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事の始まりは、あいつ。
わたしの父ということになるのだろうか。
父は小説家志望の、どうしようもない男だった。
もう30も過ぎたというのに憧れを捨てることができず、アルバイトをしながら売れない小説を書いていた。
あいつは体験というものを重視していた。
小説、特に私小説を書くにあたっては自身の経験がモノを言う。だから、経験が大切なのだといつも言っていた。
ああ、そうだろうね。
わたしもそう思うよ。
でも、だからといって小説を書く為に女に近づいたり、結婚したり、子供を作るのはどうなのかな。
そうして書き上げた小説が箸にも棒にもかからないと、あいつはすぐに女を捨てる。
こんなはずじゃなかったのにと、ひとしきり悲しんだ後こう言うんだ。
「そろそろ次の題材を見つけよう。」
いやぁ、前向きですね。実に前向きだ。
立ち止まらないというか、止まる気もないというか。
前に進むことしか考えていないというか。
端的に言えば、狂っている。
そうして捨てられた一人目の女が姉の母で、その次の女がわたしの母だった。
母はあの人は純粋なのよと言った。
ああ、純粋だろうね。でも、醜悪だ。
というか、純粋なのは母の方だ。
いつまでも愛してもらえると思っているのだから。
案の定、新作は一次選考に落ちて。
あいつはまた女を変えた。
白々しくも「こんなはずじゃなかったのに」と言って。
純粋だったが故に、母の怒りは凄まじかった。
わたしに至っては、お前なんか産まなければよかったと言われた。
ああ、わたしもそう思うよ。
わたしだって、生まれてきたくなんかなかった。
逆に聞きたいくらいだよ、なんで産んだの?
そして、わたしと姉は父と共に新しい女の家に住むことになる。
それがこの家だ。
わたしも姉も馬鹿じゃない。
ここまで繰り返されたのだ、あいつのやり口を読んで、それぞれ先手を打つようになった。
大学進学を控えていた姉は、あいつの執筆活動を遅らせることで離婚を食い止め、新しい女に大学の学費を捻出させようとした。
実に打算的だ。
いいんじゃない? 好きにすれば?
ちなみに、小学5年生だったわたしはどうでもよかった。
もう、本当に。何もかもどうでもよかった。
こんな気持ち悪い世界。
気持ち悪い場所なんて、みんな壊れてしまえばいいと思った。
だから、新しい女に入れ知恵をして、あいつを追い出した。
姉は激怒した。
そりゃあそうだろうね。
せっかく大学受験に成功したのに学費が払えないのでは通えない。
でも、そんなことはどうでもよかった。
みんなみんな、苦しめばいい。
そう思った。
あの男は小説の邪魔をされたと怒っていたけれど、そんなに小説というのは大切なものだろうか。
あいつが残していった蔵書はあらかた読んだ。
本来なら高校で学ぶ、『山月記』も『公然の秘密』も読んだ。
どれもこれもつまらない。
小説なんてつまらない。
こんなものの為に、わたしがひどい目に遭っている意味がわからなかった。
ただ、母を書いたあの小説だけは、とてもよかった。
せめてあの小説がつまらなければ、わたしはこんなに苦しむこともなかったと思う。
Kに緑茶を渡すと、少し話をした。
何度か酷い目にあっていないかと疑われたけれど、気のせいだよとはぐらかしておいた。
実際、何もされていない。
あの女はわたしたちがここで寝泊まりしても怒らないし、金もくれる。
姉は大学に通い。
わたしは中高一貫校に通えている。
金銭的な不自由はない。
ただ、お互いに関わり合おうとしないだけだ。
父が失踪してもあの女はまだ籍を入れたまま。
書類上、義姉もわたしもあの女の娘ということになる。
ああ、かわいそうに。
愛した男に裏切られ、こんなどこの女との子かもわからない奴を二人も育てなきゃならないなんて。本当にかわいそう。
同情するよ。
でも、諦めて欲しい。
人生とは理不尽なものだ。
わたしたちは何にもなれない。
特に、家族にはなれない。
このまま、何にもなれないまま生きていくのだ。
それでいいじゃないか。
金の算段がついたらすぐに出て行くよ。
だから、今後とも関わり合わずに生きていこう。
それが、お互いの為だ。
わたしはクラスの連中が用意しつつあるという寄せ書きをぞんざいに断ると、明日は学校に行くよ。と約束した。
わたしは少しおかしくなっていたんだと。
そう、付け加えて。
Kを玄関まで送ると、外は綺麗な夕焼けだった。
ゆっくりと扉が閉まっていく。
家の中は、外より少し暗いものだ。
そういえば、Kは少し心配そうな顔をしていた。
優しいんだね、K。でも無理だよこんなの。
どうにかできるわけないじゃん。
どんなに外側を取り繕っても、わたしたちの人生は取り返しがつかないくらいぐずぐずになっているんだ。
小説とかいうくだらないものに、身体の中を食い尽くされてしまった。
中高一貫校の試験を突破しても、テストで一番になっても、別に何かになれるわけではなかった。
振る舞ったお茶を片付けるために自室に戻ると、わたしはなぜか「帰りたい」と呟いていた。
わたしの部屋はここなのに。
帰りたいと、そう思うのだ。
この部屋にあるのは、すべてあの女の金で買ったものだ。
服も、部屋も、食事も。
それを食べて育ったわたしの身体も。
あの女の金でできている。
まるで水槽に生きる金魚のようだと思った。
自分では何も出来ず、与えられなければ死んでしまう。
だから、帰りたいと思うのだろうか。
本当の母を探しに行く物語は数多あるけれど。
わたしが母の元へ行っても、何もいいことはないだろう。
わたしが好きな母はもう、あいつの書いた小説の中にしかいない。
あの母もまた、中身を全部小説に食われて、ぐずぐずになってしまったのだから。
小説なんて嫌いだ。
そんなものに執心する、作家たちも嫌いだ。
でも、何よりも嫌いなのは。
甘ったるい空想で人生をごまかして、のほほんとしている読者やつらだ。
人生はつらいよ?
ああ、つらいよな? 知ってる。
わたしだって、何かになりたいよ。
だからって、それで、自分から逃げてどうするんだよ。
いいよな、お前らは。そうやって逃げていられるんだから。
わたしは、わたしの人生は、そんなやつらの糧にされて、娯楽として消費されるためにあるのか? それが小説ってものなのかよ。
せめて立ち向かえよ。
人生が苦しくても、つらくても、何もかもうまくいかなくても。
それでもてめえの人生だろうが。
それからわたしは失踪した父の部屋に戻って、安っぽいコピー紙に印刷された母の物語を少し読んで、そのまま寝た。
夜中に目が覚めて、何か素晴らしい傑作でも書いて世間をあっと言わせてやろうと思ったけれど。結局、一文字も書くことができなかった。
この頃のわたしは人格権のことも知らなければ、父の書いた私小説というジャンルがどういうものなのかも、わかっていなかった。
娯楽小説の重要性も知らぬままに、物事を混同して勝手に怒り狂う。
我ながら、浅はかなガキだったと思う。
そもそも、小説に何の罪があるというのか。
悪いのは父であって小説に罪はない、それだけの話ではないか。
そういえば、その日も虎の夢を見た。