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バージニア州ラングレー。
CIA本部の一室で、エレノア・バーンズ長官は一枚の写真を凝視していた。
デスクの上に広げられた極秘ファイルには、『プロジェクト・ガーディアン』というコードネームが記されている。
これは日本から譲渡された「神の薬」——医療用キットの残る3本を、最も効果的な政治的資源として活用するための選定計画だった。
「……彼しかいないわね」
エレノアは呟き、そのファイルを鞄に収めた。
彼女が向かう先は、ホワイトハウスではない。
ニューヨーク州の北、ハドソン川を見下ろす広大な森の中に、要塞のように聳え立つ、ある個人邸宅である。
◇
『マクドウェル・エステート』。
その名は表のニュースには滅多に出てこない。
だが、ワシントンの政界やウォール街で、この名を知らぬ者はいない。
主であるアーサー・マクドウェルは、アメリカ最大の軍需産業コングロマリット『タイタン・グループ』の総帥であり、上院議員の半数に政治献金を行い、ペンタゴンの予算編成にすら口を出せると言われる影のフィクサーだ。
いわゆる「軍産複合体」、あるいは陰謀論者が好んで呼ぶ「ディープステート」の象徴的存在である。
そのマクドウェル邸の最上階。
集中治療室並みの設備が整えられた広い寝室は、死の匂いに満ちていた。
「……ノア。
今日は天気がいいぞ。
窓を開けようか?」
アーサー・マクドウェルは、ベッドの脇で枯れ木のような老体を震わせていた。
80歳を超え、世界を動かしてきた彼だが、今の彼はただの無力な老人に過ぎなかった。
ベッドに横たわっているのは、彼の唯一の孫であり、マクドウェル家の正当な後継者、ノア・マクドウェル。
17歳。
だが、その体は見る影もなく痩せ衰え、無数のチューブに繋がれている。
筋萎縮性側索硬化症(ALS)の劇症型。
発症からわずか一年で全身の筋肉が動かなくなり、今は人工呼吸器がなければ息をすることさえできない。
残されているのは、明晰な意識と、動かせるわずかな眼球だけだ。
(お爺様……)
ノアの視線が、アイトラッキングシステムを通じて合成音声を紡ぐ。
『ごめんなさい。
もう楽にしてください』
その無機質な電子音が、アーサーの心臓を抉った。
「馬鹿なことを言うな!
諦めるな、ノア!
世界中の研究機関に資金を提供している。
新薬の開発は進んでいるんだ。
あと少し、あと少し待てば……!」
アーサーは叫んだが、その声は虚しく響くだけだった。
彼は知っている。
金で買える医療は、すべて試した。
遺伝子治療、幹細胞移植、未承認の治験薬。
だが、どれも効果はなかった。
現代の医学では、この病の進行を止めることはおろか、遅らせることさえできないのだ。
彼が築き上げた巨万の富も、国家を動かす権力も、愛する孫の命一つ救えない。
その絶望が、彼を内側から食い荒らしていた。
その時、執事が静かに入室してきた。
「旦那様。
お客様です」
「帰せ!
誰とも会わんと言ったはずだ!」
「ですが……合衆国大統領閣下です」
アーサーの手が止まった。
ウォーレンが?
直接?
電話一本で済む用件ではないのか?
「……通せ」
数分後。
ロバート・ウォーレン大統領が、エレノア長官を伴って寝室に入ってきた。
SPは廊下で待機させている。
完全な非公式訪問だ。
「やあ、アーサー。
久しぶりだな」
ウォーレンは静かに歩み寄り、ベッドの上の少年を見つめた。
そして痛ましげに目を細めた。
「……これがノア君か。
噂には聞いていたが」
「同情しに来たのか、ボブ」
アーサーは冷たく言い放った。
彼は大統領をファーストネームで呼ぶ数少ない人間の一人だ。
「選挙資金の話なら秘書に言え。
次期戦闘機のロビー活動なら、今は聞く気になれん」
「違うよ、アーサー。
今日は大統領としてではなく、古い友人として来た。
……と言いたいところだが、現実はもっとシビアだ」
ウォーレンは椅子を引き寄せ、アーサーの隣に座った。
その目は政治家の鋭さを帯びている。
「なぜ私がホワイトハウスを抜け出し、極秘裏にここまで来たと思う?
電話でも、使者を送ることもできたはずだ。
だが、それでは君は信じないだろう」
「……何の話だ?」
「『奇跡』の話だ。
これから見せるものは、国家安全保障上の最高機密(トップシークレット)だ。
通信回線に乗せることも憚られる。
だから私が直接持ってきた」
ウォーレンはアーサーの目を真っ直ぐに見据えた。
「単刀直入に言おう。
君の孫を救いに来たんだ」
「……何?」
「治せる。
完全に元通りにな」
アーサーは乾いた笑い声を上げた。
「冗談も休み休み言え。
世界最高の名医たちがサジを投げたんだぞ。
神に祈ってもダメだった。
それをお前ごときが……」
「神ではないが、それに近い力を持つ同盟国がいる」
ウォーレンはエレノアに合図した。
彼女は鞄からタブレットを取り出し、映像を再生した。
それはウォルター・リード病院で撮影された、ジム軍曹の再生記録だ。
四肢を失った男が1分間で手足を取り戻す、衝撃的な映像。
「……なんだこれは。
CGか?
ハリウッドの新作か?」
「実写だ。
数日前、我が軍の病院で行われた極秘実験の記録だよ」
ウォーレンは淡々と説明した。
日本から譲渡された医療用ナノマシン。
その驚異的な修復能力。
そして、それが神経系や筋肉の難病にも適用可能であること。
アーサーは映像を食い入るように見つめた。
彼ほどの情報のプロなら、映像の真偽くらいは直感で分かる。
そこに映っている男の苦悶と歓喜の表情は、演技では出せないものだ。
「……ナノマシン……。
日本がそこまで進んでいるというのか」
「ああ。
彼らは隠しているがね。
我々は、その貴重なサンプルを、わずかだが手に入れた」
エレノアが銀色のアタッシュケースをテーブルに置いた。
カチャリとロックが外され、中から一本のインジェクターが現れる。
エメラルドグリーンの光が、薄暗い部屋を妖しく照らした。
「これがその薬だ。
これを打てば、ノア君の神経細胞はすべて再構築される。
萎縮した筋肉も元通りだ。
数分後には自分の足で歩けるようになるだろう」
アーサーの手が震え、インジェクターへと伸びた。
喉から手が出るほど欲しい。
全財産を投げ打ってでも欲しい。
だが彼は、ギリギリのところで手を止めた。
彼は商人であり、政治の怪物だ。
タダより高いものはないことを、誰よりも知っている。
大統領自らが運んできた「奇跡」の代金が、安いはずがない。
「……対価は?」
アーサーはウォーレンを睨みつけた。
「これを私に使う対価として、何を求める?
私の首か?
それともタイタン・グループの解体か?」
ウォーレンは、にこやかに微笑んだ。
それは慈愛に満ちた聖人の笑みではなく、魂の契約書を持ってきた悪魔の笑みだった。
「安いものだよ、アーサー。
君の忠誠だ」
「忠誠?」
「ああ。
君と、そして次期当主となるノア君。
マクドウェル家が未来永劫、アメリカ合衆国政府——ひいては、この私の方針に、絶対の忠誠を誓うことだ」
ウォーレンは立ち上がり、窓の外のハドソン川を指差した。
「世界は変わろうとしている。
日本という特異点が生まれ、中国という龍が暴れようとしている。
この不安定な時代に、アメリカが覇権を維持するためには、政府と産業界が完全に一体化し、一枚岩にならなければならない」
彼はアーサーを見下ろした。
「君の影響力が必要だ。
軍需産業、メディア、エネルギー……君が握っている全てのリソースを使って、私の政策を支えろ。
特に、対中国戦略においてだ。
中国の経済的・軍事的浸透を阻止し、そして……」
ウォーレンは声を潜めた。
「日本から供給されるこの技術を、中国から守り抜く『鉄壁』となれ。
日本の技術者を守り、物流ルートを確保し、中国の工作員を排除する。
そのための汚れ仕事を、君の私兵とネットワークで引き受けろ」
アーサーは考え込んだ。
それはマクドウェル家が政府の「下請け」になることを意味する。
これまでは対等のパートナー、あるいは政府を操る側だった彼らが、ウォーレンの駒になるのだ。
プライドが許さない。
だが。
彼はベッドの上の孫を見た。
ノアの瞳が必死に何かを訴えている。
『生きたい』と。
(……簡単な計算だ)
アーサーは目を閉じた。
孫が死ねば、マクドウェル家は終わる。
後継者のいない帝国は、遠からず霧散するだろう。
ならば誇りを捨ててでも、未来を取るべきだ。
「……いいだろう」
アーサーは目を開けた。
その瞳には、かつての冷徹なフィクサーの光が戻っていた。
「契約成立だ、ボブ。
ノアを救ってくれるなら、私は喜んで君の番犬になろう。
地獄の底まで付き合ってやる」
「賢明な判断だ、友よ」
ウォーレンは満足げに頷いた。
そしてエレノアに目配せをした。
「始めよう」
エレノアが手袋をはめ、インジェクターを取り出す。
彼女は躊躇なく、ノアの点滴ラインの注入口にデバイスを接続した。
「投与します」
プシュッ。
緑色の液体がチューブを通って、ノアの体内へと流れ込んでいく。
◇
変化は劇的だった。
投与から数秒後、ノアの体がビクリと跳ねた。
心拍モニターのアラームが鳴り響く。
「うううう……ッ!」
喉の奥から、くぐもった声が漏れた。
人工呼吸器が邪魔だと言わんばかりに、彼の胸が大きく波打つ。
「ノア!」
アーサーが叫ぶ。
バキン、バキンッ!
体内で骨が鳴る音がした。
萎縮して細くなっていた手足の筋肉が、まるで風船を膨らませるように隆起し始める。
青白かった肌に血色が戻り、浮き出ていた血管が力強く脈動する。
神経系が再接続される激痛——いや、生の感覚。
ノアは目を見開き、自分の手で人工呼吸器のマスクを引き剥がした。
動かなかったはずの手が、動いたのだ。
「はぁッ!
はぁ、はぁ……!」
彼は自分の肺で、大きく空気を吸い込んだ。
酸素の味がする。
生きている味がする。
「お爺様……」
合成音声ではない。
彼自身の肉声が、部屋に響いた。
一年ぶりに聞く、愛する孫の声。
「おお、ノア……!
喋れるのか!」
アーサーは孫に抱きついた。
涙が止まらなかった。
冷たかった孫の体が、今は熱いほどの体温を発している。
ノアは震える手で、祖父の背中を抱き返した。
その力は病弱な少年のそれではない。
若々しく、力強い青年の腕力だった。
「……凄い。
力が溢れてくる……」
ノアは上体を起こし、ベッドから降りようとした。
よろめくこともなく、しっかりと床に立つ。
身長180センチ。
痩せこけていた体は、ギリシャ彫刻のように均整の取れた肉体へと変貌を遂げていた。
ナノマシンによる最適化。
彼は病を克服しただけでなく、遺伝子が持つポテンシャルの限界まで「進化」したのだ。
「……ありがとうございます、大統領」
ノアはウォーレンの方を向いた。
その瞳には知性と、そして底知れぬ野心が宿っていた。
彼は直感的に理解していた。
自分が手に入れた命が、タダではないことを。
そして、この力をくれた相手が、自分の新たな主(マスター)であることを。
「この命、貴方に捧げます。
マクドウェル家は今日から、アメリカ合衆国の盾となり、矛となります」
17歳とは思えない、堂々たる宣言だった。
やはり彼は、ただの子供ではない。
帝王学を叩き込まれた怪物の雛だ。
「期待しているよ、ノア君。
君にはこれから長い時間がある。
その健康な体と、君の家の富を使って、この国を正しい方向へ導いてくれ」
ウォーレンは少年の肩を叩いた。
確かな手応えがあった。
これで軍産複合体は、完全にホワイトハウスの統制下に入った。
◇
その夜。
マクドウェル邸の書斎で、アーサーとウォーレンはグラスを傾けていた。
中身は100年物のスコッチだ。
「……さて、ボブ。
命の代金の話をしよう」
アーサーは上機嫌だった。
孫が助かった安堵感で、10歳は若返ったように見える。
「君が言っていた『中国対策』。
具体的には、どう動けばいい?」
「うむ。
中国は今、日本の技術を狙って工作員を大量に送り込んでいる。
特に新木場の物流拠点と、関係企業の技術者がターゲットだ」
ウォーレンは氷を揺らした。
「CIAも動いているが、公式な組織には限界がある。
外交問題にしたくない案件や、法律の壁がある捜査だ。
そこで君の『民間軍事会社(PMC)』の出番だ」
「……『ブラック・オニキス』か」
アーサーが保有する世界最大級のPMCだ。
元特殊部隊員で構成され、汚れ仕事を専門とする実力部隊。
「そうだ。
彼らを『警備コンサルタント』として、日本の関連企業に送り込め。
海道重工や、新木場の倉庫会社とな。
そして中国の工作員が手を出してきたら……」
ウォーレンは指で首を切るジェスチャーをした。
「法に触れない範囲で、あるいは触れても証拠を残さずに排除しろ。
『事故』や『行方不明』として処理するんだ」
「了解した。
お安い御用だ。
日本の公安警察とも連携させた方がいいか?」
「ああ。
日本政府には話を通してある。
日下部という男が窓口になるはずだ。
彼と連携して、鉄壁の防諜網を敷け」
アーサーはニヤリと笑った。
「面白い。
久しぶりに血が騒ぐな。
ノアにも手伝わせよう。
あいつも新しい体を持て余しているだろうからな」
◇
数日後。
東京新木場。
工藤創一がテラ・ノヴァから送ってくる資材を保管する巨大倉庫群。
その周辺の警備体制が一変していた。
これまでの日本の警察官や警備員に混じって、屈強な外国人たちの姿が見られるようになったのだ。
彼らは黒いスーツや作業着を着ているが、その隙間からは筋肉の隆起と、ショルダーホルスターの膨らみが見え隠れする。
鋭い眼光。
無駄のない動き。
明らかにカタギではない。
路地裏で様子を伺っていた中国MSSの工作員が、双眼鏡を下ろして舌打ちした。
「……チッ。
また警備が増えたか。
しかも、あれは……『ブラック・オニキス』の連中だ」
工作員は無線で本国に報告を入れる。
「北京、応答せよ。
状況が悪化している。
アメリカの民間軍事会社が介入してきた。
それも最精鋭の部隊だ。
……日本政府は、アメリカに魂を売ったようだ」
無線の向こうで、北京の担当官が息を呑む気配がした。
アメリカが本気で守りに入った。
それはつまり、そこに「守るべき価値のあるもの」——すなわち医療用ナノマシン——が確実に存在するという証明でもあった。
◇
首相官邸危機管理センター。
日下部はモニターに映る新木場の様子を見て、安堵と懸念の入り混じった溜め息をついた。
「……マクドウェル家の私兵が到着しましたか」
隣に立つ鬼塚ゲンが、険しい顔で頷く。
「ええ。
現場の警察官たちはカンカンですよ。
『なんで我々の管轄に、拳銃を持った外国人がのさばっているんだ』とね」
「まあ、そうでしょうね」
日下部は胃薬の袋を開けた。
「法務省も悲鳴を上げていますよ。
彼らを『特別顧問』として入国させるための、超法規的措置の書類作りで徹夜続きです。
もし彼らが市街地で発砲騒ぎでも起こしたら、どう言い訳すればいいのか……。
世論やメディアには『外資系の警備会社との提携』と説明していますが、いつまで保つか」
「飼い犬が増えたと思えばいいのです。
狂犬ですが、中国という狼を追い払うには丁度いい」
日下部は薬を水で流し込んだ。
「これで防衛ラインは固まった。
アメリカの軍産複合体が味方につけば、中国も迂闊には手を出せない。
……当面は、ですが」
彼は知っていた。
強力な味方は、時に最大の敵になり得ることを。
アメリカの浸透は守護であると同時に、侵略でもある。
いつか彼らが「守る」だけでなく「奪う」ことに舵を切った時、日本はどう対抗するのか。
盾は同時に、日本を縛る鎖にもなっているのだ。
「工藤さん……。
貴方は呑気に工場を広げているでしょうが、地球側は火薬庫の上ですよ」
日下部はテラ・ノヴァの方角を見つめた。
そこでは今頃、何も知らない工場長が、「原発作りたいなー」などと危険な夢想をしているに違いない。
世界は確実に、破滅と繁栄の分岐点へと向かっていた。
その中心にあるのは、たった一人の男と、彼が作り出す無限の生産ライン。
「工場は成長する」。
その言葉の重みが、地球の自転すら歪ませようとしていた。