アネモネは、食べ終えた串を目についたゴミ箱に放り込んでから歩き出した。
あれほど食べたかった甘いものは、不思議なことに今は食べたくない。
海に面した王都ウォータークレスは、別名「水の都」。運河や水路が整備され、等間隔にある水門を兼ねた橋が美しい水景を作り出している。
アネモネは、懐かしい思い出を胸に感傷に浸りながら、街をぶらぶらと歩き、橋の途中で足を止めた。
師匠と出会ったのは、ここだった。
しかし、この王都でアネモネを知る者は、もういない。かつて同じ屋敷に住んでいた実の父も、継母も、異母兄弟も、使用人達も。
師匠の術で、アネモネという一人の少女は、存在を消されてしまった。
<紡織師>を受け継ぐ対価として、アネモネ自身が望んだのだ。
自分の存在を知っている人間がどれくらいいるのか見当もつかないが、きれいさっぱり消してくれた師匠は、かなりの腕前だった。
そんな師匠は、晩年、アネモネに<紡織師>を継がせたことを悔いていた。
強靭な精神力を持っていたはずなのに、日に日にお酒の量が増えていった。
我を忘れるほど泥酔することはなかったし、人格が変わる酒乱でもなかった。でも、愚痴をこぼす面倒な酒飲みだった。
酔いが回れば、アネモネに「ごめん」とか「すまなかった」とか「どうか許しておくれ」とか……罪人のような台詞ばかりを口にした。正直言って、鬱陶しかった。
なにさ、自分から取引を持ちかけたくせにと、心の中でいつも思っていた。
アネモネは師匠に感謝こそすれ、恨んだことなど一度もない。
ズタボロのどん底の状態から引き上げてくれた恩人であり、人の温もりを与えてくれた大切な人。師匠が居なかったら、間違いなく死んでいた。
もし運良く生き延びたとしても、どっかの貴族より、もっともっと性悪な性格になっていただろう。悪党になっていたかもしれない。
だから真っ当な人生を歩ませてくれて、とてつもなく感謝している。
『私が人の不幸を喜ぶような人間にならなかったのは、師匠がいてくれたからです』
そう、何度も口にした。……でも、言えば言うほど、師匠は泣いた。お手上げ状態だった。
せめて、いまわの際に伝えた「私、頑張るから」という言葉だけは、ちゃんと届いて欲しい。
そんなふうに、つらつらと取り留めのないことを考えていたアネモネの思考が、ぴたっと止まった。
それはこれ以上考えてもせんないことだと諦めた訳ではない。それよりも、もっともっと大事なものが視界に飛び込んで来たのだ。
「み、見つけた……!」
アネモネは、獲物を見つけた野獣のような目つきになる。
ブルファ邸の家紋が刻まれた馬車は、少し離れた店の前で停まってくれた。しかも、馬車の周りには、護衛がいない。
こんな僥倖を、アネモネが見逃すはずはない。
毎日街に足を運んでいたのは、商会窓口でタンジーからの手紙を受け取るだけではなく、こういう邂逅を期待していたのだ。
「今日こそは絶対に逃さないんだからね!」
何がなんでもアニスには、お届けものを受け取ってもらう。
決意を新たにしたアネモネはドレスの裾を引っ掴むと、俊敏な動作で馬車に近づき車内へと身体を滑り込ませた。
見事な身体能力で馬車に乗り込んだアネモネを迎えたのは、予想通りアニスだった。
対してアニスは、今しがた起こった出来事が理解できないようで、ポカンとした表情を浮かべている。
心の中でドヤ顔を決めたアネモネが向かいの席に座ると、アニスはしばらくの間の後、貴族然とした表情に戻って口を開いた。
「……ええっと。どうされましたか?大胆なお嬢さん」
あ、コイツ、誰だかわかっていない。
滑らかな口調で問いかねるアニスに、アネモネは鼻で笑った。
「二度目まして、アニスさま。<紡織師>アネモネです」
苛つく男だとだとしても、コイツが客であることには変わりがない。
アネモネが営業用の笑みを浮かべて頭を下げると、アニスは、ぎょっとした。
「……お前、こんな恰好すると別人のようになるな」
「そうですね。私もそう思います」
遠回しに褒めてもらったようだけれど、ぜんぜん嬉しくなかった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!