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辞令を受け取ったのは、朝の八時だった。
紅村律(べにむら りつ)は、その紙を両手で受け取り、一度だけ深く頭を下げた。異能犯罪対策課と印刷されたその文字を、もう一度目で追う。配属先がここになることは、ずっと願っていたことだった。でも、こうして紙に刻まれた文字として見ると、また違う重さがある。
律の父が、死んだ場所だ。
そのことを、律は誰にも話していない。話す必要もなかった。ただ、ここに来ると決めたのは自分だ。試験を受けたのも、結果を待ったのも、全部自分だ。異能犯罪を許さない。その一点だけを、ずっと握ってきた。父が死んだあの日から、八年間。それだけが、律を動かしてきた。後悔はない。後悔している暇もない。ここに来た以上、やるだけだ。
エレベーターを降りて、フロアに踏み込んだ瞬間、空気が変わった。他の課とは違う、張り詰めた静けさがある。笑い声がない。雑談がない。それぞれのデスクで、それぞれが何かと向き合っている。壁には異能犯罪の発生件数を示すグラフが貼られていた。右肩上がりの線が、淡々と現実を語っていた。整然としている。無駄がない。それでいて、どこか重い。床を踏む足音すら、慎重になる。
律は背筋を伸ばして、フロアを歩いた。いくつかの視線を感じた。新人が来た、という目だ。品定めするような、あるいは少し哀れむような視線も混じっていた気がする。気にしない。気にしている場合じゃない。ここはそういう場所じゃない。そう思いながらも、心臓が少しだけ速く打っていることには気づいていた。緊張している。当然だ。でも、それでいい。緊張しているうちは、まだ本気でいられる。弛んだ瞬間に、人は間違える。それも、父から学んだことだ。
「紅村律さん、ですね」
声をかけてきた男は、三十代後半だろうか。黒髪をきっちり整えて、スーツにシワ一つない。穏やかな目をしていた。柔らかい笑顔だったが、どこか奥行きがある。薄く笑っているのに、その目の奥が笑いきっていない、そんな印象だった。整った顔立ちで、立ち居振る舞いに無駄がない。この場所に、よく似合っている。
「霧島隼(きりしま はやと)です。異能犯罪対策課で、まとめ役を担っています。よく来てくれた」
「紅村律です。本日からよろしくお願いします」
頭を下げる律に、霧島は「こちらこそ」と返した。その言葉は丁寧で、過不足がなかった。ただ、よく来てくれた、という一言の後に霧島の口が一瞬だけ止まったことに、律は気づかなかった。何かを飲み込んだような、ほんの一瞬の間があった。
「まず、特殊捜査室に連れて行きます。あなたの配属先はそこになる」
「はい」
「案内しながら説明します。歩きながらでいいですか」
「もちろんです」
霧島が歩き出す。律はその後に続いた。フロアを横切りながら、霧島は淡々と話した。異能犯罪対策課の中でも、特殊捜査室は独立した形で機能している。通常の捜査官とは別の動き方をする。担当する案件も、一般的な捜査班では対応が難しいものが優先的に回ってくる。人員は少ない。その分、裁量は大きい。動ける範囲も広い。律は相槌を打ちながら、霧島の言葉を頭に刻んでいった。
「特殊捜査室には、現在一名が在籍しています」
「一名、ですか」
「ええ。その方と、あなたが組むことになります」
一名。律は頭の中でその言葉を繰り返した。一名だけで、特殊捜査室を担っている人間がいる。どんな人物なのか、想像しようとして、うまくできなかった。優秀な人間なのだろうか。それとも、何か特別な事情がある人間なのだろうか。聞こうとして、やめた。じきにわかることだ。自分の目で確かめればいい。それで十分だ。
廊下に出た。フロアの喧騒が遠のいて、足音だけが響く。霧島が細い廊下を進んでいく。律はその背中を追いながら、ふと左手首に視線を落とした。スーツの袖から少しだけ覗く、アンティークの時計。白い文字盤。黒のアラビア数字。何度も革を替えながら使い込まれたベルト。ケースの裏には、小さな傷がいくつかある。
父のものだ。
今日、ここに持ってくることに迷いはなかった。ただ、少しだけ緊張していた。この場所に、これを持ち込むことへの、うまく言葉にできない緊張だった。父がいた場所に、父の時計を持って来た。それだけのことなのに。見ていてほしいとは思わない。ただ、一緒に来てほしかった。それだけだ。律は視線を前に戻して、霧島の背中を追い続けた。
「着きました」
霧島が足を止めた。廊下の途中、目立たないドアの前だった。プレートには「特殊捜査室」とだけある。シンプルな文字が、かえって異質だった。フロアの喧騒からも、廊下の空気からも、切り離されたような場所だった。
律は一度だけ、息を吸った。
霧島がドアに手をかけた。ノックをしなかった。