そうだ。
結婚しよう。
喉が渇いて目を覚ました後藤は、見慣れぬ天井を眺めながら、そう思った。
不思議な天啓のようなものを感じていた。
いや、単に酔っていたとの、深夜のテンションが一緒になり。
ふだん、心の内に秘めているものがあふれ出しただけだったのだが。
ふと見ると、七海は何故か、こちらに向かい、手を伸ばし、行き倒れて寝ている。
今だ、と何故か後藤は思った。
社長の眠っている今しかない!
……深夜にスマホを開いてはいけない。
理性の効かないまま、メッセージを送ったりしてしまうからだ。
完全に血迷ったまま、後藤はユウユウにメッセージを送っていた。
『結婚してください』
送信されたのを見て、満足し。
「よし」
と言って横になる。
だが、起き上がり、そこにあったクッションを七海の腰の辺りに置いてみる。
恋のライバルに、起き上がってくるなと思ったわけではない。
そこは親切だった。
お腹が冷えるだろうと思ったからだ。
七海がうつ伏せだったので、とりあえず、腰の上に置いてみたのだ。
だが、その白く小さなクッションは、愛するユウユウが座っていたものだと気づく。
別のクッションと取り替えた。
「よし」
と言って、後藤はまた寝た。
悠里からの返信が入っていることに気づくこともなく――。
自分が送っただけで満足というか。
なにかをやり遂げた気持ちだったからだ。
ちなみに、悠里からの返信はこうだった。
『送り間違いですか?』
送信が取り消せないとは。
何故だ……。
このメッセージアプリの会社を今から爆破してくれば、送信は取り消せるのだろうか。
翌日、正気になった後藤は廊下を歩きながら、そんなことを考えていた。
朝、男三人でショボい朝食を食べるとき、社長と目を合わせづらかったではないか……。
貞弘は『送り間違いですか?』と送ってきていた。
ちょうどいいから、相手を間違ったと言おうか。
だが、誰に送るつもりだったことにする?
いや、架空の人物でいいんだが……と後藤が思ったとき、悠里が向こうからやってきた。
貞弘悠里だと思わずに見れば、綺麗なお姉さん、といった感じだ。
ずっと綺麗なお姉さんだと思っているには、こいつが一生黙っていることが大事なんだが、と思いながら、
「お疲れ様です」
と普通に話しかけてくる悠里を見る。
こいつ、やっぱり、打ち間違いだと思ってるな。
まあ、俺の普段の態度からすれば、そうだろうな。
よし、お望み通り、相手を間違ったんだ、と言おうと思い、後藤は口を開いた。
「返事がなかったが」
「すみません。
送り間違いかと」
そうだ、と言おうと、後藤は口を開いた。
「送り間違いじゃない」
悠里は少し考えたあとで、
「じゃあ、なに間違いですか?」
と訊いてきた。
「なに間違いでもない。
結婚してくれ」
と口で言ってしまった……。
「……そうなんですか」
わかっているのかわかっていないのかわからない口調でそう言った悠里は、では、と頭を下げて去っていった。
なんで送り間違いだって言わなかったんだろうな、とその後ろ姿を見ながら後藤は思っていた。
もしや、嘘でも、あいつに他の奴が好きだとか言いたくなかったとか……?
いや、そんな莫迦な。
まるで、俺があいつを熱烈に好きみたいじゃないか。
きっとあいつのラジオを聴きすぎたせいだ。
祥哉がユウユウのところだけ集めて編集してるから。
今すぐ返そう。
……録音データ、コピーしてから、と後藤は角を曲がって行ってしまう悠里を見送りながら思っていた。
後藤さんは、ときどき不思議なことを言うな。
結婚してくださいってなんだろう? と悠里は修子に、
「結婚してくださいとは、結婚してくださいって意味よっ」
と意味のないツッコミを入れられそうなことを考えながら、自動販売機前で猫をかまっていた。
なんだろうな。
後藤さん、今すぐ誰かと結婚しないと、殺されるとか?
実は、私の背後に猫の霊とか憑いてて、それにプロポーズしてるとか?
いやいや、私に懐いている猫たちを奪い取るために、私と結婚しようとしてるとか?
と今、手の甲にすりすりしているぶち猫を見る。
いや、この猫、うちの猫ではないしな、と思ったとき、
「おい、サボるな」
と言いながら、七海が現れた。
サボるなというわりには、何故か七海は嬉しそうだった。
それは、仕事の合間に人気のないところで二人きりになれたからだったのだが。
悠里はもちろん、そんなことには気づかなかった。
「仕事はめちゃめちゃしてますよ~」
「本人はそう言っても、上司が認めなければ、意味ないぞ」
「どんなブラック企業ですか……」
と悠里が呟いたとき、猫は、とっとっとっと、と新しく現れた自分のしもべに向かって行った。
七海の前で、ごろんと転がり、腹を出す。
ふかふかの猫の白い腹と、それを撫でる七海の手を見ながら、悠里は言った。
「後藤さんは、伝説の呪いの村にでも住んでるんですかね?」
「なんでだ」
今すぐ結婚しないと呪われるんじゃないかと思うんですよ、と思っていたが。
プロポーズされたことをベラベラしゃべるのも悪い気がして、黙っていた。
……何故、しゃべらない方がいいと思ったかと言えば、話を受けるつもりがないからだったが。
自分でも、このときはそんな自覚はなかった。
「呪いの村に住んでるのはお前だろう」
「呪いのアパートですよ。
……でも、あそこにいるユーレイの人は呪ってるとかじゃない気がしますね」
ユーレイのことを語る北原の表情を思い出しながら、悠里は、そう呟いていた。
結婚してくれ、そうなんですか、という謎の会話を思い出しながら、後藤は社長室を訪ねた。
すると、際どいミスをしてしまっていたことを七海に告げられる。
「も、申し訳ございませんっ」
と後藤は頭を下げながら思っていた。
あんな女に気を取られて、肝心の仕事でミスするとかっ。
「今後は気をつけろよ。
まあ、お前のことだから大丈夫だとは思うが」
夕陽を背に、ほんとにしょうがないな、という顔で、ふっと笑い、七海は許してくれた。
そんな七海の彫りの深い、美しい顔を眺めながら後藤は思う。
社長っ!
何処までもついて行きますっ。
ついて来るなと言われても、ついて行きますっ。
後藤はなんだかんだ言いながらも、七海の人間性には惚れ込んでいた。
このような上司はなかなかいないと思う。
どちらかと言えば、貞弘より、社長に、一生ともに過ごしてください、と頼みたいっ。
ほんとうに。
尊敬しているのは社長の方なのに。
何故、その社長の信頼を裏切ってまで、貞弘なんぞに好意を抱いてしまうのか。
おとぎ話や神話なんかを聞くたびに。
何故、みんな悪女に惹かれるのだろう?
悪い奴なのに、と不思議に思っていたのだが。
今はちょっとわかる気がする――。
社長より確実に駄目人間な貞弘ユウユウに、絶対に認めたくないが、自分は心惹かれている。
まあ、あいつの場合、悪女というか。
せいぜい猫を惑わすくらいしかできない人間なんだが。
「社長」
と後藤は七海に呼びかけた。
「この度は、本当に申し訳ございませんでした」
いや……と許しかけた七海に後藤は言った。
「実は、私、結婚を申し込んでしまいました」
「……誰に?」
「……貞弘ユウユウですかね?」
と言って、
「自分が申し込んでおいて、何故、自信がない。
っていうか、なんだその怪しい呼び名は」
と言われてしまう。
いや、愛するユウユウと、ちょっと駄目な部下、貞弘を合体させて。
上手い具合に相殺して、心の調和を図ろうとしたんですよ……、
と後藤は思っていた。
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