リアムだったが、母親の足に座ってじっと見上げたきり何も言わない為、どうしたと首を傾げると、驚いたような顔でエミリアが母の胸にしがみつく。
「?」
「・・・先生、怖い」
「・・・・・・」
この病院に勤務した初日に病棟で診察をした時には驚くほど懐いてくれたのに、今ではそんなことも忘れたように怖いと泣きそうな顔で言われ、流石に驚き傷付いたリアムは、怖いかと溜息混じりに呟くが、怖いのを必死に堪えてまっすぐ見詰めてくることに気付き、鼓動を早くしてしまう。
「機嫌が悪い時のパパみたい」
「・・・あー、えー、と、エミリアが怖いと言ったのは顔じゃなくて怒ってるみたいだったからか?」
少女に向けて己の何が怖かったのかと、少しばかり焦りながら問いかけたリアムは、頷かれてがっくりと肩を落とし、少女にまで機嫌の悪さを見抜かれているのかと、己の感情の露出方法に呆れてしまうが、ついで聞かされた言葉に目を見張ってしまう。
「・・・頭が痛い時のパパみたい。先生、頭痛いのならドクター・ユズに治して貰えば良いのに」
「・・・・・・ 」
「すみません、先生。勝手なことばかり言って・・・」
エミリアの言葉にリアムが思わず沈黙してしまい、その変化に慌てた母が申し訳ないと謝罪をするが、いえ、としか言えずに溜息を零したリアムは、頭が痛いのはそのドクター・ユズのせいなんだとは流石に子供には言えずに苦笑し、今ドクターはお休みをしているから、病院に来た時にお願いしようかなと笑うと、エミリアが小さな手を精一杯伸ばし、何がしたいのかと顔を更に寄せると、短くカットしているハニーブロンドの髪を優しく撫でる。
「少しは痛いのなくなった?」
「少しどころか、ほとんどなくなったな」
さすがはプリンセス、すごい力を持っていると笑い、少女に大人気ない態度をとったことを詫びるように大きな掌を向けると、小さな手がそこにそっと重ねられる。
「お許しいただき、ありがとうございます、プリンセス」
「どういたしまして」
リアムの、やや大げさとも思えるその接し方に後ろで見守っていた看護師も何か言いたげだったが、幼い子供であっても相手の意思を尊重し、大人と同じように扱いたいという思いが理解でき、看護師繋がりで少しだけ聞きかじっていた通り優しい人だと、知らず知らずのうちに微笑ましい顔で見守ってしまう。
看護師にそんな顔で見守られていることに気付かず少女の診察を始めたリアムは、その後は気分を入れ替えたのかどうなのか、患者から怖がられることもなく、いつものように診察室とは思えない和気藹々とした空気の中で仕事をするのだった。
朝一番の診察でエミリアに己のここ数日の心理状況を見抜かれたことが流石に恥ずかしく、自宅から持って来たランチを膝の上に乗せてぼんやりと空を見上げたリアムは、どうしてここまで気になってしまうのかと自問し、まず何に引っかかっているんだと逆に質問された気がして目を丸くする。
お互いファーストネームを呼び、仕事が終われば飲みに行くようにもなった仲だと思っていたが、先日、真夜中に響いた悲鳴と物音を心配し、どうしたと問いかけた己をまるで初対面の人のように無視をした顔が思い出され、その変わり身は何だ、友人になれたと思っていたのは己だけだと現実を突き付けられた気がしてしまう。
二人で良く行くようになったシドニー市内のパブや家の近くのバーでの様子を思い浮かべれば、常にリアムが話し、それに対して慶一朗が同意したり疑問を呈したりと、あまりプライベートの話を聞かなかったことを思い出すが、それでもその時の様子は、興味や関心の無い相手に接しているとは思えない穏やかな表情で頬杖をつき、その先はと話の先を促してくれる程だった。
だからすっかり友人になったと思っていたが、己が思う友人と彼が思っている友人の間にズレがあったとしてもおかしくはなかった。
そのズレに気付かずに己が一人舞い上がっていただけだろうかと自嘲してしまうが、距離感が難しいと苦笑した時、そんな相手に良くあんな顔を見せられるなという、リアムにしては珍しく皮肉な思いがポンとどこからか降って来て、それを掌で受け止めて小首を傾げる。
あんな顔と思わず呟いたリアムの脳裏に浮かんでいたのは、網膜に焼き付いて消すことができなくなった、この世の罪を全て背負っているような笑顔だった。
己の存在が罪だと言いたげな顔など、リアム自身は別にして、映画やドラマなどでしか見たことが無く、あのような表情を浮かべる原因が彼の中、もしくは過去にあったのだろうかと思考を勝手に進めるが、自分に置き換えた場合、距離感のある友人にそんな顔を見せるかと呟き、絶対に見せないと断言してしまう。
つまり、己の弱っている顔−リアムにはそうとしか思えなかった-を見せられるほど、心の距離感はないのでは無いか。
もしそうだとすれば、あの日初対面のような目で見てきたことはどういうことだ。
夜中の物音を聞かれたのが恥ずかしくて、体裁を取り繕うのが下手で無視という行為にでたのだろうか。
思考回路の袋小路に迷い込んだようで、何をどう考えても最終的にはそこに辿り着いてしまい、溜息を吐くことで迷路から脱出したリアムは、これは本当にまずいと自省した時、スマホが振動した事に気付き、手にとって一瞬どんな顔をすればいいのかが分からずに画面を見つめてしまう。
そこに表示されているのは、たった今脳味噌の中で対話をしたいが出来ないでいた慶一朗の名前だった。
連絡先の交換も、家が隣同士で職場も同じなら必要ないのではないかとリアムが素朴な疑問を呈したが、俺が教えたいと思ったからと笑われて交換したもので、その時の楽しそうな様子と冷たい視線が混ざり合い、どれが本当の彼なのかと珍しく舌打ちをしてしまう。
その苛立ちのまま通話に応じないのは尻のあたりがもぞもぞとして気持ち悪く、このまま応じるには冷たい視線が手を止めてしまいそうになるが、無視をされたから無視をするという行為が生理的に嫌だと気付き、少しだけ慌てつつ画面をタップして耳に宛がうと、申し訳なさそうな、こちらを気遣う声が聞こえてくる。
『リアム? 今電話をしても大丈夫か?』
電話に出ているということは問題ない証拠なのだが、問いかけてくる気遣いに、不満へと傾きかけていた口角が水平に戻る。
「あ、ああ、大丈夫だ」
中々出ることが出来なかったが、話をすることは大丈夫と、落ち着いて話をすることが出来るはずなのに何故か慌ててしまい、まるですぐに電話に出なかったことへの言い訳じみたことを返してしまう。
そんなリアムの言葉に溜息と同時に小さな笑い声が聞こえ、己の醜態を見透かされたような気がして羞恥に顔が赤くなるのを自覚するが、大丈夫なら良かったと呟かれた言葉にこもっているのはただの安堵と好意らしきもので、リアムの言動を笑うような色は感じられなかった。
こうして話をするのはあの日玄関先で無視されて以来-あの後、何度か家の前ですれ違ったのだがやはりその間一度も話をしなかった-で、ややぎこちなくどうしたと問いかけると、電話の向こうでも躊躇うような気配がし、今まで無視したことへの何かしらの言い訳-リアム自身は無視をされる理由に心当たりがない-だろうかと身構えていると、意を決したように慶一朗が深呼吸し、思わずどうしたと問いかける。
『・・・今夜、何か予定は入っているか?』
「今夜? いや、何もないけど?」
いつものように仕事が終われば日課のトレーニングをするだけだ、誰かさんが無視をするから飲みに行こうと誘うことも出来ないと、堪えきれずに本音を皮肉に混ぜて自嘲すると、誰がお前の事を無視するんだと、心底疑問に思っている声が返されて目を丸くしてしまう。
リアムが今皮肉に混ぜ込んだのは当然ながら慶一朗のことで、それに気づけないほど鈍いのだろうかと眉を自然と寄せてしまうが、ここで働きだし、仕事中やそれ以外のプライベートで話をしている時、リアムがうまく言葉にできない感情を丁寧に掬い上げて名付けたり話の先を指し示してくれていたことを思い出すと今の皮肉に気付かないほど鈍いとは思えず、整合性の取れない事でただ苛立って皮肉を伝えるのではなく、呆れられても仕方がない愚直さがお前の持ち味なんだと幼馴染がいつも教えてくれたことを思い出して腹を括る。
「ケイ、・・・と呼んでも良いか?」
『今更そんなことを聞くのか?』
今までそう呼んでいただろうと苦笑する声にそれ以外の嘲笑の色などはなく、そう呼ばせてくれるぐらいの関係なのにどうして無視をしたんだと、スマホを持たない手に緊張の汗を浮かべ口の中がカラカラになりつつ問いかけると、さっきも言っていたが、もしかしてその無視をした相手というのは俺のことかと問われ、違うのかと滅多にない冷えた声を返してしまう。
「家の前で会った時、夜中の物音が心配で大丈夫かと聞いたが、無視をされたぞ」
それからの数日間もすれ違っても顔すら見なかっただろう、まさか覚えていないのかと己でも止められない嫌な気持ちのまま問いかけると、息を飲んだ音が聞こえ、思わずスマホを耳から離してしまうような大声が返ってきて、その声にただ驚いてしまう。
『Nein!』
突如響くドイツ語の否定に何事だと目を丸くしたままスマホを耳に当てると、違う、俺じゃないという、聞いているほうが辛くなるような否定の声が流れだす。
『違う、リアム、聞いてくれ・・・っ!』
「・・・一つ教えてくれ」
『何だ?』
一つだけではなくお前が知りたいのなら何でも答えると、どうしてそこまで必死になるのかと問いかけたくなるほど切羽詰まった声が先を促し、緊張をごまかすように青空を見上げる。
「いつもはコンタクトを入れているのか?」
『コンタクト? 使っていないし、ついでに言えば眼鏡もかけていない』
「でも、あの時、眼鏡をかけていたぞ」
『違う、リアム、違う』
あの日、俺の事を無視したお前は眼鏡をかけていたぞと問いかけると、一瞬の沈黙の後にその言葉を否定されてしまい、ならばあれはどういうことだと呟くと、今電話で説明をしてもきっと信じてもらえないだろうから今夜仕事が終われば家に来てくれないかと誘われて我に返ったリアムだったが、慶一朗の言葉を鵜吞みにできないという思いも少しだけ残っていて、不信を滲ませた返事をしてしまう。
「・・・多分、行ける」
『何時になっても構わない。だから頼む、来てくれ』
どうかお願いだと、あの日カフェで見た笑顔を彷彿とさせる声で頼むと言われてしまい、分かったと頷いたリアムの耳に時計にセットしていたアラームの音が流れ込む。
「ケイ、そろそろ時間だ」
『ああ、休憩を潰してしまって悪かった』
あと、電話に出てくれてありがとうと小さく礼を言われてただうんとしか返せずに通話が途切れたスマホをじっと見下ろしたリアムは、確かに休憩時間を使ってしまったが、それを悪かった、ありがとうと言える人がちゃんと説明したいとまで言い募るのだから何かよほどの事情があるんだろうと溜息を零す。
慶一朗が何を説明したいのかが全く想像出来ないリアムの脳裏、弱々しい自嘲の声と胸の痛みを誘うような笑顔がこびりつき、午後の診察の時でさえもそれは消えることはないのだった。
ランチの時間を潰した電話で約束した通り、慶一朗の家を訪れる事にしたリアムだったが、訪れるといっても自宅の玄関を出てフラット一軒分隣に歩けばいいだけなのに、足がハードワークをした直後のように動きが悪く、ノロノロと玄関の鍵と鉄のフェンスにも鍵を掛けて深呼吸を繰り返す。
隣の部屋に向かうだけでどうしてここまで緊張するんだと己の狼狽振りがおかしくて小さく笑うと、体内で膨れ上がっていた不信と不安と緊張をいっぱいに詰め込んだ風船が萎んだ気がし、もう一度無理矢理にでも口の端を持ち上げると、その風船が完全に萎んでしまう。
家に来てくれと言われたのだ、例えそこで己の想像外の事態が待ち受けていたとしても、命までは取られないはずだし、そんなことをされる理由がそもそもリアムにはなかった。
良しと腹を括って隣のフラットのドアベルを強めに押すと、程なくして足音が小さく聞こえ、玄関のドアが細く開いた後、随分と久しぶりに見る慶一朗の顔が見える。
「ハロ。呼ばれたから来た。開けてくれないか?」
「もちろん」
緊張に声が掠れることが恥ずかしくて咳払いをするリアムの前、玄関のドアが開き、ついで鉄のフェンスが開けられる。
フェンスに手を掛けながら小さな笑みを浮かべる慶一朗は無視をされる以前の彼と何も変わっていないように思え、どの顔が本当の顔なんだと脳味噌が悲鳴をあげそうになる。
「どうぞ」
「ありがとう」
隣のフラットだから間取りなどは分かっているが、何だか新鮮に感じると笑い、慶一朗が開けてくれているドアを潜って室内に入ったリアムは、同じ間取りでも室内は全く雰囲気も違うことから、まるで違う間取りの部屋のように感じて室内を見回してしまう。
「どうした?」
「・・・あのぬいぐるみって、もしかして・・・?」
リアムの目が向けられた先に鎮座しているのは、慶一朗が好きなドラマに出てくるキャラクターの等身大のぬいぐるみと、同じドラマに出てくる青い電話ボックス型のぬいぐるみだった。
「古くからやってるBBCのドラマだよな?」
「ああ。あのドラマが好きなんだ」
だからついついフィギュアがあれば買ってしまうが、ぬいぐるみはプレゼントで貰ったと笑う慶一朗の言葉に好意的に目を細めたリアムは、ぬいぐるみのラバーカップの腕を模したそこにタオルが引っ掛けられている事に気付き、この大きさだとなかなか便利だなと笑う。
「何か飲むか?」
慶一朗の声に喉の渇きを見抜かれたように感じて瞬間的に顔に熱が上るのを感じるが、晩飯がまだだから水で良いと答えると、晩飯とおうむ返しに慶一朗が呟く。
「ああ。まだ食べてない」
「・・・・・・リアムさえ良ければ、だけど、一緒に食べないか?」
俺もまだ食べていないと笑う慶一朗に一瞬驚いた顔になったリアムだったが、いや、突然来て晩飯まで食べさせてもらうのも気を使うと苦笑すると、何を気にしているんだと笑われる。
今目の前で遠慮するなと笑う慶一朗は以前仲良くしていた時と同じで、無視をされた時と何かが違っている感覚を不意に覚えたリアムは、眼鏡をかけるとぶっきら棒になるのかと疑問を思わず口に出すと、キッチンに飲み物を取りに行こうとしていた慶一朗の肩がピクリと揺れ、動きを止めてしまう。
「ケイ?」
「・・・その事で、お前に謝りたいんだ、リアム」
詳しい話をすると言ったがその前に謝らせてくれと踵を返しながら電話と同じ声で云い募られて頭を仰け反らせたリアムは、分かったと頷くと同時にソファに座って良いかと視線で問いかけると、立ちっぱなしにさせて悪いと口早に謝られてソファを勧められる。
腰を下ろしたリアムの視界、テレビが正面に入り、そのテレビが置かれているボードにはぬいぐるみと同じキャラクターの色違いのフィギュアが並べられていて、本当に好きでいくつになっても男はフィギュアなどを集めるのが好きなんだなと微笑ましい趣味に顔を綻ばせるが、水とビールのボトルを持って戻って来た慶一朗に気付いて一つ咳をする。
「ありがとう」
「どういたしまして」
本当に水で良いのかと問いかけつつボトルを差し出す慶一朗に頷き、晩御飯だが、何を食べるつもりなんだと日常会話の流れで問いかけると、さあという興味がなさそうな声が返ってくる。
「食べるんだろう?」
「うん、食べるな」
でも、何を食べるんだろうなと、まるで他人事のように呟きつつリアムの隣に腰を下ろすが、小さな吐息が足の上に落ちた後、向き直るようにソファの上で姿勢を変える。
「リアム、さっきの事だけど・・・」
俺が無視をしたことについて説明させて欲しいと切り出され、慶一朗の様子から以前と変わっていないと思っていたのは錯覚だったのかと、ひやりとしたものを感じ取ったリアムは、想像すらしていなかった言葉を聞かされて思わず水の入ったボトルを見つめ、ここに幻聴が聞こえる薬でも入れたのかと呟いてしまう。
「入れる訳が無いだろう? ────お前が無視をされたと思った俺は、俺じゃない」
あの日、お前のことを無視したのは俺ではなく双子の兄だと真っ直ぐに目を見つめながら教えられ、嘘をつくのならもっとマシな噓を吐けと言いかけるが、嘘や後ろ暗い事を考えている人間が、こんなにも真っ直ぐに目を見つめてくるだろうかと気付き、もしもそれが出来るのならばその人は生まれついての詐欺師かペテン師だとも気付き、溜息をついて慶一朗を見れば、己の口から出てくるであろう言葉に不安を覚えているような顔で見つめ返される。
出会ってまだひと月と少し。その短い期間で知った杠慶一朗という年上の同僚は、病院内での評判は文句のつけようがない程良く、彼を悪く言う声は褒める声に掻き消される程だった。
仕事を離れて二人で飲みに行った時にも感じたのは、己に対し嘘やその場限りの気休めなど絶対に言わないで向かい合ってくれる誠実な顔だった。
そんな慶一朗が、双子の兄だなどと下手な嘘と疑われかねないことをいうだろうかと脳内で自問し、言わないだろうなと自答する。
「双子の兄?」
「そう。────ああ、帰ってきた」
リアムの問いに慶一朗が頷いた時、玄関横の窓の外を通る人影が見え、直後にフェンスと玄関のドアが開く音が聞こえる。
「・・・来たのか?」
「ああ」
玄関とリビングを仕切るように置いたソファに荷物を下ろしながら来たのかと笑う顔に目が釘付けになったリアムは、微苦笑を浮かべている慶一朗の顔と眼鏡の有無だけが違う同じ顔を交互に見つめ、一つ肩を竦められて我に返る。
「・・・リアム、紹介する────俺の双子の兄、総一朗だ」
あの日、俺を心配して声を掛けてくれたのだろうが、あれは俺ではなく兄だったんだと、慶一朗の言葉が嘘ではないことを証明するように小さな笑みを浮かべ、突然弟の名を親しげに呼ばれて驚いたのと、君たちの関係が良く分からなかったから返事をしなかったと告げつつ手を差し出す総一朗を呆然と見つめたリアムだったが、名を呼ばれて改めて二人の顔を交互に見つめると、己の今日までの悩みがとんだ取り越し苦労のように思え、おかしさに自然と肩を揺らしてしまう。
「・・・双子・・・兄・・・」
何だ、そんな簡単なことでずっと悩んでいたのか、俺は嫌われたわけじゃなかったんだなと、大きな手で目元を覆い隠して肩を揺らすリアムを呆然と見つめた慶一朗に総一朗が肩を竦めた後、スーパーで買って来た食材の調理に掛かると告げてテーブルセッティングだけしてくれと呆然とする弟に苦笑する。
「ああ、そうだ・・・リアムと呼んでも良いか?」
発作のような笑いを納めて溜息をついた後、つまらないことで考え込んでしまって損をしたと自嘲するリアムに笑いかけた総一朗だったが、不意にドイツ語でファーストネームを呼んで良いかと問いかけると、リアムがもちろんと頷き、俺も総一朗と呼ぶと伝えるものの、総一朗とうまく発音出来ないと肩を竦める。
「ケイは簡単に発音できるんだけどなぁ」
弟の愛称は簡単に呼べるのにと屈託無く笑うリアムに総一朗が眼鏡の下で目を見張るが、メジャーリーグで活躍した選手がいただろう、彼と同じように呼べば良いと笑い、慶一朗がそれに驚いたように兄の横顔を見る。
「リアム、晩飯を一緒に食べないか?」
「さっきケイにも誘われたけど、良いのか?」
「もちろん」
驚きの表情で兄を見つめていた慶一朗だったが、手に取るように理解できる兄の気持ちが嬉しくて、いつものように背後からしがみつくように腕を回すと、これもまたいつものように手が頭にポンと載せられる。
「・・・すぐに作るからドクターでも観ながら待っていてくれ」
「今から作るのか? じゃあ俺も手伝う」
総一朗が苦笑しつつ慶一朗に好きなドラマを見ながら待っていてくれと笑えば慶一朗も素直にその言葉に従うように頷くが、リアムが食べてしまわないといけない食材が家にあるから持ってくると告げ、二人の返事を聞く前に慶一朗のフラットから出て行ってしまう。
ガチャンと閉まるフェンスの音を聞きつつ顔を見合わせた双子だったが、優しい男だなと総一朗が笑い、慶一朗も兄の肩に額を押し当てつつうんと小さく返事をする。
「・・・・・・優しい人だ」
まだ出会ってひと月とちょっと。まだ表面から少し掘り下げた所までしか互いのことを知らない関係だが、そんな浅い関係でも彼が心優しい良い人だというのは理解できると、口角の両端を持ち上げた慶一朗は、どうした、彼が気になるのかと問われて驚きに目を丸くする。
「俺が?」
「ああ・・・随分と嬉しそうにリアムのことを褒めているな」
お前がそんな顔で人を褒めるなんて今まで見た事がないと笑う兄に、どんな顔をしているんだと思わず兄の背中から離れた弟だったが、リアムは確かに良い男だなと頷かれて鼓動が一つだけ強く打つ。
「・・・テレビを観てるから、早く飯を作ってくれ」
その言葉はどう考えてもただの負け惜しみでしかなく、それを理解している兄の全てを察している顔を睨んで小さく舌を出した慶一朗は、ドアベルが鳴り響いた事に気付いて慌てて玄関までとんでいき、両手に何やら食材を抱えて笑っているリアムの為に玄関のドアを開けてやるのだった。
そんな弟の背中を溜息一つで見送った総一朗だったが、キッチンでリアムと二人並んで料理を始め、それらが出来上がる頃にはまるで十年来の友人の様に打ち解けた様子でリアムに語りかけ、無視をしたことは悪かった、これからはよろしくと己の非礼を詫びるのだった。
この夜、三人で初めて食事をしたが、総一朗がオーストラリアに仕事や休暇で訪れる度に揃って食事をする事が恒例となり、時には三人で市内のパブやレストランに出向いたりもするようになるのだった。
そして、この夜リアムが最近悩んでいたことへの答えが出たのだが、心や網膜に焼き付いていた慶一朗の寂しそうな笑顔が、心底楽しそうに笑うものに上書きされ、今度はその笑顔を見るだけで息苦しさを覚える理由に悩まされてしまうのだった。
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