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旅館の長い廊下は、夜になると昼間とは違う不気味な静けさに包まれていた。大部屋から聞こえる友達の寝息すら、今のしょうにとっては自分を追い詰めるプレッシャーにしか感じられない。
🐰(……あかん、息できへん……。どうしよ、吐きそうや……)
不登校明けの修学旅行。一日中「普通」を演じて張り詰めていた糸が、消灯後の暗闇でプツンと切れた。しょうは布団を飛び出し、震える足でふらふらと、ロビーで夜番をしているはずの先生のもとへ向かった。
🐰「……っ、はぁ、……っ、はぁ……っ!!」
エレベーターホールを抜けたところで、視界がぐにゃりと歪む。
ロビーのソファに座って書類を広げていたいふ先生の姿が見えた瞬間、しょうの我慢は限界を超えた。
🐰「——いふ、せんせ……っ、たすけ、て……っ」
🤪「……しょう!? お前、何ちゅう顔してんねん!」
いふ先生は書類を放り出し、駆け寄って倒れ込むしょうの体をガシッと受け止めた。
🐰「……っ、あ、……おぇっ、……ごほっ、ごほっ!!」
🤪「……、過呼吸か。落ち着け、俺がおる。……ほら、こっち座れ。袋、すぐ出すからな」
先生はしょうをソファの端に座らせると、手際よく備え付けのエチケット袋を広げて顎の下に添えた。
それと同時に、もう片方の大きな手が、パジャマ越しにしょうの背中に置かれる。
🐰「……げほっ、……おぇぇぇっ!!……はぁ、はぁっ、……っ!……う、ぷ……っ、おぇっ……!!」
夜の静かなロビーに、しょうの激しいえずきが響く。
過呼吸で指先が凍ったように痺れ、吐き気の波が何度も何度も襲ってくる。しょうは震える手でいふ先生の腕に縋り付いた。
🐰「……っ、はぁ、……ごほっ……!……せん、せ……っ、ごめん……みんな、寝てる、のに……っ」
🤪「アホ、そんなん気にすんな。……お前、今日一日ほんまによう頑張ったわ。……その分が今出てるだけや。全部出してまえ」
いふ先生は「トントン」と、力強いリズムでしょうの背中を叩き始めた。
その振動が、パニックで暴走していた心臓を、無理やり現実に引き戻していく。
🐰「……っ、おぇっ……、……はぁ、はぁ……。……気持ち悪い、……もう無理、帰りたい……っ」
🤪「……おん、しんどいな。……でもな、しょう。俺がここにおる間は、お前を一人にはさせん。……吐くだけ吐いて、スッキリしたら俺の隣でちょっと休んどけ」
いふ先生は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになったしょうの顔を、自分のハンカチで迷いもなく、丁寧に拭ってくれた。
その手つきは驚くほど優しくて、しょうの不安を一つずつ溶かしていくみたいだった。
🐰「……せんせ……、……まだ、……ここおってもええ……?」
🤪「当たり前や。……お前が落ち着くまで、俺がずっとここで、背中さすってやるからな」
深夜の静まり返ったロビーで、いふ先生はしょうを自分の肩に預け、その背中を一定のリズムで叩き続けた。
明日への不安はまだ消えないけれど、先生の手のひらの熱だけは、今のしょうをしっかりと繋ぎ止めていた。
🐰「……げほっ、……おぇぇぇっ!!……はぁ、……っ、おぇっ……!!」
深夜のロビー。いふ先生の腕の中で、しょうは何度も何度も胃液を吐き戻していた。過呼吸で指先は硬直したまま、先生の腕をちぎれんばかりに握りしめている。
🤪「……、……よしよし。しんどいな。全部出してまえ」
いふ先生が大きな手で背中をさすり続けていた、その時。ロビーの奥にある教員用控室から、別の男性教師が顔を出した。
「……いふ先生、まだやってるんですか。……正直、その子、不登校明けで無理に来させたのが間違いだったんじゃないですか? 周りの生徒も気を使って楽しめてないし、こうして夜中に先生方の仕事増やすのはちょっと……」
その言葉が聞こえた瞬間、しょうの肩がビクッと跳ねた。
🐰(……やっぱり。僕、おらん方が良かったんや。みんなに迷惑かけてる……)
パニックが再燃し、呼吸がさらに激しく乱れる。
🐰「……っ、はぁ、……はぁ、はぁっ!!……おぇっ……、げほっ、ごほっ!!」
🐰「あ……、……っ、いふ、せんせ……っ、ごめ、なさ……僕、やっぱり……っ」
泣きじゃくりながら過呼吸を繰り返すしょうを、いふ先生はさらに強く、力任せに抱き寄せた。そして、言葉を投げた教師の方を、射抜くような鋭い目で見据えた。
🤪「——おい。今、こいつがどんな思いでここまで来たか分かってて言うてんのか?」
いふ先生の声は低く、地を這うような怒りに満ちていた。
🤪「『仕事が増える』? それが嫌なら教師なんか辞めちまえ。……こいつはな、お前らが寝てる間も、自分と戦って戦って、ボロボロになっても逃げずにここにおんねん。……こいつの頑張りを、お前みたいなのが土足で踏みにじるな」
「……っ、いや、私は効率の話を……」
🤪「黙れ。……二度と、しょうの前でそんな口叩くな。消えろ」
教師がたじろいで去っていく。いふ先生は、震えが止まらないしょうの耳元で、今度は驚くほど穏やかな関西弁で囁いた。
🤪「……しょう、聞こえるか。……アホな大人の言うことなんか、一ミリも聞かんでええ。……お前は、俺の自慢の教え子や。……こんなに強くて、かっこええ奴、他におらへん」
🐰「……っ、せん、せ……っ、……おぇっ……、はぁ、はぁ……」
🤪「ええよ。全部吐き出して、スッキリして寝よな。……俺がずっと、お前の背中守ったるから。……誰にも文句は言わせん」
いふ先生は、しょうの冷え切った手を自分の大きな手で包み込み、そのまま力強く背中を叩き続けた。
冷たい言葉を跳ね除けるような、その手の熱さだけが、今のしょうにとっての全てだった。
いふ先生の大きな掌が、パジャマ越しにしょうの背中を「ドン、ドン」と力強いリズムで叩き続ける。
他の先生が去った後の静かなロビーに、しょうの苦しそうな呼吸と、いふ先生の指の間から漏れる吐息だけが響いていた。
🐰「……っ、げほっ!……おぇぇぇっ!!……はぁ、はぁっ、……っ!……おぇっ……!!」
さっきの心ない言葉が、どうしても頭から離れへん。
「迷惑」「無理に来させたのが間違い」——その言葉が、せっかく勇気を出して一歩踏み出したしょうの心に、鋭い棘となって刺さったままやった。
🐰「……せん、せ……。……ごめん、……僕、やっぱり……おらん方が、……っ」
🤪「しょう。お前、まだそんなこと考えとんか」
いふ先生は、しょうの顎をクイッと持ち上げて、自分の方を向かせた。その目はまだ怒りで少しギラついとったけど、しょうに向ける眼差しだけは、呆れるほど優しかった。
🤪「ええか、よう聞け。……あんな奴に、お前の何がわかんねん。……お前が朝、震える足で新幹線に乗った時。みんなの輪に入るんに、どれだけ勇気絞り出したか。……俺は全部見とった。全部知っとる」
🐰「……っ、……せんせ……っ、……」
🤪「迷惑なんか、一回も思ったことないわ。……お前がこうやって、しんどい時に俺を頼ってくれたこと。……俺はな、教師として、これ以上嬉しいことないんやぞ」
いふ先生は、しょうの涙と汗でぐちゃぐちゃになった顔を、自分の親指で乱暴に拭った。
🐰「……っ、おぇっ……、……はぁ、はぁ……。……気持ち悪い、……まだ、止まらへん……っ」
🤪「おん、出してまえ。全部出しきって、その棘も一緒に吐き出してまえ。……ほら、もう一回くるか。……ええぞ、上手や。えらいな、しょう」
再び襲ってきた激しい嘔吐の衝撃で、しょうの体がビクンと跳ねる。いふ先生はさらに力を込めて、しょうを抱きすくめた。
背中を叩く振動が、パニックで冷え切ったしょうの体温を、少しずつ取り戻していく。
🐰「……っ、おぇっ……、……ごほっ、……はぁ、はぁ……」
🤪「……落ち着いたか。……もう、誰にも何も言わせへん。……今夜は俺の部屋で寝かしたる。……お前が安心して眠れるまで、俺がずっと、背中さすってやるからな」
いふ先生は、ぐったりとしたしょうを横抱きにすると、力強く立ち上がった。
深夜の廊下を歩く先生の胸の鼓動が、しょうの耳に伝わってくる。
🐰「……先生、……大好き……」
🤪「……っ、……アホ、そんなん今言うな。照れるやろ」
いふ先生は少し顔を赤くして、でも、しょうを落とさないようにさらにギュッと抱きしめ直した。
明日になればまた不安が襲ってくるかもしれへん。でも、この広い背中がある限り、もう一度頑張ってみよう——しょうは、先生の腕の中で、ようやく小さな安らぎを見つけることができた。
いふ先生がしょうを抱き上げたその時、反対側の廊下から、ハイヒールのカツカツという硬い音が響いた。
「——いふ先生、まだここにいたんですか」
現れたのは、学年主任の女の先生だった。彼女は、いふ先生の腕の中でぐったりとして、袋を握りしめているしょうを一瞥すると、露骨に眉をひそめた。
「ちょっと、いつまで甘やかしてるんですか? 他の子たちはみんなルールを守って寝てるんですよ。不登校の子だけ特別扱いして、夜中にこんなロビーで騒がれては困ります。……しょう君、あなたも。自分がどれだけ周りに気を遣わせてるか、自覚しなさい」
その氷のような声が、しょうの耳に突き刺さる。
🐰「……っ、……あ、……っ、はぁ、はぁっ!!……おぇぇっ……!!」
止まりかけていたパニックが、一瞬で再燃した。しょうは過呼吸で喉を鳴らし、いふ先生の白衣を震える手で何度も掴み直す。
🐰「……すいま、せん……っ、……僕、のせいで……っ、ごほっ、おぇっ……!」
🤪「——おい。そこまでにしとけや」
いふ先生の声は、さっきの男の先生に向けたものより、さらに一段階低い、地を這うような怒気を孕んでいた。
🤪「特別扱い? ルール? ……お前な、教育ってのは、マニュアル通りに人間並べる作業や思てんのか? 今この子が、自分の限界とどれだけ必死に戦ってるか、その曇った目ぇでは見えへんのかよ」
「な、なんですって……? 私は全体の規律を……」
🤪「規律より先に守らなあかんもんがあるやろ!!」
ロビーに、いふ先生の怒号が響き渡った。
🤪「こいつはな、お前が寝る前にパックでもしとる間に、必死に吐き気と戦って、それでも『修学旅行に来たい』って自分を奮い立たせてここにおんねん。……その勇気を笑うような奴は、俺が許さん。……どけ。こいつが風邪引いたらどうすんねん」
いふ先生は女の先生を肩で押し退けるようにして、迷わず歩き出した。
しょうの耳には、先生の激しい心拍音と、自分のために怒ってくれた熱い言葉だけが届いている。
🐰「……っ、はぁ、……っ、ごほっ、……せん、せ……」
🤪「……、……しょう、もう聞かんでええ。耳塞いどけ。……あんな奴らの言葉に、お前の価値を決めさせるな」
自分の部屋に入ると、いふ先生はしょうをベッドにそっと下ろし、自分もその隣に座り込んだ。
いふ先生の大きな手が、再びしょうの背中に置かれる。今度は、さっきよりもずっと優しく、包み込むような「トントン」というリズム。
🐰「……おぇっ、……っ、はぁ、はぁ……」
🤪「ええよ。全部吐き出せ。……あいつらの言うたゴミみたいな言葉も、全部一緒にここに捨てていけ。……俺が全部、片付けたげるからな」
いふ先生は、しょうの汗ばんだおでこを、自分の大きな掌でそっと覆った。
🤪「……しょう。お前はな、俺にとって世界一の教え子や。……誰が何を言おうと、俺が一生、お前の味方でおったるから。……分かったな?」
🐰「……っ、……せん、せ……っ、ありがと、う……」
涙と吐き気でボロボロになりながら、しょうは先生の腕の中で、ようやく本当の「安心」に触れることができた。外はまだ暗いけれど、いふ先生の温かい関西弁が、しょうの心に小さな灯をともしていた。
いふ先生の部屋のベッドの上。
しょうは、先生の白衣の裾をぎゅっと握ったまま、何度も込み上げる吐き気と戦っていた。
🐰「……っ、げほっ!……おぇぇぇっ!!……はぁ、はぁっ、……っ!」
🤪「おん、まだ出るな。ええよ、全部出し。俺しかおらんから、何も怖ないぞ」
いふ先生は、さっきまでの怒りが嘘のように、穏やかで低い声で語りかける。
背中を叩く「トントン」というリズムは、まるで時計の針みたいに正確で、パニックでバラバラになりそうだったしょうの心を一つに繋ぎ止めてくれた。
🐰「……っ、はぁ、……ごほっ……!……せん、せ……。……僕、明日……みんなの顔、……見られへん……っ」
さっきの先生たちの言葉が、どうしても頭にこびりついて離れへん。「特別扱い」「迷惑」——その言葉を思い出すたびに、また喉の奥がキュッと締まる。
🤪「しょう。お前、まだあんなゴミみたいな言葉、大事に持っとるんか」
いふ先生は背中をさする手を止めて、しょうの肩を抱き寄せ、正面から目を見つめた。
🤪「ええか、よう聞けよ。……明日、もし誰かがお前に文句言うたら、俺がそいつの口、ガムテープで塞いだる。……先生であろうが、生徒であろうが、お前を傷つける奴は俺が一人残らず蹴散らしたるから」
🐰「……っ、……ふふ、……なにそれ……っ」
あまりに極端ないふ先生の言い方に、しょうの口元から、ほんの少しだけ笑みがこぼれた。
🤪「笑ったな。……そうや、お前はそうやって笑ってるんが一番ええんよ。……吐きぐせ? 不登校? そんなん、お前のほんの一部でしかないわ。……お前が今日、ここまで歩いてきた足跡は、誰にも汚させん」
いふ先生は、しょうの汗ばんだおでこに自分の手を当てて、熱を測るように優しく触れた。
🐰「……っ、おぇっ……、……はぁ、……落ち着いた、かも……」
🤪「……おん。よう頑張ったな。 ……今夜はここ、俺の隣で寝。……誰にも文句は言わせん。俺が『医療的措置や』言うて黙らしたるからな」
いふ先生は、しょうを布団の中に潜り込ませると、自分もその横に腰掛けて、布団越しに背中をゆっくりとさすり始めた。
🐰「……先生、……明日も、……隣おってくれる?」
🤪「当たり前やろ。お前が嫌やって言うても、俺がストーカー並みに張り付いたるわ。……せやから、安心して寝。……おやすみ、しょう」
🐰「……おやすみなさい、……いふ先生……」
いふ先生の大きな掌の重みを感じながら、しょうは少しずつ深い眠りに落ちていった。
明日、また太陽が昇れば不安は来るかもしれへん。でも、この先生が自分の背中を守ってくれている限り、もう「逃げたい」とは思わなかった。
コメント
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初コメ失礼します🙏 どの作品もほんと大好きです!! 良ければ修学旅行2日目の話とか、、、書いてくれると嬉しいです🙌✨