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銀の月の柔らかな光が戦く者たちを慰撫するように冴え渡る夜。闇に溶け込む漆黒の衣を纏った若者、氏族一の戦士、勇ましき息子は国主の館を訪れていた。館は幾人かの歩哨が巡回する城壁に囲まれており、城壁は海を朋輩とする古い丘の頂にあった。
戦士であり、また海の男でもあるディーロアは日に黒く焼けた肌に、九つの戦で負った傷と鍛え抜いた肉体を誇りにしており、恵まれた体格は分厚い外套を纏っていても隠し切れない。先陣を切る者に与えられる名誉ある剣を佩いてはいるが、外套で包んだ服装は平時に着る麻の衣だ。
城門の門衛は訪問者を松明で照らし、ディーロアだと認めると何も言わずに門を開いた。しかし城壁から小道をたどって行き着く国主の館の、恐ろしい波と勇ましい船を表した意匠の扉は、戦場を左右する戦士ディーロアを前にして凪いでいる。扉を叩くか、声をかけるか迷っていると、しばらくして少し扉が開き、隙間から囁きかけられる。
「どうぞ。国主様のご寝室へ」
ディーロアは招かれるままに扉をくぐり、古い丘の若い時分からの習わしに従い、剣を召使いに預ける。明かりのない謁見の間には誰もおらず、空の玉座が所在なさげに鎮座している。ディーロアは謁見の間へと踏み込むと奥の扉から廊下を渡り、幾つかの扉の中から真っすぐに国主の寝室の前へとやってくる。今度はいくら待っても開かれない。
「国主様」とディーロアは墓前で唱える祈りのように囁きかける。「貴方と氏族の剣、ディーロアが参りました」
途端に中で慌ただしく足を踏み鳴らすような音がいくつか聞こえる。ディーロアは不審げに耳を傾け、扉に顔を近づける。
「どうかなさいましたか? 国主様。ディーロアです。入りますよ」
「ああ、ディーロアか。入れ。早う入れ」
国主の震えるような声に促され、ディーロアは扉を開く。
窓はぴたりと閉ざされ、月精が忍び入ることも出来ないが、油燈があちこちに据えられているおかげで昼間のように明るい。海豹の滑らかな毛皮や五色の珊瑚、艶めく真珠の他、バイナ海の向こうからやってきた舶来の品々に囲まれた豪勢な寝室の寝台に丸まるように国主が座っていた。細い指で覆った顔が青ざめ、頬はこけて、ディーロアが以前に見た時より髪にも髭にも白いものが混じっている。忙しなく動く瞳は家具や床下に潜むという魔性を追うように行き来している。
「一体どうなさったのですか?」ディーロアは片膝をつきつつ家督を継いだ息子のように国主を案じてみせる。「ご体調が優れないとは伺っておりますが。どうやらそれだけではないようですね」
「体調はすこぶる悪い。まるで何者かが私の血潮を吸い取っているようだ。代わりに寒気と眠気と怖気が全身を巡っておる」
「もしや山の蛮族どもの呪いでしょうか。奴ら大河の彼岸より邪な魔法を招き入れているという噂。それならばすぐにでも私が打って出て――」
「よい!」戦場ならば誰にも届かないであろう国主の弱々しい怒鳴り声が火の明かりを僅かに揺らす。「もはや奴らには敵わぬ。どれほどの氏族が山に寝返ったか知らぬわけではあるまい。彼奴らの平たい軍船の舳先はすぐそこまで迫っておる」
ディーロアは疑うような眼差しを長らく館に引き籠っていた国主に向ける。ディーロアが幾つかの紛争で勝ち星を挙げ、海を祖とする氏族に勝利と栄光をもたらしたのは臆病風に吹かれる国主のためではない。己が名誉と地位の為だ。如何に敵が強大と言えど、投げ捨てるつもりはさらさらない。
「降伏するというのですか? 私はてっきり彼奴らを打ち砕く反撃の策を練っているものと」
「馬鹿を言うな。降伏などするものか。だがまともにやり合えば勝ち目などない。海を背にした我々には逃げ場もない」
ディーロアは答えを探すように周囲を見回す。「では如何様になさるのですか?」
「同盟だ。我が氏族一の強者ディーロアよ。川向うの者どもと手を組むのだ」
既に決意を固めている。国主の声の揺るぎなさがそれを示していた。
「大河の外の族など、罪の族にせよ災いの族にせよ、山の連中と変わらぬ輩でしょう」
「そうだ。そして川舟の技も彼奴らに引けを取らぬ」
既に深く考えた上での結論であり、今更他者が何を言ったところで意見は変わらないのだとディーロアは理解した。そして今まで多くの戦において国主の指示のもとに功を奏してきたディーロアに反発する意思もなかった。
「して、私に何をさせようというのですか?」
「これだ」国主は懐から一封の封筒を取り出し、ディーロアに渡す。封筒には国主の一族の封印が為されている。月と波と船の印影だ。「これを川向うの族の長に渡すのだ。素早く、だが徹底的に秘匿せねばならない。たとえ川向うの連中の協力を得られたとしても、山の者どもに時間を許し、兵力を増強されれば勝ち目は薄い」
ディーロアは封筒を懐に仕舞い込んで立ち上がって一歩下がると自信たっぷりに胸を叩く。
「お任せあれ。これまでと同様、いずれ川中の全てを制する国主様の一の剣がきっとご満足いただける成果を渚の歌う愛すべき郷土に持って帰りましょう」
ディーロアの声が聞こえているのか国主は閉ざされた窓の方を見つめ、寝台から少し腰を浮かしてじりじりと退いていた。窓はしっかりと閉ざされていて、窓台に据えられた油燈の灯も真っすぐに立っている。
「今宵、月は出ていたか?」と国主は静かに問いかける。
不意な問いかけに少しばかり混乱したが、すぐに気を取り直してディーロアは答える。
「ええ、今宵は月影に舞う娘の曲刀、冴え渡る夜空でした。それが何か?」
「月の輝く夜にはあの窓蓋の隙間から月光が差していたはずだ」
ディーロアは素早く窓に駆け寄り、力任せに押し開く。窓蓋は勢いよく開き、激しく壁に叩きつけられるが、そこには誰も、窓の隙間から覗き込む者などいなかった。壁に沿うように断崖が聳え、黒い海が広がっている。念のために上下左右よく確認し、再び窓を閉める。
「ご安心ください。誰もおりませんよ」
ディーロアが振り返ると国主は毛布をかぶって丸まって震えていた。異常な怯え方だ。
「誰かがずっと見ているのだ」と国主は譫言のように呟く。「いつからかは分からぬ。だがいつの間にか、ずっとそばに。きっと山の輩が放った間者に違いない。我らの動向を窺っているのだ。気を付けよ、ディーロア。今宵のやり取りも把握されてしまった」
「ご安心ください。間者に何が出来ましょう。必ずや任を果たして御覧に入れます。ところで聞き忘れていました。川向うのどの族と同盟を結ぶのでしょうか?」
「いずれは全てと。まずは罪の族だ」
部屋を出る間際、ディーロアはもう一度窓辺に目を遣った。確かに窓の隙間から細い月明りが差していた。
ディーロアは二人の部下、右腕の杉と女戦士星の歌を引き連れ、南の大河を目指し馬を駆っていた。二人には重要な密書を運ぶ任務であることだけを伝え、詳細は伏せている。間者についても伝えてはいないが、留守を預かる衛兵には念のために警戒を強めるように伝えておいた。
「ディーロア様」とレデラーが呼びかけ、馬の鼻を寄せる。「妙です」
飛ぶように走る馬上で体勢を崩すことなくレデラーは背後をちらと振り返る。ディーロアも視線を向けるが何を指して妙なのかは分からない。風の穏やかな朝の海のようになだらかな野原と貿易船の檣よりも疎らな木立があるばかりだ。
「何だ? 妙とは。誰かいたのか?」
「まるで馬で追われているような圧迫感を覚えるのです」
もう一度振り返るが馬どころか生き物は見当たらない。馬を見落とすはずもなく、この広々とした野原では隠れる暇もない。当然二本足で追って来られるはずもない。
だが国主の怯えていた間者が気のせいでなく本当に存在するのであれば、その輩は不思議な技を使う。偶然や錯覚と切り捨てるのは不用心だろう。そして、まじない師が邪で怪しげな術を使って追ってきているのだとして、狙いは当然密書ということになる。
アブルの方にも目を向けると、やはり何かを感じ取っているらしい意味深な表情を返し、ちらと背後を見やる。
「何者かが追ってきているとすれば、やはり密書が狙いでしょうか?」とレデラーは馬蹄の地面を踏み鳴らす音に負けない、よく通る声で尋ねる。
「そうだろうな。国主から密書を預かっている所を見られたのかもしれない」
あの窓蓋の隙間から。
「行き先を聞かれた可能性はありますか?」
「いや」と呟きつつ昨夜のことを思い返す。それを聞いたのは窓を開き、何者もいないことを確認した後だ。「大丈夫なはずだ。我々以外の誰も知らない」
「では三手に別れるのはいかがでしょうか? 一人は罪の族、一人は災いの族、一人は怪しの族のもとに向かうのです」
何手に別れようが追っ手は自分を追ってくるだろう、とディーロアは考える。その裏をかくならば密書を部下のどちらかに渡すことになる。それは最も大きな名誉を譲り渡すことになる。その膂力や勇気ばかりではなく、狡猾さで以って今の栄誉を手に入れたディーロアには受け入れ難かった。
迷うディーロアを尻目に二人の馬をアブルの馬が追い抜いた。しかしその鞍に主が乗っていない。
「アブル!?」
振り返ると落馬したアブルが何とか立ち上がろうとしている。手綱を引いて馬を止めようとディーロアが考えたその時、アブルの首から鮮血が放たれ、緑の野に斃れた。そばには誰も、アブルの首を掻き切った者などいない。少なくともディーロアの目には映らなかった。
ディーロアはこれ見よがしに背嚢から行糧の包みを取り出すとレデラーに投げて渡す。
「お前は災いの族へ!」
ディーロアの指示に頷くとレデラーは南西へと馬の鼻を向けた。
大河モーニアの雄大な姿が地平線の向こうから現れた頃、太陽は西の地平線へと姿を隠しつつあった。大河は僅かな間、残照に赤く煌めくと、日暮れと共に麗しくも厳かな気配を取り戻し、夜闇と月と星の夜着を纏って眠りに就いた。
モーニア河の汽水域の畔にも海の氏族の集落はある。戦力としては小さな集落だが、大河を渡る程度の川船の技にも通じている。河を渡れば罪の族の土地だ。追っ手を撒けたかは分からないが、いずれにせよここで足止めになる。
船を出したければ朝を待たなくてはならない。ディーロアは念のために交渉を試みたもののどの船乗りも決して首を縦に振らなかった。大河の眠りを妨げてはならない。河の畔に生きる者ならば決して破ることのない不文律だ。
仕方がないので川辺で一晩を過ごすことに決め、具合の良い場所を探していると、見覚えのある馬が木に繋ぎ止められているのを見つけた。
レデラーだ。馬から荷を下ろし、草を食ませようとしているらしい。
「レデラー! なぜこっちに来た!?」
ディーロアを見つけるとレデラーは誇らしげな自慢げな笑みを浮かべる。
「ディーロア様! 私、追っ手を返り討ちにしてやりました」と言って胸を張る。
そうして荷物と一緒に地面に置いてあった赤黒く濡れた包みを軽く蹴る。間者の首だ。
「そうか。よくやった」ディーロアは悔しさを見せないように部下を褒める。「だがよくよく考えれば追っ手が1人とは限らない。気を緩めるなよ」
「ええ、もちろん。ディーロア様は追っ手を討ち取っていないのですね」
癇に障ったが、ディーロアはおくびにも出さない。
「そもそも仕掛けて来なかったからな。お前と違って密書を奪われる隙を見せる訳にはいかないからこっちから打って出るわけにもいかない」
「なるほど。そうですね」レデラーは溌溂と答える。
「それに私なら殺す前に情報を聞き出しただろう。死人から得られる情報は少ないからな。間違いなく山の輩の手の者だろうが、川向うの者を雇ったか、あるいは裏切者の可能性もあるか」
ディーロアは地面を転がる血に濡れた包みを開く。悔し気に歪むレデラーの虚ろな瞳が見上げていた。
気が付くと木にもたれていた。まだ夜は明けていない。集落の明かりはかすかに見えるが、あちらからこちらに気づくことはないだろう。アブルとレデラーを殺した間者、追っ手の姿はどこにもない。荷はあるが馬はいない。そして何故か縛られているわけでもなく、懐の中の密書を奪われているわけでもなかった。
一体何が起きているのか、ディーロアには想像もつかなかった。集落に戻るために立ち上がろうとしたが体が動かなかった。まるで筋肉の代わりに砂を詰められたかのような無力感だった。より強い力に抑えつけられているのではなく、力が出ない。
「お目覚めですか。早速ですがお主に二、三、聞きたいことがあります」とディーロアは口を開いた。勝手に動いた口と舌を抑えることも出来ない。「単刀直入に言います。密書の内容を教えてください」
「何が目的だ? 封を開けば良いだろう」
「お主の目的次第です。場合によってはあえて泳がせるという選択肢が拙者どもにはあるのです。そしてその場合、お主は恙なく任務を果たせましょう。悪い話ではないでしょう?」
ディーロアが問い、ディーロアが答える。
「そうではなかったら?」
「全ての場合を語り聞かせる暇はありません。とはいえお主が死ぬ選択肢もまずありませんよ。どちらにせよ大勢に影響はありませんので」
「なら何故アブルとレデラーを殺した?」
「お主を揺さぶるためです」そう言うとディーロアは左手の人差し指を自ら折り、野太い悲鳴をあげる。「難しい選択ではないでしょう。黙っていれば不名誉な生ですが、喋れば名誉ある生を得る可能性もあります」
「いいや、お前の選択肢は私を殺すことだけだ」
「容赦はしませんよ」
三日の後、ディーロアは罪の族の土地に現れ、密書を長に届けて去った。しかし返信を受け取ることなく姿を消した。