夜、母さんにも父さんにも内緒でこっそり“ふたり”で遊んでいたの。
なんのおにぎりが好きなのって聞いた時の、あのぽかんとした顔がかわいかった。
わたしのお友達になってと声をかけた時の、あのふわりとした笑みに胸がキュンとした。
わたしのだいスキなひと。
せかいでいちばんだいすきだよ。
棘くん。
目が覚めて一番に異常なほどに重たい体に意識がいった。
消毒液の匂いが鼻を掠め、シミ一つない真っ白な壁が司会を埋める。
どれだけ長い間眠っていたのだろうか。起き上がった拍子に体のあちこちで関節の軋む音が鳴り、眩暈と耳鳴りがわたしを襲う。
今にも飛び立っていきそうなほどぐらぐらと安定しない意識を必死に掴み、わたしは辺りを見回す。
白く、消毒液の匂いが漂う静かな一室。かろうじて病室だと分かるその風景には一切の馴染みも安心感もなく、わたしを混乱させる。
─…ここはどこなのだろう。
まったく知らない場所。
どうにかして思い出そうと未だに一定のテンポで鈍い痛みを放つ自身の頭を働かせ、記憶の引き出しを開こうとするが錆び付いてしまったかのように何も思い出せない。淡い夢の余韻だけがゆらゆらと記憶の端で揺れていた。
わたしはなぜここにいるのだろう。どうしてここにいるのだろう。
寝起きでふわふわと宙に浮いていた思考が段々と覚めていき、ようやくやばい状況なのではないかと冷や汗を流したその瞬間。
「あ、起きた?」
知らない女の人の声が突然、一筋の風のように耳の中に響いてきた。
突然の声に肩を大きく跳ね上げながら勢いよく声の主へと視線を移す。
視界に移ったのは暗褐色に近い色合いの長い髪を肩に垂らした、右目に小さな泣きぼくろのある隈の濃い女性。落ち着いた雰囲気と白衣を纏った見覚えのないその姿に、驚きと困惑で「誰ですか」という言葉すらも出なくなる。
「私は家入硝子。…あー、医者だよ。」
そんなわたしの警戒心を読み取ったのか、女性はそう答える。
『…医者?』
首をかしげるわたしに「ほら、」と慣れた手つきで差し出した学生手帳のような紙には「家入硝子」「医師」と硬いフォントの文字が並んでおり、どこか体中の力が抜けていくような安堵感が身に触れる。この人は信用しても大丈夫かもしれないという思考のまま、一度だけ息を大きく吸い込むと、家入と名乗った女性の気だるげな目を見つめ、ゆっくりと口を開く。
『あの…』
ここはどこなんでしょうか。と、一番気になっていた質問を紡ごうとした瞬間。
「…高菜?」
耳の奥に絡みつくような大好きな声がわたしの鼓膜を震わせた。
この声。この語彙は。
『…棘くん!』
先ほどよりも何段階も明るくなった自分の声が喉を通る。
少し黄色寄りの白髪に、長めの前髪から覗く彼の紫色の瞳が私を捉えた。
馴染みのあるその瞳の色と声を聴いた瞬間、お湯のように暖かい安堵の気持ちがだらだらと沸き上がってくる。
小さい頃からずっと一緒だった、幼馴染の狗巻棘くん。
よく夜遅くにお互いの両親に内緒で、こっそり二人で遊んでいた、同い年の男の子。
“呪言師の末裔”らしく、不本意に人を傷つけないようにおにぎりの具で会話する優しい子。昔、「なんのおにぎりが好きなの」って聞いた時のあのぽかんとした顔がかわいかったな、とか「わたしのお友達になって」と声をかけた時のあのふわりとした笑みにキュンとしたな、など印象深い出来事が次々に脳裏に蘇ってくる。
『よかった、知ってる人がいて…』
譫言のようにそう呟く、頬に淡い笑みを付け加える。先ほどまで感じていた困惑や恐怖が嘘だったかのように消え、わたしは溶けるような安堵感の中に落ちていく。
だが、そんな私とは反対に棘くんはどこか遠慮がちにわたしから視線を逸らし、以前とは違うどこかよそよそしい態度でわたしと家入さんの近くへと近寄ってきた。
「…ツナ、高菜?」
わたしの方をちらりと控えめに見つめ、家入さんにそう問いかける棘くんのいつも通りのおにぎりの言葉には心配の音が含まれているような気がした。
「見ての通り、ちゃんと意 識は取り戻したから大丈夫だよ。」
「……ただ、」
わたしの頭を自身の細く白い指で撫でながらそう返す家入さんは、そこまで言うとどこか表情を暗くして言いづらそうに言葉を濁らせた。それと同時に何かを察したのか同じように表情を曇らせる棘くん。わたしたち3人の間に何とも言えない気まずい雰囲気が流れ始め、なんとなく居心地が悪くなってしまったのがいやで慌てて脳内に言葉を吐き出す。
『家入さんの言う通りだよ。頭痛はまだちょっとするけどそれ以外は大丈夫。』
心配しないで、と付け加えながら俯き気味の棘くんの表情をのぞき込むと、棘くんはまだ完全には安心出来ていないのか、しおれかけた花みたいに弱弱しい笑顔を目じりに浮かべた。
だけど、わたしのことでここまで心配してくれたんだという場違いな幸福感が嬉しくて、宙に浮いているような気分が心臓を中心とした体全体に響き渡っていく。
嬉しい。喜び。幸せ。
好感。大事。 愛しい。
だいすき。
ダイスキ。
大好き。
『…棘くん、大好き』
彼が視界の真ん中に入ってきた瞬間、気づけばわたしはそう口にしていた。
コメント
4件
こういうの好きですーー!がんばってくださいね!
積極的だね