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なんとなくぎこちない空気はあるけれど、それでもいつもと変わらない日々が過ぎていった。
そしていつもの木曜日。
遠藤の代わりに久里山がいる事務所へと向かう。
_____こんな気分の時は、いつもと変わらず穏やかな雰囲気の遠藤に会いたかったのだけど
「こんにちは」
「こんにちは、久しぶりですね岡崎さん」
_____名前、憶えてるの?
数回しか関わったことがない私の名前を記憶していた久里山が、意外だった。
交換したLINEはそのままにしてあったけど、久里山が辞めて以来なにもやり取りをしていない。
「久里山さん、復職されたんですか?」
「いいえ、まぁ遠藤さんに頼まれた時だけのピンチヒッターです」
「わりと適当なんですね」
「そんなもんですよ、ここの事務所って。遠藤さんももとは本社のバリバリのエリートだったのに、こんなところにまわされて悲劇ですよね」
_____まわされた?左遷ということ?
「そうなんですか?」
「あれ?聞いてないですか?本人から。なんか仲が良さそうだったからてっきり話してるかと思ってたんだけど」
「そんなことないですよ、ただの雇い主とアルバイトだから」
ふーん、と言いながら私の頭から足先までをじっと見る久里山。
「え?なにか?」
「なんかさ、ちょっと雰囲気変わったよね?岡崎さん」
「そうですか?何もないけど……それより、これ、出来上がりのデータを持ってきました」
余計な話をしたくないので、すぐに仕事の話に戻した。
「あー、はいはい、確認しますね。それから次はこれを渡しといてくれと言われてます」
私が差し出したメモリーと引き換えに、次のメモリーを預かる。
遠藤がするようにプリントアウトした書類を、一枚ずつ確かめていた。
「あ、残念、ここ一つだけ誤変換がありますね。こちらで直しておきます」
「え?すみません、チェック不足でした。以後気をつけます」
ぐしゃぐしゃな気持ちのままでこなしていたからか、ミスがあった。
_____久里山さんて、もっといい加減な仕事ぶりかと思ってた
見つけられたのが遠藤でなくてよかった、と思う。
「それであの……」
久里山が知る遠藤のことを知りたいと思った。
「ん?なにか?」
_____訊いてどうするんだろう、私
「あ、いえ、別にいいです」
「ふーん、何?俺に興味があるとか?」
「えっ?あ、まぁ……」
遠藤とは反対のタイプで、軽薄そうで信用がないように見受ける、とは言えないけれど。
「嘘だね。アレでしょ?遠藤さんのことを知りたいんでしょ?」
「いや、そんなことは」
ズバリ言い当てられて焦った。
「いいよ、知ってることは教えてあげる」
「あの、でも個人情報になるから」
「別に住んでるとことか奥さんの名前とか、そんなことは俺も知らないし。遠藤さんのことで俺が知ってるのは、ここに来る前は本社の営業でバリバリやっててさ、大きな仕事も抱えていて開発に関わってる案件もあったらしいよ。期待の人でね」
「へぇ、すごいんですね。でも何故ここへ?」
それについては遠藤本人から少し聞いていたけれど、知らないふりをする。
「なんかね、奥さんもキャリア組で2人の間には子どもがいて。遠藤さんのせいでその子が怪我して、足に障害が残った。それを酷く気に病んだ奥さんはとうとう精神的にまいってしまってさ。仕事を辞めてしまったらしい。それで子どものケアと奥さんのケアをするために、時間に余裕がある部署に異動願いを出した……と言っても、大きな案件が頓挫してしまって、その責任を取らされた形もあって、こんなところに左遷されたんだってさ」
「それで、奥さんと息子さんは?」
「2人ともなんとか普通の生活に戻ったらしいけど。なんか今日は家庭のことで休むからって急遽俺が呼ばれたんだけどね」
「家族がいるって、責任がありますもんね」
ついつい自分の夫、雅史と比べてしまう。
雅史が遠藤と同じ立場になったら、どうするだろうか?
自分の仕事を差し置いても、ケアしてくれるだろうか?
「そんなことより、俺には興味ないの?岡崎さん」
気がついたら、すぐ目の前に久里山が立っていた。
ふっと、息がかかる距離の異性にドキリとする。
「びっ、びっくりした。えっと、久里山さんのこと?なんか株の投資をやってるとか?」
「あ?あー、あれか。株って、俺のこと。俺自身に投資してって話だよ」
「じゃあ、ホスト的な?」
「そうくるよね?まぁ、似てるけど違う」
「ごめんなさい、世間知らずな主婦で」
なんだか謝罪してしまう。
「あはは、いいよいいよ、そんなこと。あのね、岡崎さん、リラクゼーションとか行く人?マッサージとかエステとか」
「独身の時は行ってたけど、いまはまったくです」
「ふぅん、今は行きたくない?俺がやってるやつは今だから行きたくなる、そんなリラクゼーションだよ」
ほら、と言って名刺を渡された。
【サロン・エステ KURIYAMA】と表書きがあって裏には携帯番号があるだけだった。
よく行く美容院のカードのような定休日や営業時間はなにも書いてない。
「よかったら岡崎さんもどうぞ」
「営業時間も料金もわからないし、場所も?」
「それはね、その人によって違うから。俺が施術するのは、女性としての感度をあげるためのもの、わかる?そういうの聞いたことない?」
「え?」
久里山のセリフの中に『女性としての感度』という言葉があって、そこにひっかかった。
「岡崎さんくらいの女性って、案外満足できてないんだよね、ご主人やパートナーとのセックスに」
「!!」
こんなに明るい、いや暗ければいいというものでもないけど、こんな職場でセックスなんて言葉を聞くと顔も耳たぶも真っ赤になるのがわかる。
「あれ?もしかして恥ずかしいとか?意外だな」
「そ、そんな、こんな場所でそんなこと言われたら焦りますよ」
「そう?岡崎さんくらいの子どもがいる主婦なら、普通のことじゃない?そんな話、友達としないの?」
そう言われて、成美と話していたことを思い出した。
「話には聞いたことがあるけど、本当にそんなことをしてる人がいるなんて。でもそれって……女性向けの風俗では?」
「間違ってはいないけど。ちょっとだけ違うのは、男性向けのソレとは違う、なんていうかカウンセリング的なものだよ」
「どういうことですか?」
こんなところで話すことではないと思いつつ、久里山の本業に興味があった。
「岡崎さんてさ、旦那さんとのセックスに満足してる?」
「えっ?」
いきなり核心をつく質問に、こちらから訊いておいて怯んでしまう。
「その顔じゃ、満足してないよね?でもそれってさ、旦那さんのせい?下手くそだから?」
「……」
_____上手とか下手とか、それ以前の気持ちの問題だと思うんだけど
「そんな赤裸々なこと、おとなしい奥様には言えないか。ま、いいや。そういう問題ってデリケートでなかなか夫婦でも言えないし。どちらかと言うと夫婦だから言えないのかも。でね、それが女性の側に問題があるとしたら、それを解決できるかもしれないというカウンセリングだよ」
「へ、へぇ……」
「簡単に説明すると。不感症の人を感じやすくさせたり、どうやったら気持ち良くなれるか教えてあげるのが役目。もちろんお金もいただくし」
「それ、不倫にならない?」
「ならない。そこには恋愛感情もないし。それにさ、絶対《本番》しないから」
生々しい言葉に顔が真っ赤になるのがわかって思わず視線を外した。
「俺ね、できないの。そういう病気だと思ってくれたらいい。だから単純にマッサージとかカウンセリングと同じ。まぁ、密室で色っぽいことしてるから誤解されるけどね。そこは潔癖!」
言ってる内容と《潔癖》という言葉に落差があり過ぎて、思わず吹き出した。
「ちょっと、おかしいですね、それ。潔癖?信じられないな」
「よく言われる。でも、岡崎さんもそういうのが必要になったら連絡して。あのLINEでもいいよ」
どうかな?と首を傾げながら、成美に今度話そうと決めた。
「あ、そうそう、遠藤さんのこと知りたがってたよね?遠藤さん、離婚するかも?って言ってたよ。やっぱり一度離れてしまった気持ちは戻らないよね」
_____遠藤さんが離婚?
やっと家族で暮らせると聞いていたのに。
何故かわからないが、それがとても悲しく思えた。