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蓮と長く話し込んでしまったのに、同僚たちは帰らずに待っていてくれていた。
「倉橋さん大丈夫? 気分悪い?」
先輩が心配そうな顔をして聞いて来た。
「いえ、大丈夫です。すみません遅くなって」
待っていてくれる人がいた。その事実が今の私にとっては、たまらなく嬉しかった。
蓮とのやり取りで、傷付いた心が癒やされる気がした。
直樹が雪香を選び去って行った時は、もう誰とも関わりたくないと思った。
一人の方がいいと思った。
でも今は、不思議とそうは思わなかった。
この瞬間だけでも私は一人じゃない。安心して涙が零れそうになった。
リーベルを出て、また連絡をする約束をして別れた。
終電には間に合わなかったので、別ルートで帰る。
途中からはタクシーを使い、やっとアパートに辿り着いた時には、深夜の二時を過ぎていた。
精神的にも身体的にも疲れ果てていた。重い体を引きずり階段を上る。
二階の共用廊下を静かに歩きながら、バッグを開け鍵を探す。
やっと休めると、ホッとして気が緩んでいたのだろう。
突然隣のドアが開いたことに驚愕し、手にしていた鍵を落としてしまった。
開いたドアの影から三神さんが現れる。こんな時間に遭遇するとは思ってもいなかったから、咄嗟に言葉が出てこない。
「倉橋さん?」
三神さんも驚き、私を見つめている。
「……こんばんは、こんな時間に会うとは思わなかったから驚いちゃいました」
言いながら、腰を落として鍵を拾う。
「……倉橋さんは、飲みに行ってたのかな? 階段を上って来る音も聞こえなかったから驚いたよ」
「今日は送別会で……遅いから音が響かない様に上って来たんです」
再び顔を上げた私は、三神さんのいつもとは違う雰囲気に眉をひそめた。
彼に強い違和感を持った。なぜ?
冷静に観察すると直ぐに、違和感の原因に気が付いた。
それは三神さんの服装だった。
思えば私は彼の会社帰りにしか顔を合わせたことがない。その時の彼はライトグレーやベージュの柔らかな雰囲気のスーツを身に付けていた。
だから私服もシンプルで落ち着いた雰囲気の、誰からも好感を持たれる様な服を好むのだろうと思っていた。
それなのに……今、三神さんは、夜の闇に紛れる様な黒一色の服を身に着けていた。
実際には、全部が黒と言う訳では無いかもしれない。けれど暗い夜中のアパートの廊下では、微妙な色の判別は出来ない。私の目には、どこか鋭さを持った真の黒に映った。
「だから足音が聞こえなかったのか、倉橋さんは気遣いの人なんだね」
考え込んでいた私は、上から降って来た声に顔を上げた。
三神さんはいつもの感じの良い笑顔だったけれど、なぜかその笑顔すら別人の様に見えた。
「倉橋さんがそんなに周囲に気を配っているとは、思わなかったな」
「……私、何かご迷惑かけてましたか?」
三神さんの言葉に含みが有る様な気がして、私は眉をひそめた。
身に覚えは無いけれど、気付かない内に何かしていて、不快感を与えていたのだろうか。
だから気が利かない人間だと思われてる? 分からないけれど、今日の三神さんは本当に違和感が有る。
怖い程の静寂に恐怖を覚える。緊張しながら立ち尽くしていると、三神さんはようやく返事をした。
「迷惑なんてかけられて無いよ、ただ倉橋さんは他人に関心が無さそうに見えたから」
穏やかな口調はいつもと変わらない。それなのに、どうして私は警戒してしまうのだろう。
服装に違和感が有るからといって、ここまで神経質になる必要なんて無いはずなのに。
「あの……私失礼しますね。もう遅いので」
私の緊張とは対照的に、三神さんは余裕の笑みを浮かべながら頷いた。
「悪かったね、深夜に話し込んじゃって」
「いえ……おやすみなさい」
私は軽く会釈をしてから、急ぎ足で自分の部屋のドアの前に行った。手にしていた鍵を鍵穴に差し込もうとしたけれど、焦っているせいか上手くいかない。
その間も、三神さんがこちらを見ている気配を感じた。
どうして立ち去らないのだろうか。外出しようとしてたんじゃ無いの?
やっと鍵が開くと、ドアを開け部屋に滑みそしてしっかりとロックをかける。
同時に、足音が遠ざかって行く音が聞こえて来た。
私は、その場にズルズルとしゃがみ込んだ。
しばらくして周囲が完全に静かになると、ノロノロと立ち上がった。
酷く重く感じる体を引きずり、奥の部屋に向かう。
着替えもせずにクッションの上に座り、今の出来事を考えた。
私はなぜ彼に対して恐怖を感じたのだろう。
思い返してみても理由が分からない。
思いがけなく深夜に出会い、いつもと違う三神さんの姿を目にしただけで何もされていないのに……。
あれこれ考えたけれど、答えは出なかった。
考えてみれば私は三神さんについて何も知らない。
勝手に好感の持てる良い人だと思い込んでたけれど、実際の人柄は何も知らないのだと今更気付いた。
ポストにはフルネームの表札をきちんと付け、会えば爽やかな笑顔で挨拶をして来る。
一般的な会社務めだろうと推測できるスーツ姿と帰宅時間。
それだけの理由で、三神さんを常識の有る安全な人だと判断していた。でも今思えば小さな気がかりは有ったのに。
常に同じクラッシック音楽を流していて、休日には一切姿をみかけない。
どちらも問題行動ではない。だから私は、今日三神さんに会う迄それらについて気に留めていなかった。
でも、今私は三神さんに対する警戒心でいっぱいになっている……その感覚を無視するのは危険な気がした。
新しいアパートを探して引っ越しをするまで、三神さんとは出来るだけ接触しない様にしよう。
このアパートは私にとって良くないことが起こり過ぎる。早く引っ越し先を見つけようと決心した。
翌日目覚めると、お昼をとっくに過ぎていた。
普段は休日でも寝過ごさないけれど、久しぶりに沢山飲んだ為かぐっすりと寝込んでしまっていた。
蓮と三神さんのことが頭から離れず、なかなか寝付けなかったのも影響していそうだ。
午前中を無駄にしてしまい、焦りを感じる。今日は不動産屋を見て回る予定なのに。
二週間後には新しい会社に入社するから、それまでにアパートを見つけたい
長いと思っていた休みも、あっという間に終わってしまいそうだった。
手早く着替えを済ませ、外に出た。
三神さんに会ったら嫌だなと不安が過ったけれど、そんなことは無くホッとした。
いつもの音楽も聞こえないし、不在のようだ。
今までも、休日は部屋に居なかったのかもしれない。
急ぎ歩いて駅に向かい、まずは、今のアパートを紹介してくれた不動産屋に向かった。
店内はまあまあ混んでいたけれど、それ程待つことなく窓口担当と話が出来た。
「今と同程度の家賃の物件を探してるんです。少し狭くなってもいいんですけど、治安が良いところを希望します」
「今の家賃はおいくらですか?」
私は金額を言い、この不動産屋で紹介して貰った物件だと話した。
アパート名を伝えると、女性社員は直ぐに分かったようだった。
「確かにあの辺りは、治安が良いとは言えないかもしれませんね」
「部屋は広くて気に入ってたんですけどね」
「そうですね、ただ女性の一人暮らしだと不安かもしれないですね。特に今は空き部屋が多く二階には一人きりですし」
「……え?」
その発言に、私は眉をひそめた。
「あの、隣は住んでますよ。確かにもう一部屋は空いているようですけど」
三神さんは、違う不動産屋の仲介で入居したのだろうか。
そう考えたけれど、すぐに否定された。
「真ん中の部屋ですか? 確かに契約されていますけど、人の出入りは滅多に無いんじゃ無いですか?」
「どういう意味ですか?」
契約しているのに、出入りしないなんて意味が分からない。
そもそもあの部屋には、三神さんが住んでいる。
女性社員の勘違いだと思いながらも、胸の中は嫌な予感でいっぱいになった。
「あの部屋は荷物置き場としての契約ですから、寝泊まりはしていないかと」
「うそっ!」
話の内容に衝撃を受け、思わず高い声を上げてしまった。