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第二章『月曜日の再会』
side 香澄
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月曜の朝、いつものようにコーヒーを淹れ、いつものように自分の席へ。
特別いい日でも、悪い日でもない。
ただ、いつも通りの「始まり」だった。
社内は、なんとなくざわついていた。
週末に誰がどこへ行ったとか、営業部の誰それが契約を取ったらしいとか、課長が朝からピリついているとか。
よくある社内ノイズが、いつものようにデスクの隙間をすり抜けていく。
スケジュールを確認しながら、未読メールを開いていくと──
「本日15:00〜 定例打合せ(フェリクス社)/出席:営業・開発・総務各1名」
という連絡に目が止まった。
ああ、今日だったかと思いながら、流れるように本文に目を通す。
担当者名に「岡崎」の文字があった。
岡崎。
その瞬間、一瞬だけ、何かの拍子で記憶の引き出しがかすかに触れた。
…ああ、そういえば。
あの夜、焼き鳥屋の隣に座っていた男。
あのえくぼの男も、たしか誰かにそう呼ばれていたような。
岡崎──だった気がする。
でもべつに、それ以上何も思わなかった。
ただの偶然。岡崎なんて、どこにでもいる名前。
資料を一通り確認しながら、メールを閉じた。
それだけだった。
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午後、打ち合わせの準備で会議室に入った。
モニターを立ち上げ、資料を並べ、名刺を所定の位置に置いておく。
社外との打ち合わせなんて、いくらでもある。
その一つに過ぎない。いつもと変わらない光景。
そのまま椅子に腰かけ、画面の明るさを調整していたところで─
「失礼します」
会議室のドアが開いた。
「どうぞー」
言いながら顔を上げてギョッとする。
目の前に立っていたのは。
週末行った焼き鳥屋さんのカウンターで、肘が当たったあの男だった。
間違いなかった。
あの夜。
えくぼを片側だけに浮かべて、酔った顔でふざけたことばかり言っていたあの男。
「初めまして。株式会社フェリクスプロモーション、営業部の岡崎です。今日はよろしくお願いします」
一瞬、息を忘れる。
軽く頭を下げながら名刺を差し出すその姿は、
あの夜とまるで違うのに、やっぱり同じだった。
黒髪。小さなえくぼ。
どこか陽気そうで、でも妙に静かな印象を残す目元。
株式会社フェリクスプロモーション
営業企画部 チームリーダー
岡崎 禄
きちんと印刷された名刺のロゴの下に、小さな字で名前があった。
名刺を受け取った指先に、少しだけ力が入っていた。
「あっ…藤井と申します。あっそうだ…あの、名刺です。こちらこそ、よろしくお願いします」
自分の声が、少しだけ上ずって聞こえた。
でもきっと、相手には伝わっていない。
そう思っていたのに。
名刺を受け取った岡崎が、独り言のように ぼそっと言った。
「……あー、やっぱりかぁ」
その声が、あまりにも自然で、あまりにも“いつも通り”だったので、逆にこちらの胸がざわつく。
やっぱり。やっぱり向こうも気づいていた。
目の前の男はふっと口の端を、わずかに持ち上げる。
片側だけに浮かぶ、あのえくぼ。
間違いなく、あの夜の笑い方だった。
その笑みを見た瞬間、
わたしがひとりで飲んでいたことも、
落とした“しがない地蔵”のキーホルダーも──
全部まとめて、じわじわと思い出してきて、少しだけ、顔が火照る。
何か言われるんじゃないかと構えたのに、
返ってきたのは、ただ一言。
「世間、狭いっすね」
拍子抜けするくらい、あっけらかんとした声だった。
でもその声の奥に、ほんの一瞬だけ、間があったような気がした。
肩の力が抜けたようでいて、どこかちゃんと距離をはかっているような。
「岡崎、ちょっと」
背後から別の社員に名前を呼ばれた岡崎は、
「あ、はーい」と軽く返事をして、あっさりとそちらへ向かっていった。
足音も、歩幅も、特別なものは何もなかった。
なのに、視界の端に映るその背中が、妙に静かだった。
こちらの手の中には、
さっき受け取った名刺がそのまま残っている。
紙の表面はもう冷たいのに、
ほんの数秒前のやりとりが、まだそこに残っているような気がしていた。
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