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朱印状を受け取ってから一ヶ月あまりが過ぎた。
僕は京都・大阪・江戸三都市を結ぶ定期便船のシステム構築に向けて奔走していたが、最大の課題は物流の起点となる中央卸売市場の建設だった。
「ここに官営市場を作るぞ」
測量隊と共に江戸郊外の河岸に到着した僕は、目の前の広大な用地を眺めながら宣言した。側近の重次郎は呆気に取られている。
「坊ちゃん……この面積は一体どれほどの費用がかかるのですか?」
「見積もって約一万両(現在の数十億円相当)」
途方もない数字に周りの職人たちも絶句する。確かに莫大な投資だ。しかし長い目で見れば十分回収可能だと計算していた。
「問題は資金調達だな……」
頭を悩ませていると背後から咳払いが聞こえる。
「御館様はこちらにいらっしゃいましたか」
振り返ると、本多正信が従者を連れ立って現れていた。思わぬ来訪に慌てる。
「これは本多様!なぜこちらに?」
「徳川様が様子をご覧になりたいとのことでな。実はわしも同行させてもらった」
老獪な策士らしい微笑みを浮かべつつ、彼は続けた。
「それで資金の工面については考えがあるのかね?」
核心を突く問いに僕は意を決して説明を始めた。
「はい。まず江戸の豪商たちに共同出資を求めています。利権というわかりやすいメリットがあれば協力してくれるでしょう」
「ほう……商人を巻き込むというのはなかなか」
正信の目が光る。
「そしてもう一つ……この市場内で独自の通貨を発行したいと考えています」
「独自通貨とな?」
「えぇ。市場でのみ使用可能な紙幣を導入することで流通速度を加速させます。それによって商品の売買が活発化し全体の景気向上につながるはずです」
この時代、まだ金銀以外の通貨体系は未成熟だった。紙幣による即時決済は、取引を飛躍的に効率化するはずだ。
「なるほど……」
本多正信はじっと考え込みはじめた。すると突然閃いたように顔を上げる。
「九郎兵衛殿。もしその構想が成功すれば……江戸だけではなく、諸国と同じモデルが展開できましょうな」
鋭い指摘に思わず頷く。まさにそれが狙いだった。
「その際はぜひ本多様のご指導を頂ければ幸いです」
お世辞抜きで伝えると彼は愉快そうに笑った。
「よかろう。ならばまずは江戸市場の完成を目指そうじゃないか」
話がまとまったところで本多正信は踵を返した。去り際にポツリと呟く。
「家康様も楽しみにしておるぞ」
彼の言葉が背中に刺さるようだった。
官営市場建設プロジェクトは急速に動き始める。各地から集められた石工や大工たちは昼夜兼行で作業を進め、ついに完成までの目途が立った。
「坊ちゃん! 最初の荷物が届きますぜ!」
ある朝早く重次郎に起こされた僕は、急いで現場に向かう。既に大勢の人々が集まり賑わっていた。
「皆の衆、ご苦労であった!」
壇上から声をかけると歓声が沸き上がる。目の前には堂々たる建物が並び立ち、倉庫群と露店街が一体となった壮麗な空間が広がっていた。
「ここから全てが始まることを願って」
感謝の気持ちを込めながら僕は切り株に刻まれた銘板を見つめる。そこにはこう記されていた。
【天下の富、此処より発する】───江戸総合市場(仮称)
竣工式の祝宴が盛り上がっていたその時だった。突然の騒動が起きたのだ。
「曲者が侵入しました!」
警護役の声に緊張が走る。慌てて外へ出ると暴漢たちが松明を振りかざして押し寄せてきた。
「徳川の犬め!やめろぉ!」
彼らは新市場の開設に反対する、商人組合の仲間たちだ。抵抗運動を起こすとは聞いていたが、これほどの行動に出るとは。
「捕らえよ!」
家臣たちが刀を抜いて応戦する。激しい乱闘が繰り広げられる中、
「九郎兵衛殿! 危ない!!」
側近の警告も虚しく僕は一人の浪人に腕を掴まれてしまった。
「悪党め……ここで死んでもらうぞ……」
短刀が首元に迫る刹那、
「そこまでだ」
凛とした声とともに一陣の風が吹く。振り向けばそこに立っていたのは……
「秀忠様!?」
驚愕する一同。なんと翌日の将軍となる徳川秀忠が親衛隊を率いて駆けつけたのだ。
「愚か者どもよ、退け。さもなくば全員斬罪にするぞ!」
若き将軍候補の恫喝に、暴徒たちも沈黙せざるを得なくなった。
「無事だったか?」
秀忠が近づいてきて腕をつかむ。以前の敵愾心に満ちた態度は消え失せていた。
「あ、ありがとうございます……」
「礼なら要らん。父上が喜ぶと思ってのことだ」
照れ隠しのように顔を背ける彼を見て、思わず笑みが溢れる。あの家康公も息子に期待しているということなのだろうか。それとも単なる偶然なのだろうか……。
どちらにせよ、僕の未来は確実に変わり始めていた。