明くる朝、太陽はすでに平らかなサンヴィアの地平線から顔を覗かせていたが、アルハトラム市の城壁からはまだ顔を出さず、雲を黄金に染め上げるのに夢中になっていた頃、ベルニージュとユカリは街の東側の城壁の陰に、他の多くの魔法使いと集合していた。半分はこの街の出身者で、残りの半分は流れの魔法使いたちだ。さらにその半分はこの街の城壁の魔法の秘密を盗みにやって来た者たちだった。
「近くで見るとさらに大きいね」と大きなユカリが背を反らして城壁のてっぺんを見上げながら言った。
「そうだね。アルハトラムが戦史に語られることなんて滅多にないのに」とベルニージュは壁に施された魔術を見つめて言う。
この街にはいわゆる大工や左官を専門とするものはおらず、伝統的に魔法使いがその仕事を請け負っている。煉瓦を干し、目地材を練り、この街と共に研鑽してきた呪文を唱える。他所からきた作業者に関してはこの限りではないが。
煉瓦の城壁の裏には直接呪文が刻み込まれていた。主に街の守りや幸福祈願の魔術が施されている。これを修復するのが現在この街で大々的に行われている工事だ。
この工事のために臨時で雇われた魔法使いに与えられる仕事は様々な班に分かれている。
一つは劣化、摩耗している煉瓦を探す調査班。足場を使って壁を巡り、その場で修復できるものに対応し、できないものは記録して彫刻班に伝える。
一つは新たな煉瓦に新たな呪文を刻み込む彫刻班。調査班からの報告と用意された新たな煉瓦の山に向き合い続ける。
一つは新旧の煉瓦を入れ替える修繕班。用済みの煉瓦を削り、新たな煉瓦をはめ込む。
煉瓦は職人によって毎日毎日新たに用意され続けており、壁のそばに一定間隔で設置されている作業所には煉瓦が山積みになっていた。
ベルニージュは調査班に割り当てられ、ユカリは見学することになった。
「ベル、これ見て。禁忌文字だ」
ユカリは煉瓦の一つを指さし、禁忌文字の一つを示していた。
「読める?」
「え?」ユカリは驚いた様子で振り返る。「禁忌文字には読み方がないって話じゃなかった?」
「違う。いくつもの読み方、意味があるんだよ。本当のところは読み方や意味なんてないんだけど、それはまだ先の話。まずは仮にでも読み方と意味を覚えた方が理解の助けになるからね。教本見てもいよ」
「あるんだか、ないんだか」ユカリはぼやきながら、合切袋から古ぼけた教本を取り出して、いま見つけた文字と見比べる。「えっと、使者、番人、鉄槌、剣を掲げる女、誘惑、加護、聖なる守護者、避けられぬ戦争。そして【堅固】。この最後のやつが一番知れ渡っているんだよね?」
ベルニージュは頷いて言う。「そうだね。基本的にはそれが読みと意味だと理解しておけばいいよ」
ユカリは不満そうに眉根を寄せる。
「他の読み方はいったい何なの?」
「文字の形とか力の形とかから連想して、大陸各地で名付けられた読み方だよ。そもそも古くから呪文として使われるだけで、言語としては使われていないからね。正解がないってわけ」
「言語として使われていない文字……なるほど。それで【堅固】はこの文字の力を言葉で説明するのに最も適していると。城壁に使うくらいだからそうなんだろうね」
「最も端的にその文字の力を表している読み方だっていうのもあるけど、【堅固】ってここ、サンヴィア地方の言葉なんだよね。っていうのは、古い禁忌文字が最も出土している土地だから、禁忌文字を扱った魔術が最も進歩している土地なんだよ だからその魔法使いの母語以外で言う時は【堅固】の読み方が通りがいいってわけ」
そしておそらくは魔導書の衣がここで見つかったことと関係があるのだろう、とベルニージュは考えていた。だとすれば禁忌文字の由来は魔導書だということになる。魔導書と出会う前にこの考えを聞かされていたとしたら、真面目に捉えただろうか。やはり現物の説得力には及ぶべくもない。
工事現場を監督する魔法使いから簡単な説明を受け、ベルニージュはユカリを連れて、城壁に寄り添うように設置された仮設の足場を上る。
その場で呪文の修復可能な煉瓦には鑿と槌を振るい、不可能なら塗料で印をつけて次へ進む。
ユカリへの授業は大して進まない。城壁に使われているのはほぼ【堅固】だからだ。
そしてベルニージュは時に他の魔法使いにも助言をしながら作業を進めていく。鑿の打ち込み方や呪文の書体、心構え等々。ついにはこの街出身の魔法使いにも助言を求められる活躍を見せる。
壁の中ほどの高さの足場で二人は作業を進めている。
「しかし相当古臭い呪文だよ」とベルニージュは呟いた。
「そうなの?」ユカリは指示された場所に塗料を塗りつける係を買って出ていた。「古いってどれくらい?」
「五百年かそこらかな。城壁のための魔術なんて常に研究され続けているからね。ハウシグ市の城壁の呪い、覚えてる? ワタシが酷い目にあったやつ。あれも古い魔術だけど、ここのに比べると研鑽されて洗練されてた」
もはや手に傷の跡もないが、痛みはよく覚えている。
「あれは、本当に酷い目だったね」
ユカリの声が暗くなったので、話を変える。
「それに、そもそも城壁の長大さに比べて呪文の密度が薄い気がするんだよね。サンヴィアの中でもアルハトラムが戦火に曝されることなんてそうそうないから更新されなかったのかな」
「何を言うか」と口を挟んだのは白い山羊髭を蓄えた老齢の魔法使いだった。熊の毛皮の長衣は細身の老体を押し潰しそうなほどに重そうだ。「この城壁の呪文の堅固さは最新の魔術にも劣らんぞ。確かに古い魔術だが、古代において既に現代と変わらぬ守りを得ていたと言われているのだ」
ベルニージュは冷めた目線で老齢の魔法使いを見つめ返す。
「お言葉ですけど、この呪文そのものにそれほどの力があるとは思えませんね。それに多少は独特な魔術を利用しているみたいですが、同様の力を持つ魔術は他の土地にもありふれたもので――」
「独特なら良いというわけではない。見よ、この精密な字列を。一見煉瓦ごとに一つの呪文を成しているようだが別の煉瓦の呪文と照応し、全体として――」
「そもそもこんな風に風化するところに呪文を刻み込むこと自体が古いですけどね。今なら壁の内側に、あるいは最近だと煉瓦そのものの内側に呪文を刻み込む方法も考えられてて――」
「馬鹿を言え。修繕が大変だろうが。それに日干し煉瓦ながらこの完璧な造形、ゆえに隙間がなく、ゆえに目地もない。漆喰も膠泥も土瀝青も使わず、防護の魔術が接着材になっており、魔の流れは滞りがない。事実としてこの城壁は五百年の間、一度として崩れたことはなく――」
「だとしたら、それこそ呪文そのものではなく、何か別の――」
「ベル!」と大きな声で呼ばれ、振り返る。ユカリはいつの間にか離れた場所にいて、壁の一点を見つめている。そしてベルニージュの方を振り返り、壁を指さす。既に点検を終えた場所だ。「ここにひびが! 今できた!」
次の瞬間、煉瓦の壁は大きく軋み、雷を伴った嵐のような轟きと共に崩壊していく。
ユカリは飛び上がって驚き、足を踏み外して落下し、風に身を包まれて着地した。
土砂崩れのような轟音と共に砂埃が辺りに舞い上がる。幸い、壁は外側へと崩れ、足場に被害はなかった。
崩壊が収まるとベルニージュやユカリ、作業員たちは瓦礫の方へと急ぎ、巻き込まれた者はいないか呼びかける。監督もすぐに飛んできて、工事の休止と作業者の集合を唱えたが、崩壊の現場に監督が向かった方が話は早かった。
好奇心旺盛な魔法使いたちは崩壊した城壁を調べながらも、点呼を滞りなく終える。崩壊に巻き込まれた者はいないようだった。
被害は壁だけだったことに安堵し、ベルニージュはユカリに声をかける。「エイカ、いったい何があったの?」
「特に何も。二人が白熱してたから飽きちゃって、禁忌文字を見てたら、何かが割れる音が聞こえて。後はベルも知っての通り。このありさまだよ」
ベルニージュは首をひねる。確かにこの壁の呪文は古いものだが、すぐさま崩れるような欠陥はなかったはずだ。そもそもユカリのそばの煉瓦はすでに点検を終えたところだ。重大な欠陥があったとしても自分が見過ごしはしない、という自負がベルニージュにはある。どこかの欠陥が波及したのならともかく、崩れた場所は一部にとどまっている。
その時、魔法使い以外の人々が集まっていることにベルニージュは気づいた。その中には武装した警吏らしき者もいる。野次馬がこちらを指さし、警吏に耳打ちしている。嫌な予感しかしない。
「そこの大きな娘。いや、お前だ。暗髪の」と警吏が威圧的な声色で近づいてくる。
ユカリが小さな声で悲鳴をあげる。「もしかして疑われてる? 私何もしてないからね」
「分かってるよ」ユカリより小さなベルニージュがユカリの前に立ちはだかって物々しい警吏を見上げる。「あの連中に何を言われたのか知らないけど、この子は最初に崩壊を発見しただけだよ」
警吏は無機質な表情で淡々と答える。「君たちの証言も参考にしつつ、我々が調べることだ。来てもらおうか」
野次馬が声を上げる。「あの娘が壁を破壊したんだ!」「俺も見たぞ!」「あの高さから落ちたのにけろっとしてやがる!」
「何言ってんだ! 素人が口出ししてんじゃねえ!」と魔法使いの一人が逆捩じを食らわせる。
野次馬は応酬する。「こっちは何十年とこの街に住んでるんだ! 余所者がいきがるな!」
「エイカちゃんは魔法使いじゃないぞ! 禁忌文字も知らないひよっこなんだ!」
「それこそ素人じゃねえか!」
「穀潰し!」
「給料泥棒!」
いつの間にか培われていた謎の人気がユカリを擁護するが、力に訴えるほどの者はいない。
「エイカ!」とベルニージュはユカリを呼び、力に訴えて逃げる選択肢を許容することを示す。
しかしユカリは首を横に振り、目配せをした。その視線の先には遠巻きに見ている野次馬の群れがいて、救済機構の僧侶が混じって静かにこちらを見ていた。
そしていつの間にかユカリが合切袋を肩にかけていないことにベルニージュは気づく。ベルニージュが慌てて振り返ると、合切袋が足元に置かれていた。機転の利く子だ、と思いつつ、ため息をついて合切袋を拾い上げる。
ユカリが連行されていくのを魔法使いたちは抗議しながら追いかける。むしろ注目を集めてしまい、ユカリは恥ずかしそうにしているが、それに気づいた魔法使いはベルニージュ以外にいなかった。
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