【ヴァイオリニストの堕落】朝。繰り返されるアラーム音で目を覚ます。
自室からリビングへと降りれば、既に焼かれてあったトーストが皿の上に置かれていた。適当に近くに置いてあったハチミツを上からかける。
「はぁ……」
今日は午後から音羽と合奏、終わったらバイト、それから別のバイト……そういやシフト表を店長に……あぁ
ちゃんと就職しないといけないのは重々承知している。20代後半の実家住みなんて子供部屋おじさんと呼ばれるただの社会不適合者だ。そんな現状にこのまま灰になって消えてしまいたいなんて、何度考えただろうか。ただ自身の自堕落に絶望し、かといって努力の効くわけではないこの身体に溜め息を吐くしか術はないのだ。
頭は良かった。両親は教育熱心で、良い私立の学校に通って。けれど、大学に行かなかった。ヴァイオリンの道に進んだのだ。
ヴァイオリンは子供の頃に少し習っていたくらいで、大して音楽的センスがあったわけではない。両親にも勿論反対された。かつヴァイオリンが特段好きなわけではない。そもそも、そんなに音楽が好きなわけではない。音楽家なんて食っていけるのは一握りの天才だけで、よっぽどの自信が無い限り続けるのは難しい。そんなこと、始める前から知っていた。だから、こんな道に進むなど思ってもいなかったのに。けど……
「……けど?」
ドロッと蜂蜜が皿に落ちる。指先にかかって、そのまま手に広がっていく。
反対されてまで、なぜこのようなを続けているのだろうか。
パンを一口齧った。パサパサして水気のなく、それを補うかのように甘い液体が口内にまとわりつく。ただ、不快だった。
「はぁ……」
わかりきっていた。
ヴァイオリンは幼少期に習っていたが中学校受験を機に辞めてしまい、それから高校に上がるまで触れていなかった。学生時代、部活には入っていなかったが故に授業が終われば家に直帰するだけで、これと言って良い友人はいなかった。明るい性格というわけでも無く、クラスメイトとも馴染めなかった記憶がある。
ただとある日。たまたま音楽のノートの提出を忘れており、たまたま音楽の先生が休みで学校におらず、たまたま音楽室を合唱部が使っておらず、たまたま同じクラスだった音羽が音楽室でピアノを弾いており、たまたま俺がそこに鉢合わせたのが全てのきっかけだった。
当時、重たい造りをした音楽室の扉を緊張気味に恐る恐る開けてみれば、ピアノの壮大な音が音楽室を包み込んでいた。音の中心にいたのは一人のピアニスト。奏られる羽のように柔らかく軽やかに跳ねていくメロディーは、軽さの中に芯の強さを持ち舞台を震わせ揺らす。何の曲かはわからない。ただ、今まで耳にした何よりも心臓に突き刺さり、指先から爪先までの全身の細胞がサイレンを鳴らし、心臓がひっくり返るほどに鼓動を速くしていた。
当時衝撃で扉を開けたまま硬直してしまっていた俺に気づき声をかけたのは、ピアノを弾いていた張本人十六歳の猶大音羽。そんな劇的な出会いより現在に至る。
恐怖……当時の感情を表すのは、この一言で十分かもしれない。音楽の最終形態はここなのかと、この身体の骨の髄にまで深く深く刻み込まれた。鉄塊に釘を刺すより強く、赤子に触れるより丁寧に身体に打たれた釘は、そう簡単に抜けやしない。
その瞬間は、感動と呼ぶのに等しかった。
あの時の感動を、今も忘れられないのだ。たったそれだけの理由で、今も尚、俺は茨の道を進んでいる。
俺の音楽を続ける理由は間違いなく、この男猶大音羽の存在にあった。
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