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きのこ
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夜の教室で重ねる時間は、思っていたよりも早く深くなった。
きっかけはいつも些細だった。
悪夢を見た夜。
昼間、授業で杖を握る手が震えた日。
食堂で人に囲まれすぎて息が詰まった日。
そんな日の終わりに、どちらからともなくあの教室へ向かう。
最初のうちは、ただ同じ場所にいるだけでよかった。
壁に背をつけて座る。
低い声で少しだけ話す。
あるいは、何も言わない。
それだけで、妙に夜を越えやすくなった。
でも、人は一度“楽になる方法”を覚えると、それだけでは足りなくなる。
ある夜、ドラコはいつもより遅く教室へ来た。
扉が開いた瞬間から、様子がおかしかった。
顔色が悪い。
呼吸も少し浅い。
ローブの前をきっちり閉めているのに、指先だけが落ち着きなく動いている。
ハリーはすぐに立ち上がった。
「どうした」
ドラコは扉を閉めるなり、苛立ったように言う。
「何でもない」
「何でもない顔じゃない」
「お前は」
ドラコは眉を寄せる。
「本当にそれしか言えないのか」
その言い方には刺があった。
けれど、ハリーはもうそれに怯まなかった。
昼のドラコの冷たさとは違うと分かるからだ。
今のこれは、余裕がなくて言葉が尖っているだけだ。
「授業で何かあった?」
そう聞くと、ドラコは一瞬だけ目を逸らした。
それだけで十分だった。
ハリーは少しだけ息を吐く。
今日もまた呪文だ。
杖を握って、何かを見て、うまくできなかったのだろう。
ドラコは机の端に手をつき、そのまましばらく動かなかった。
肩が少しだけ強張っている。
無理に立っている時の体の使い方だと、ハリーはもう分かっていた。
「座れよ」
「命令するな」
「じゃあ、お願い」
その返しに、ドラコがようやく顔を上げる。
灰色の目がまっすぐこちらを見る。
何か言いたげだった。
でも結局何も言わず、少し乱暴に机の端へ腰を下ろした。
沈黙が落ちる。
ハリーは少し離れた場所へ座るつもりだった。
だが今夜は、そうできなかった。
ドラコの顔があまりにも苦しそうで、距離を取る余裕がなかった。
ゆっくり近づき、隣へ腰を下ろす。
ドラコはそれを止めなかった。
止めなかったどころか、目を閉じたまま、小さく息を吐く。
まるでそこに誰かが来るのを待っていたみたいに。
その反応に、ハリーの胸が少し強く鳴る。
「頭、痛いのか」
静かに聞くと、ドラコはしばらく黙ってから答えた。
「……少し」
「吐きそう?」
「そこまでは」
少しだけ間を置く。
「でも、杖を握るたびに」
喉が上下する。
「まだ、声がする」
その一言は、今まででいちばん本音に近かった。
ハリーはそこで何も言わなかった。
慰めの言葉は、こういう時にはたいてい役に立たない。
大丈夫なんて言えるはずもないし、忘れろとも言えない。
だから、代わりにそっと肩へ手を置いた。
ドラコの呼吸が少し揺れる。
でも避けない。
そのまま、ほんの少しだけ近づける。
肩が触れる。
ローブ越しの体温が伝わる。
「……お前、ずるいな」
ドラコが低く言った。
「何が」
「そうやって」
睫毛を伏せたまま。
「何も言わないで、平然とそばにいるところ」
ハリーは少しだけ笑った。
「君、何か言うと怒るだろ」
「さあな」
「怒るよ」
「お前にだけは言われたくない」
そう返したあとのドラコの声は、少しだけ軽くなっていた。
その変化に、ハリーはどうしようもなく嬉しくなった。
役に立てた気がした。
ただ隣にいるだけで、この人の呼吸が少しでもましになるなら、それだけで十分だった。
その夜、ドラコは初めて自分からハリーへ寄りかかった。
ほんの少しだけ。
でも確かに、自分の重みを預けた。
ハリーは息を止めた。
動けば壊れそうで、そのまましばらく何もできなかった。
ドラコの髪が肩へ触れる。
呼吸が首筋に近い。
その距離の近さに、心臓が妙にうるさい。
「……今、何考えてる」
ドラコが目を閉じたまま聞く。
ハリーは少し迷ってから、正直に言った。
「動いたら逃げられるかなって」
その返事に、ドラコは小さく鼻で笑った。
「馬鹿か」
でも、その声にはもう、いつもの冷たさはほとんどなかった。
そのあと、どちらからともなく顔を上げた。
視線が近くでぶつかる。
息が重なる。
最初の口づけは短かった。
触れるだけ。
確かめるだけ。
でも、その短さの中に、今まで積み重ねた夜の静けさが全部詰まっていた。
離れたあとも、どちらも何も言えなかった。
ドラコが先に視線を逸らす。
耳のあたりが少し赤い。
その反応が、妙にハリーの胸を熱くする。
「……今のは」
ドラコが低く言う。
「なかったことにしてもいい」
ハリーは少しだけ息を呑んだ。
なかったこと。
たぶん、今のドラコは本気でそうもできると思っている。
夜の弱さの延長として、うやむやにしてしまえると思っている。
でも、ハリーにはもう無理だった。
「嫌だ」
はっきり言うと、ドラコがこちらを見る。
「何で」
「なかったことにしたくない」
ハリーはそのまま答える。
「僕は」
そこで少しだけ言葉が止まる。
本当はもっと言いたい。
でも今それを全部出すと、ドラコが引く気がした。
だから最後だけ、少し抑える。
「……ちゃんと覚えてたい」
ドラコはその返事を聞いて、しばらく黙っていた。
それから、低い声で言う。
「重いな」
「知ってる」
「ほんとに」
ドラコは小さく息を吐く。
「お前は、そういうところが面倒だ」
そう言うくせに、帰る時にはまたハリーの袖を少しだけ掴んだ。
ほんの一瞬。
離れる直前にだけ。
その矛盾が、ハリーを決定的に深みへ引きずり込んだ。
⸻
それから、二人の関係ははっきり変わった。
夜の教室で、ただ話して終わることは少なくなる。
口づける。
抱きしめる。
ドラコが悪夢のあとだけ妙に素直になる。
ハリーはそれに応える。
そうして一線を越えるまで、時間はかからなかった。
ただし、温度差は最初からあった。
ハリーにとって、それはもう“夜だけの関係”ではなかった。
ドラコが弱っている時だけの慰めでもない。
ハリーはすでに、ドラコそのものを欲しがっていた。
昼の顔も、夜の顔も、不機嫌な時も、追いつめられている時も、全部込みで。
一方のドラコは、最初は違った。
もちろん嫌ではない。
むしろ、はっきりと惹かれている。
ハリーに触れられると、痛みが少し遠のく。
あの腕の中にいると、眠れない夜が少しだけまともになる。
それは本当だ。
でも、最初の段階ではそれ以上ではなかった。
逃げ場。
麻酔。
息継ぎ。
言ってしまえば、そういうものだ。
だからこそ、ドラコは昼と夜を切り分けられた。
夜にはハリーを受け入れる。
自分から寄ることもある。
名前を呼ばれても拒まない。
抱きしめられれば、少しだけ力を抜く。
なのに昼になると、まるで昨夜のことなど一度もなかったみたいに冷たい。
食堂ですれ違っても、視線を逸らす。
授業の前に話しかけても、必要最低限しか返さない。
時には露骨に突き放す。
「今話しかけるな」と言わんばかりの顔で、先に歩いていく。
最初のうち、ハリーはそれを“照れ”だと思おうとした。
夜のことを昼へ持ち込むのが苦手なのだと。
プライドが邪魔しているのだと。
けれど、回数が増えるほど、それだけでは片づかなくなる。
ある日の昼休み、廊下でハリーが「今夜、来る?」と低く聞いた時、ドラコは一瞬だけこちらを見て、それから何でもない声で言った。
「さあな」
「お前の都合に合わせて生きてるわけじゃない」
言葉そのものより、その平坦さのほうがきつかった。
昨夜、自分の肩へ額を寄せていた人間と同じとは思えない。
あの時はあんなに近かったのに、昼のドラコは簡単に距離を取る。
ハリーはその場で少しだけ顔を強張らせた。
でも何も言えなかった。
ドラコもまた、何も言わずに去る。
その背中を見送りながら、ハリーは初めてはっきり思った。
自分だけが、本気なのかもしれない。
その考えは、一度浮かぶと何度も戻ってくる。
夜のドラコは本物なのか。
それともあれは、ただ苦しさを紛らわせるための一時的な逃げなのか。
もしそうなら、自分は何だ。
慰め役か。
都合のいい相手か。
それとも、本当にただの夜の薬か。
ハリーはそういうことを考えるたび、胸の奥がざわついた。
そして、そのざわつきが増すほど、ドラコから離れられなくなる。
もっと欲しくなる。
昼の顔も欲しくなる。
夜だけじゃ足りなくなる。
それが依存の始まりだった。
⸻
ドラコは、その変化に気づいていた。
ハリーの視線が前より深くなる。
昼間、少しでも自分が離れると顔が曇る。
夜、帰る時間になると黙る。
その沈黙の中に、まだいてほしいという気配が濃くなる。
分からないわけがない。
でも、どう扱えばいいのか分からなかった。
自分は最初から、そこまで渡すつもりではなかったのだ。
欲しかったのは、少し楽になる夜だけ。
自分が壊れきらないための、狭い避難場所だけ。
なのに、ハリーはそこへ本気で入ってこようとする。
昼も夜も区別なく、こちらの中へ居場所を作ろうとする。
それが怖かった。
怖いのに、嫌ではない。
嫌ではないから、余計にややこしい。
ある夜、ハリーは教室へ入ってくるなり、いつものようにすぐそばへ座った。
そして何も言わず、ドラコの手へ触れる。
昼のことを引きずっているのだと、触れ方だけで分かる。
少しだけためらいがあって、そのくせ離れたくない指先だ。
「……機嫌悪いな」
ドラコが言うと、ハリーは小さく笑った。
「君のせいだよ」
「知らないな」
「知ってるくせに」
そのやりとりのあと、ハリーは少しだけ真顔になった。
「昼の君と、夜の君」
低い声。
「どっちを信じればいいの」
ドラコはそこで手を引っ込めた。
その問いは、予想していた。
でも聞かれるとやはり痛い。
「信じる必要あるか?」
そう返す。
冷たく。
できるだけ何でもない顔で。
ハリーの目がはっきり曇った。
「あるよ」
短い返事だった。
でも重かった。
「僕は」
喉が少し動く。
「君のこと、ちゃんと欲しいんだ」
その言葉に、ドラコは一瞬だけ息を止めた。
ちゃんと欲しい。
そう言われた瞬間、胸の奥のどこかが激しく揺れた。
欲しい。
それはたぶん、自分が一番向けられ慣れていない種類の言葉だ。
家は期待する。
父は命じる。
周囲は評価する。
でも、ただ欲しいと、そんなふうに言われたことはほとんどない。
だからこそ、危険だった。
ドラコは顔を背ける。
「……重いと言っただろう」
「分かってる」
「分かってない」
低い声。
「お前は何でも」
「本気で持ってこようとする」
ハリーはしばらく黙り、それから静かに言う。
「だって君も、本気だろ」
その一言が、ドラコには刺さった。
違う、と言えば嘘になる。
でも、はい、とも言えない。
なぜなら、本気だと認めた瞬間に、もう逃げ場がなくなるからだ。
「……今夜は帰れ」
ドラコがそう言うと、ハリーは明らかに傷ついた顔をした。
それが見えて、胸が痛んだ。
でも、だからといって引っ込めることもできない。
「昼は冷たくて、夜は抱き寄せて」
ハリーの声が少しだけ荒くなる。
「それで、こういう時は帰れって?」
目を逸らさない。
「君、ほんとに残酷だな」
残酷。
その言葉に、ドラコは反論できなかった。
たしかにそうだ。
夜だけ与えて、昼に切る。
期待を持たせておいて、自分が苦しくなるとすぐ引く。
自分でも卑怯だと思う。
でも、完全に手放すこともできない。
「……それでも」
ハリーは少しだけ声を落とした。
「僕、来るよ」
ドラコは顔を上げる。
ハリーの目はもう、以前よりずっと深いところに来ていた。
ただ気にかけているだけではない。
ただ放っておけないだけでもない。
もう明らかに、自分の生傷ごとドラコへ預けようとしている。
それが怖かった。
それなのに、そこで本気で拒めなかった。
「勝手にしろ」
結局、またそれしか言えない。
ハリーは少しだけ寂しそうに笑った。
「それ、許してる時の言い方だよね」
ドラコは返事をしなかった。
でも、その沈黙が答えだと、ハリーはもう知っている。
その夜、ハリーは帰らなかった。
ドラコも追い出せなかった。
結局、口づけてしまう。
抱きしめてしまう。
触れれば少しだけ、どちらもましになるからだ。
だからこそ、破滅的だった。
ハリーはますます本気になる。
ドラコはますます切り分けようとする。
そのズレが、これから先、二人をもっと深く引き裂くことになる。
でもその夜の二人には、まだそれを止める力がなかった。
⸻