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「知ってる?霊には噂好きが多いって話」
「ぶっ飛んだ存在の割には俗っぽいね」
「噂っていっても、ゴシップとかスキャンダルじゃないよ。自分たちの噂」
「都市伝説とか、怪談とか?」
「その通り。怪談以外にも伝承から与太話まで、自分のことを話題にされたら気にせずにはいられない」
「何というか人間臭いね。自分の話をした相手に寄ってくんだ」
「霊に限らず、超常的なものは大体そうだよ。だから興味本位で曰くのある話を聞いちゃいけない」
「そいつらに、気に入られちゃうから」
気に入られるか。よくある「次はあなたが体験する番です」みたいな話だな。心の中でつまらない感想を吐いて、私はネット小説を斜め読みしていた。
もう何年もホラー作品に触れてきているが、この身に怪奇現象が起きたことなど一度もない。故に、こんな釘を刺すような話をされたところで恐怖心など湧くはずもない。嘲笑と余裕、そして退屈があるだけだ。最後に身の毛もよだつような恐怖を感じたのはいつの頃だったか。少なくとも、この物語からそれが得られることはないだろう。そんな予測と共に、右手のスマホを枕元に置く。
気がつけば時計の短針は十二と一の間を指していた。そろそろ床に就く頃合いか。また講義に寝坊して教授にどやされるのは勘弁だ。寝る支度を整えるため自室を後にする。階段を降りる途中、和室の襖が半開きになっているのが見えた。全く、出入りするのならきちんと閉めきってほしい。若干の煩わしさを覚えながら取っ手に指をかけて隙間を潰す。襖があるべきポジションに戻ったことを確認して私は歯を磨きに向かった。
翌朝、家を出る直前にあることに気がついた。昨夜確かに閉め切っていた筈の襖が再び隙間を作り出している。またしても閉め忘れた者がいたのか。面倒だとは感じつつも、昨夜と同じように襖を閉めて家を出た。帰宅後に夕食の場で家族にこの話をしたが、誰も心当たりはないらしい。何なら部屋に近づいた人間すら私を除いて一人もないという状況だった。
あの部屋は客間なのでそれ自体は不思議なことではないが、だったら何故人が出入りしたような形跡が残るのか。しばらく頭を悩ませていたが、誰かが経年劣化で立てつけが悪くなっているのではないかと指摘したことで一応は腑に落ちた。
この家は建てられて二十年以上が経つ。シャワーの水圧は弱いし、扉のフィルムは剥がれかけだし、階段の角は数か所欠けている。そう考えれば襖の一枚に不具合が起きたとしても不自然ではないだろう。酷くなったら直せばいい。二度も見たとはいえ深夜と家を出る直前というタイミングだから、暗さや忙しさで私が誤認していたことだってあり得る。
そんな風に雑多な思考を丸めて、残ったおかずと共に流し込む。頭の中には、今日はどんな刺激的な話を見ようかという期待感しか残っていなかった。
「その肉塊は、いともたやすく友人を吞み込んだ。紙粘土をくっつけるように人体と自らを同化させていく。臓物と見紛うほどに鮮やかな赤が薄橙を染める。声ですらない悲鳴。肉が抉れる音。骨が砕ける音。グロテスクな交響曲が響く空間の中で、僕は身動き一つとれなかった。かろうじて眼球だけは自由な状態で、命だったものがバラバラになる様を見つめている。己の鼓動と呼吸音すら彼方へ追いやられるこの状況で、僕はあることに気がついた。つぎはぎの臓物とでも呼ぶべきそれは、身を捩り、捻じ曲がり、膨張し、這いずる音と共にその輪郭を明確にしていく。このまま放っておけばどのような姿へと変貌するのか。その終着点を、なぜか知っているような気がした。最も恐れるもの。最も忌避すべきもの。早く逃げなければ。この恐怖を遠ざけなければ――」
夜中に目が覚めて、最初に体を支配したのは空腹感だった。こうなるとなかなか寝付けない。健康に悪いのは承知の上でカップ麺を啜ることにした。一階に続く階段を電気もつけず歩いていく。一段、また一段と踏みしめ、床と足裏が触れ合ったその時。
ぽたり
雫の落ちる音がした。何事かと照明を点けてみるが、周囲に原因らしきものは何も無い。気の所為かと再び踏み出すが――
ぽたり
また一滴、叩きつけられた。数秒ごとに水音が続く。耳を澄ますと、それは和室の方から聞こえているようだった。無機質な隙間から、かすかに音が漏れ出ている。こんな夜中に得体の知れない現象を確かめに行くのは気が引けるが、耳にした以上確かめたいという気持ちが芽生えているのも事実。恐怖心と好奇心の間でしばし揺れ動き、意を決して襖を開けた。
室内を照らすと、音の正体はすぐに分かった。床の間の天井に小さな染みができていて、その中心から水が垂れている。雨漏りだ。真相に拍子抜けしつつも、決して放置していい状況ではないことも即座に理解した。水を受け止める何かが必要だと押し入れを探っていると、謎の壺が目に留まった。
この真っ黒な壺は一度も見た記憶がない。こんな飾り気のないものを、誰がいつ何のために買ったのか。なぜ我が家にあるのかは検討もつかないが、和室の雰囲気を壊さず雨水を受け止めるのにこれ以上の適任はいないだろう。
床の間の真ん中にそっと据えると、壺は課せられた役割を確かにこなし始めた。後日業者を呼ばなくてはいけないな。平静を取り戻した頭の中でぼやきながら和室を後にした。後ろ手で襖を閉めても、ぽたり、ぽたりという音は聞こえる。すっかり食欲も眠気も消え失せ、ベッドの上でホラーアニメを見て朝を迎えた。
「古来より水は神聖なものとされてきたのです。命の源である透明な液体を、誰もが敬い欲しがりました。喉を潤し、体を清め、自然に実りを与えてきました。一方で、水は人の手に負えない災厄と化すこともあります。川は溢れ、波は立ち、雨は大地を削りとります。それだけではありません。時に、水は人智を超えた存在をも呼び寄せてしまいます。故に遊び半分で水場に近づいてはならないのです。かつてそこで命を落とした者が、あるいは呼び寄せられた者が、想像を絶する姿となって貴方を迎えに来ることでしょう」
雨漏りを発見してから一週間程経ったが、未だに業者が来る気配はない。どうやら立て込んでいるようで、工事に来るのは当分先になると知らされた。これは当分の間壺の世話になると溜息をつき、コーヒーを啜る。今日は何の予定も入れていない。家族も出払っている。ゆっくり羽を伸ばそう。
久方ぶりにテレビのリモコンを握る。大画面でホラー映画を見られる貴重なチャンスだ。さて、何から味わおうか。近年リメイクされたあれか。映画館に行ってまで見たあの作品か。選ぶ時間はたっぷりある。心ゆくまで堪能するとしよう。
「得体の知れない存在ほど恐ろしいもんは無いぞ。この人形もその一つだ。いつからここにあるのか、誰にどうやって作られたのか。誰も何も知らねえ。誰に聞いたって『昔からそこにある』の一点張りさ。訝しむのも無理はねえ。だが、調べようがないのもまた事実だ。だから『そういうもの』ってことにして、自分を納得させるしかねえ。これを怠惰だとか、あるいは消極的とか言う奴もいる。けどな、これが何より安全なんだ。誰もが避けてきたものに近づくなら、相応の代償が求められる。超常に迫るってのは、決して安いもんじゃねえ」
気がつけば睡魔に魅入られていた。眠気混じりで外を見やる。日は完全に暮れていた。雨は未だ止んでおらず、むしろその激しさを増している。眼前には流したままの映画。手元にはクッション。テーブルの上には冷めきったコーヒーがぽつんと置かれている。とりあえずカーテンを閉めようと立ち上がったその時、
ぴちょん
微かに水音が響いた。和室の方からだ。寝起きの頭でもそう理解できるほどにはっきりと聞こえた。この雨で相当水が染み込んだのか。様子を見に行くため、真っ暗な廊下を歩いて問題の部屋へ向かう。心做しか不気味で居心地が悪い。水滴の落下音だけが奏でられる空間を足早に進むと、半開きの襖を開けて中を照らした。
和室には何の変哲もなかった。天井も畳も襖も障子も、全てがいつも通り。心配なのは壺の水量だけ。床の間に置かれた黒い陶器の、丸い口を覗き込む。水量は決して多くはなく、今までの感情が杞憂であると言わざるを得ないほどに穏やかな状態だった。これなら今夜は何とか持つだろう。振り返ろうとしたその矢先、僅かに開いた襖がぴしゃりと閉められた。
ぴちょん
また一滴、落ちていく。驚いたのも束の間、床の間に気配を感じた。黒いモヤを纏った何か。少なくとも善いものではない。本能が危険を訴えてくる。出口へと向かおうとするが、足が竦んで動かない。少しずつ勢いを早める水滴。何かのカウントダウンのように、無慈悲に刻まれていく。
ぴちょん
ぴちょん
ぴちょん
着水する度に、部屋にはおどろおどろしいモノが増えていく。人形。溺死体。臓物。どれもこれも物語の中に出てきたもの。そう理解した時、悲鳴にもならない声が出た。なんでここにいる。ここは現実だ。想像の中でも、創造された世界でもない。ここに現れることなど有り得ない。自身の常識と噛み合わない現状に、脂汗と涙が止まらなかった。
ああ、そうか。私は運良く見逃されていただけだったのか。なんでもっと早く気づかなかったんだ。関わりを絶つチャンスは幾らでもあったのに。それさえ分かっていれば。綱渡りをしているという自覚さえ持てていれば。逃げることもままならない状況で、悪あがきのように己の浅慮を嘆く。私の好奇心と無謀さを形にしたものが、少しずつにじり寄ってくる。人形が、溺死体が、臓物で出来た怪物が、私に手を伸ばす。直感的に察する終焉。助けを求める声は豪雨にかき消された。
「そもそも、霊とかって実在するの?」
「実在の定義にもよるけど、現実世界に干渉できるって意味ならなんとも言えない」
「ふわっとした言い方するなあ」
「直接見たわけじゃないから断言は出来ないよ。強いて言うなら気持ち次第だと思う」
「信じる者だけが、って感じ?」
「大体そんなとこ。怪異は人が生み出すもの。空想の産物が何かのきっかけで力を得たのかもしれないし、あるいは」
「恐怖心に呑まれた、それだけのことなのかもね」