俺が廊下の電話で話しているとき、雨は理科室のゲージに居たマウスを観察していた。
「……」
俺は電話しながら、様子を確認する。
「……俺が今作っているウイルスと、あなた達の作っているウイルスは、違うから、協力なんてできないですよ。それじゃ」
俺は電話口から聞こえた、「ちょっと」という言葉を無視して、強く受話器をもとに戻した。
「雨。どうしたんだ?」
「別に。ねえ、さっきの電話誰からなの?」
雨は、マウスの頭をなでながら、不思議そうな顔で俺を見つめてきた。
俺は眼鏡を取ると、白衣の胸ポケットに差し込んだ。
「あーなんか、よくわかんねえ団体様から。なんだっけな……確かラトレイアーっていう組織らしい。この研究、お前以外に誰にも言ってないのにどこから聞きつけたんだろうな」
「ふ―ん」
「……海はさ、なんでこの研究しようって決めたの?」
「藪から棒になんだよ」
彼女は抱いていたマウスをゲージに戻した。
「だって、協力してるのに、全然教えてくれないじゃん」
俺が困ったような顔で雨の顔を見ると、雨はポケットから赤色のヘアゴムを取り出すと、髪を括り始めた。
彼女の前髪はセンター分けで、高い位置でくくられたポニーテールは、あまり似合っていない。
さらに、白い白衣が彼女の存在を、奇怪なものにした。
俺はそんな彼女の見た目を、恐ろしいように見開いて見つめた。
「で?なんでこんな研究しようって?」
「俺、死ぬのが怖いんだよ。どうにかして、死なないようにできないかなって、思ってさ。人間はその内滅びる。そしてまた、新たな生命体が生み出される。それの繰り返しだ。そのループから抜け出せないのが、俺は怖い」
「……」
彼女はさも興味なさそうなジト目を変えなかった。
「何かいい方法はないかと思ったんだよ。不老不死にはならなくてもいい。けど、せめて、寿命がもっと延びればいいと思って」
「あーなるほどねえ」
雨は腕を組んで考え込んだ。
「それって薬じゃダメなの?」
「……いや、ウイルスだ。皆が長生き出来て、体が不自由にならない、そんな人間をつくりたいから」
「みんなが望んでること?」
「え?」
俺は、てっきり彼女が賛成してくれると思っていた。
けれども、予想外の言葉に俺は言葉を失った。
雨はゲージに入れられているマウスを見て、言った。
「少なくとも、生きることを望まない人も少なからずいるだろう。死ぬことは皆怖い。けど、死ぬ直前の人間は、全てを受け入れている。死ぬ寸前の人間は自分が死ぬと分かっている。死にたくないと嘆いて死ぬ奴はいない」
「けど、やっぱり本能的に生きたいと思う人ばかりだろ?」
俺は、ゲージの中にいるマウスを感情も無く見つめる雨をどうにか説得させようとした。
「じゃあ、海はこの世界をどう思う?」
「え」
「”人間”という、愚かな存在。死にたくないというエゴを他の動物、植物に押し付ける種族。海が、このネズミたちに実験するように。人間は結局、自分の事しか考えない。もし、不老不死にでもなれば、人間が滅びる未来ははるか遠くの未来に先延ばしにされるだろう。子孫は増えるだろうし、人口は倍になるとは限らないけど、まあ少しは増えるだろうね。生きることを望まない人っているのは、現実に絶望しているから生きるのを望まないんだ」
「……」
「それがどういう意味なのか、人によるんだろうけど、不老不死なんてものは、人間の欲望に過ぎない。寿命が延びるのも。そんな人間があふれかえるのを望まないのなら、この研究はやめることだね」
雨は白衣の襟を掴むと、皺を伸ばした。
「……それでも、俺は、大事な人が死んでほしくない。もちろんお前も」
俺は雨にどうしても、研究の協力をしてほしくて、引き留めようとした。
「あ、やっぱり?まああんまりおすすめはしないけど、これも人生ってものか。じゃあ、ここは科学の先輩として、君に一つ宿題を出そうか」
「えええええ……」
「……人間はどうして死を怖がるか。この答えが出せたとき、君はこの研究を続けるか、決めることになるだろう」
雨は俺に背を向けると、理科室の黒板に近づいた。雨は、チョークを手に取ると大きく、『人間は何故死を怖がるのか』と書いた。
「じゃあ、今日帰るときに聞くから、それまでに考えておいてね、じゃ」
雨はそう言って、理科室を出て行った。
俺には生きる理由が分からない。
死ぬ理由を理解できない。
生まれた理由が欲しいだけだ。
人間はどうして死ぬのが怖いんだろう。
体験したことがないから。
社会的地位を失ってしまうから。
……雨は命の恩人だ。
俺が公園で流とサッカーをしているとき、足元が狂って、ボールが道路に出たとき、ボールを取りに行って車にひかれそうになったのを助けてもらったから。
俺はそれまで、死について身近に考えたことはなかった。
……その時から、死ぬのが怖いと、認識し始めたんだ。
俺にとって恐怖という感情は、無駄なもので、生きるために億劫になってしまう、そんなこの感情が嫌いだ。
俺は、その恐怖を、誰にも味わってほしくなくて、俺はこの研究を始めたんだ。
なんで、どうしてだろうか。
まだ、ちゃんと、礼を言えていない、雨には。
俺にはやり残したことがある。
……あ。なんか、分かったような気がした。
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