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まだ薄暗い朝、目覚ましが鳴る前にすちは自然と目を覚ました。
いつもならすぐ隣で寝息を立てているはずのみことの姿がない。シーツに残る微かな温もりだけが、そこにいた証拠だった。
「……みこと?」
寝ぼけ眼のまま耳を澄ますと、トントン、と包丁の音が微かに聞こえる。
足を進めると、キッチンの灯りの下に、エプロンをかけたみことの後ろ姿があった。
「おはよう、みこと」
声をかけると、みことは振り返った。
しかしその顔は真っ青で、笑顔もひきつっていた。
「……お、おはよ……」
不自然なその様子に、すちは瞬時に違和感を覚える。
すぐに駆け寄り、みことの肩を抱き寄せると――肌が異様に熱い。
「……っ! みこと、熱あるじゃん!」
「え、でも……朝ごはん、作ろうと……」
「そんな場合じゃない。立ってるのもやっとだろ」
すちは包丁を取り上げ、シンクに置くと、ぐらりと傾いたみことの体をしっかり抱きしめて支えた。
みことは苦しげに眉を寄せながら、それでも「大丈夫」と口にする。
「大丈夫なわけないだろ……。みこと、すぐベッド行こう」
その声には、優しさと同時に焦りが滲んでいた。
ふらつく体を抱きかかえ、すちはみことを寝室まで連れて行った。
布団に横たえようとすると、みことは弱々しく首を振り、困ったように笑う。
「……すち、仕事前なのに……ごめんね」
「なに謝ってんの。俺にとっては、みことの体の方がよっぽど大事だから」
熱で赤くなったみことの頬を撫で、その額に冷たい手のひらを当てる。
「……でも……今日、大事な仕事あるんでしょ?」
その言葉に、すちの表情が一瞬曇った。
今日は数か月前から準備してきたプロジェクトの当日。どうしても外せない。
胸を締めつけられる思いで、すちは唇を噛みしめた。
「……だからって、みことを置いていけるかよ」
吐き出すようにそう言ったが、現実には行かなければならない。
逡巡の末、すちはスマホを手に取り、連絡先を開いた。
「……ちょっと待ってて」
数回のコールの後、電話が繋がる。
「おー、すち? どうした?」
気だるげな声が響いた。ひまなつだった。
「頼みがある。今日どうしても外せない仕事があるんだ……。みことが熱出しててさ、午前中だけでいい。そばにいて欲しい」
電話越しに、ひまなつは少し黙った後、「……わかった。いるまも呼ぶ」と短く答えた。
それを聞いた瞬間、すちはほっとしたように息を吐いた。
布団の中で目を細めるみことは、申し訳なさそうにすちを見つめている。
「……俺、迷惑かけてばっかだね」
「違う。迷惑なんかじゃないから」
すちはみことの髪を撫で、額に優しく口づけた。
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玄関のチャイムが鳴り、すちは慌ただしく出迎えた。
そこに立っていたのは、コンビニ袋をいくつも提げたひまなつといるま。
「ほら、ゼリーとか飲み物とか、あと熱冷ましも買っといた。薬局寄るの面倒だったから一式そろえたで」
ひまなつは袋を掲げ、ゆるい笑みを浮かべる。
「……悪いな、急に」
すちは安堵と同時に申し訳なさをにじませ、みことの部屋へと二人を通した。
ベッドに横たわるみことは、薄い汗に濡れて顔色が悪い。
いるまがその様子をじっと見て、低い声で呟く。
「……熱、結構高いな」
すちは頷き、簡潔に説明した。
「さっき測ったら三十八度七分。食欲はないみたい。水分は少し摂れてる」
「了解。俺らに任せとけ」
ひまなつが軽く手を振ると、すちはホッとしたように目を伏せる。
そしてみことの枕元にしゃがみ込み、優しい表情で見つめた。
「……ごめんね。仕事、どうしても外せなくて」
みことはかすかに首を横に振り、声を震わせながらも笑顔を作った。
「だいじょうぶ。……すち、がんばって」
その言葉が胸に刺さり、すちはたまらなくなった。
そっとみことの身体を抱きしめる。力を込めすぎないよう、けれど温もりを確かめるように。
「すぐ終わらせて帰ってくる。だから待ってて」
「……うん」
みことはそれ以上何も言わず、ただ小さく頷いた。
すちは立ち上がり、二人に頭を下げると、名残惜しそうに振り返りながら家を出た。
閉まるドアの音がして、静けさの中でひまなつがぽつり。
「……ほんと、すちってみことのことになると余裕ないよな」
いるまは鼻を鳴らし、無言で冷却シートを開け、みことの額にそっと貼った。
みことは布団の端をぎゅっと握りしめながら、弱々しく声を漏らした。
「……ごめんね。二人とも……迷惑かけちゃって」
するとすぐ、ひまなつが片手をひらひらと振り、へにゃりとした笑みを浮かべる。
「なに謝ってんの。休みだから迷惑かかってねぇから」
「でも……」と言いかけたみことの額に、ひまなつは軽く指先を弾いた。
「いった……」
「ほら、あほ。謝る元気あるんだったら、はよ治すこと考えな」
そのやりとりを黙って見ていたいるまが、低い声で口を開いた。
「……何か食えそうか? ゼリーでもいい。薬も飲めそうか」
心配そうな視線がまっすぐにみことを捉える。
みことは少しだけ視線を逸らして、小さく首を横に振った。
「……今はいい。ごめん、ちょっと……ムリそう」
「そっか」
いるまはそれ以上強くは言わず、ただ袋からゼリーを取り出して枕元に置いた。
「……気が向いたらすぐ食え。冷やしてあるから喉通りやすいはずだから」
二人に囲まれるようにして、みことはゆっくりと布団に潜り込む。
「……ありがとう」と呟いた声は、すぐに静かな呼吸へと変わっていった。
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会議室のホワイトボードには、ぎっしりと書き込まれた数字やグラフが並んでいる。
すちはプロジェクトリーダーとして、その説明を進めていた。
「こちらの数値を今月中にクリアできれば、来期の契約にも繋がります」
声はいつも通り冷静で、自信に満ちている。
──だが、胸の奥では別の音が鳴っていた。
(熱……上がってないだろうか。何か食べられてるかな)
朝のみことの顔色が脳裏に浮かぶ。
真っ青で、笑顔がひどくぎこちなくて、それでも「大丈夫」なんて言って。
布団に運んだときの、あの火照った体温。今も掌に残っている気がした。
「……すちさん、この部分の工程、再確認お願いできますか?」
「……あ、はい」
呼びかけられて慌てて返事をする。手元の資料に視線を落とすが、数字が頭に入ってこない。
ページをめくる指先が震えて、ペンのキャップを落としてしまった。
「大丈夫ですか?」
「……ええ、大丈夫です」
笑顔で答えたが、心ここにあらずだ。
視線を隠すように俯き、机の下で拳をぎゅっと握りしめる。
(俺は今、何をしてるんだろう。こんな会議より、隣で水を飲ませてやりたいのに)
胸に広がる焦燥感を必死に押し殺し、時間だけが過ぎていく。
時計の針はまだ午前十時。
あと数時間で会議は終わる。資料の提出も済ませれば、予定より早く切り上げられる。
「……」
無意識にスマホへ視線を落とす。
通知は来ていない。けれど、それが逆に不安を煽った。
(熱で辛すぎて、返信すらできないんじゃ……?)
胸の奥にざわざわとした不安が広がり、呼吸が浅くなる。
集中しようとすればするほど、みことの顔が鮮明に浮かんでくる。
頬を赤く染めて、弱々しく「ごめんね」って言った、あの表情。
「……早く、帰りたい」
誰にも聞こえないくらい小さな声で呟いた。
その瞬間、背筋に決意が走る。
(このプロジェクトは今日で一区切り。午後まで引っ張る必要はない。終わらせる。絶対に早く帰る)
会議室に再び顔を上げたすちは、先ほどまでの迷いが嘘のように鋭い目をしていた。
ペンを取り直し、資料の指摘を次々と片付けていく。
周囲の同僚たちはその変化に驚きつつも、彼の手際の良さに引き込まれていった。
だが──
その胸の奥で響いていたのは、仕事の達成感ではなく。
ただ一つ、たった一人の名前だった。
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みことは熱に浮かされながら、重たい瞼をゆっくりと持ち上げた。視界は霞み、焦点が合わず、世界が揺れて見える。枕元に座っていたひまなつといるまの姿がぼんやりと浮かび上がった。
「……ん、すち……?」
弱々しい声で名を呼ぶが、すぐに返ってくるはずの低く落ち着いた声は聞こえない。
返事がないことに気づいたみことは、不安そうに眉を寄せ、か細い声で「……どこ……?」と呟いた。
「みこと、大丈夫?」
ひまなつがそっと顔を覗き込む。額に手を当てると、さっきよりもさらに熱が上がっているのが分かった。
「……熱、やばそうだな」
焦ったようにひまなつが呟き、いるまがすぐに体温計を手に取った。
「ちょっと測ってみろ」
脇に体温計を差し込まれると、みことは小さく呻きながらも従う。数分後、ピピピと音が鳴り響き、表示された数字に二人は目を見開いた。
「……っ、39.8度……! ほぼ40度じゃねぇか」
いるまが低く唸り、眉間に皺を寄せる。
「やっぱ病院連れてった方がいいよな。でも、鍵ないし……勝手に出すわけには……」
ひまなつが唇を噛む。
だが次の瞬間、泣き声が二人の耳に飛び込んだ。
「……っ、ひっく……すち……すちぃ……」
みことの大きな瞳から、ぽろぽろと涙が溢れていた。苦しさと高熱に混じり、感情が制御できないのだろう。頬を伝う涙に、ひまなつといるまは思わず固まった。
「ちょ、ちょっと待って! 泣くなって!」
ひまなつが慌ててタオルを掴み、みことの頬を拭う。
「俺たちがいるから! 大丈夫だからな!」
いるまも背中をさすりながら必死に声をかける。
しかしみことは涙を止められず、震える声で「……すち……いやだ、ひとり、いやだ……」と繰り返す。
ひまなつは胸が締め付けられるのを感じた。
「……大丈夫、大丈夫だから。すちが帰るまで俺らがそばにいるからな」
その声はいつになく優しく、真剣だった。
いるまも深く息を吐き、解熱剤と水を手に取る。
「とにかく、これ飲もうな。少しでも楽になるように」
支えるようにしてみことに解熱剤を飲ませ、水を口に運ぶ。
熱に浮かされながらも、みことは薬を飲み込み、口を潤した。
それでも涙は止まらず、声にならない嗚咽が続いていた。
ひまなつといるまは顔を見合わせ、互いに小さく頷く。
「……すちがいなくて不安なんだろ。だから俺らが絶対に離れねぇからな」
「ちゃんと見てるから、安心していい」
二人の必死な言葉に、みことはようやく少し落ち着き、涙を流しながらも二人に寄りかかっていった。
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プロジェクトが無事に終了し、すちは上司に簡潔に報告を済ませた。
「申し訳ありません、午後は私用で……」
上司は軽く頷き、休暇を承認してくれる。
時計を見ると、もう13時前。
すちは一瞬も無駄にできないと、足早に会社を後にした。
通勤路を駆け抜けるように家を目指し、頭の中はみことのことでいっぱいだ。
(大丈夫か……熱、下がったかな……)
胸の奥が締め付けられるように痛む。
玄関の鍵を開け、靴を脱ぎ捨てると、すちはそのまま寝室へまっすぐ向かった。
廊下を走る心臓の音と、呼吸の荒さが自分でも分かる。
寝室の扉を開けると、みことの姿が目に入った。
布団の端でふらつきながらも、いるまに支えられ、ひまなつに寄りかかりながら起き上がろうとしている。
「みこと……!」
安堵の息を漏らすのも束の間、視線を合わせた瞬間、みことの大粒の涙がすちの胸を打った。
「すち……すちぃ……」
声はかすれ、嗚咽と混ざって涙と共に溢れ出る。
すちは瞬時に駆け寄り、両手でみことを抱きしめた。
「ごめん、遅くなった!もう大丈夫だから!」
みことは涙を流しながら、必死にすちの体にしがみつく。
ひまなつといるまは少し後ろに下がり、二人の様子を見守る。
「……帰ってきてよかった」
ひまなつが小さく呟き、いるまも深く息を吐く。
すちはみことの背中をさすり、額を何度も撫でる。
「ほら、泣かないで。安心して。もう俺がそばにいるから」
みことは涙を拭きながら、かすれた声で「うん……」と答え、少しずつ落ち着きを取り戻した。
「すち、みことの状態だけど……熱はほぼ40度近くで、さっき解熱剤飲ませたけど病院行った方がいいと思う」
「ありがとう。二人とも、本当に助かった。後日、ちゃんと礼をするよ」
「いや、いらねーから」
ひまなつが笑いながら肩をすくめ、いるまも小さく頷く。
「また何かあったら呼んでくれればいい」
二人は軽く手を振り、家を後にした。
玄関のドアが閉まると、すちは安堵の息を吐き、みことをしっかりと抱き上げた。
「さあ、病院行くよ。すぐ終わるから」
車内でもみことはぐったりとしている。少し脱水気味のせいか、唇も乾き、目もうつろだ。
「……すち、いや……」
病院に到着し、点滴の準備をされると、みことは子どものように甘えた声ですちに抱きついて離れない。
「大丈夫だよ、すぐ終わるから」
すちは優しく背中をさすり、額にそっと口づけをする。
「……いやぁ……」
みことは小さく声を漏らしながらも、すちの胸に顔を埋めてじっとしている。
熱でふらつく体を抱きしめつつ、すちは手を握り、落ち着かせるように優しく語りかけた。
「熱が出るとこんな風になるのか…。大丈夫。俺がそばにいるから、安心して」
点滴が進むにつれ、みことの表情は少しずつ落ち着き、重かったまぶたもゆっくり閉じられていく。
すちはその手を握ったまま、終わるまでそばに付き添い続けた。
点滴が終わり、みことは少しふらつきながらも、すちに抱えられたまま車に戻った。
「よし、家に帰ろう」
すちは優しく声をかけ、しっかりとみことを抱きしめた。
玄関を開けると、家の中はいつも通りの穏やかな空気に包まれる。
「……すち、まだ手放さないで」
みことは弱々しい声でそう呟き、すちに顔を埋める。
「もちろん。ずっとそばにいるから」
すちはその背中を優しく撫で、みことの髪をそっと整える。
布団に横たわらせると、みことはすちの胸に頭を預けたまま、安心したように目を閉じる。
「喉、渇いてない? 水飲む?」
「……うん」
すちは小さなコップを差し出すと、みことはゆっくりと水を口に運ぶ。
点滴後の脱水も少しずつ和らぎ、表情も安堵の色を帯びていく。
「……すち、ずっといてくれる?」
「勿論、ずっといるよ」
すちは微笑みながら手を握り、額に優しくキスをする。
みことは弱々しく小さく笑い、すちの胸に顔を埋めて眠りについた。
すちはその体温を感じながら、そっと布団をかけ、手を離さずにみことの背中を撫で続けた。
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朝の光が部屋を柔らかく照らしている。
みことはゆっくりと目を開け、体温計を手に取る。表示は37度台。昨日のような高熱は下がっていた。
「……よかった……」
自分の体調が少し回復していることにほっと息をつくと、同時に昨日の甘えた自分の姿を思い出し、頬が赤くなる。
そのとき、すちも目を覚まし、みことの表情を見て微笑んだ。
「熱、下がったみたいだね」
すちはベッドに体を起こし、安心したように肩の力を抜く。
みことは自然とすちに寄り添い、ぎゅっと体をくっつけた。
「……すち……」
小さな声に込められた甘えに、すちは胸をきゅんと締め付けられる。
「……可愛すぎるだろ」
思わず笑みを漏らすすちは、みことを強く抱きしめ、そのまま唇を重ねた。
みことは驚きつつも、自然とすちに身を預ける。昨日の高熱で弱っていた体も、今は温かさに包まれて安心している。
唇を重ねるたびに、二人の間に静かで幸福な時間が流れる。
「……今日は一緒に居ようね」
すちは囁きながら、みことの背中を優しく撫でる。
みことはその言葉に安心し、もう一度すちにぎゅっと抱きついた。
すちは台所に立ち、体調の戻りかけたみことでも食べやすいようにと、卵がゆを用意した。
ふわりと立ち上る湯気に混じり、卵の甘い香りが部屋に漂う。
「……すち、いい匂い」
みことは目を細め、布団の上で座ったまますちを見つめる。
「ほら、熱で弱ってるときは無理しなくていいから。少しずつ食べよう」
すちはお椀を手に、そっとみことの口元に運ぶ。
みことは目を細め、スプーンを受け取り一口食べた。
「……んっ、美味しい」
頬が緩み、自然と笑みがこぼれる。
「そう?良かった」
すちは嬉しそうに微笑み、さらに一口分を口元に運ぶ。
「ほら、少しずつね」
みことは甘えたように目を細め、ふわりとすちに身を寄せる。
「……ありがとう、すち」
小さな声に込められた感謝に、すちは胸が熱くなる。
食べるたびに安心そうに笑うみことを見ながら、すちは静かに手を握り、体調が戻るまでずっとそばにいることを心に誓った。
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