放課後の校舎は、いつもと違う顔を見せる。
昼間の喧噪が嘘のように、廊下に響くのは自分たちの足音だけ。
若井は、窓際の席でノートをめくりながら、重く溜め息をついた。
「……はあぁー……。今日も忙しかったなぁ」
授業、会議、部活指導。
新年度はいつだって慌ただしいけれど、今年は特にだ。
若井は隣に目をやった。
数メートル先、黒板の下で雑務をしていた大森元貴は、黙々とプリントを整理していた。
眉間にしわを寄せ、真剣そのものの顔つき。
それでも頬の線はまだ若く、少し前まで制服を着ていた少年の面影が残っていた。
(……あいつ、本当に頑張ってるな)
そう思った瞬間、元貴がふいに顔を上げた。
目が合う。
「あ、先生……」
「お前もお疲れさん。大変だっただろ?」
「……はい」
そう答えた声はどこか硬く、震えていた。
若井が首を傾げる。
「……? どうした?」
その声に、元貴の身体が小さくビクッと跳ねた。
「……っ、な、なんでもないです」
けれど、誤魔化しきれない。
頬は真っ赤に染まり、視線を逸らした元貴の耳まで赤かった。
若井は怪訝そうに見つめる。
「大森?」
その名前を呼ばれた瞬間。
元貴の中に、ずっと封印してきた記憶が鮮明によみがえった。
——保健室のカーテンの向こう側。
「先生、触れてください」
泣きそうな声で縋った自分。
——あの夜、自分の部屋で。
「俺、早く大人になりたいんです」
そう言い切った自分を、真剣に見つめた若井の目。
触れられないくせに、欲しくてたまらなかった。
教師と生徒という立場が、もどかしくて、切なくて、苦しかった。
それでも、先生は言ってくれた。
——『じゃあ、待ってるよ。お前が大人になるのを』
その言葉がずっと心に刺さっていた。
大学を出て、教員免許を取ったのも、教育実習も就職活動も——
全部、この再会のためだった。
目の前で無防備に疲れた顔を見せてくれる若井が、愛おしかった。
「先生」なんて言いながら、もう「生徒」じゃない自分。
それなのに、心臓がうるさくて、熱が身体を駆け抜ける。
(……俺、やっとここまで来たのに)
触れたくて、仕方なかった。
欲しくて、たまらなかった。
息が荒くなるのを止められない。
胸の奥が、焦げつくように疼く。
若井が心配そうに近づく。
足音が教室に響き、元貴の全神経を逆撫でする。
「……おい、本当にどうしたんだ。顔赤いぞ。熱でもあんのか?」
その声が低くて、優しくて。
ずっと聞きたかった声だった。
「っ、ちょ、近づかないでください」
「……は?」
「……っ、先生が……近いと……」
「近いと?」
「……だめなんです、今……」
「何が?」
若井がさらに一歩近づいた。
元貴は耐えきれずに、吐き出すように言った。
「…先生、俺の中の数式……まだ、解けてないですよね?」
若井が目を丸くする。
「……なんだ、それ」
「……あの日からずっと、俺の中には先生がいて……どうやっても代入できないまま、答えを出せなくて……」
元貴は荒く息を吐いた。
「でも、今はもう大人です。教師です。対等になれた今なら……」
若井はその瞳をしっかり見た。
熱を帯び、潤み、切なく滲むその目。
教室に夕陽が落ちていく。
薄暗くなる中で、2人の距離が縮まる。
若井がゆっくりと息を吸った。
心の中で何かを決めたように。
「大森。……元貴」
名前を呼ばれた瞬間、元貴の視線が揺れる。
「……先生……」
若井は息を呑んだ。
元貴の目が真っ赤だった。
涙が一筋落ちる。
それを見た瞬間、若井の心の中の糸が切れた。
「……バカ」
その言葉と同時に、若井の手が元貴の頬を包む。
熱い手のひら。
そして、唇が重なった。
「……っ、あ……」
甘い水音が、静かな教室に滲んだ。
「……先生……」
「……大森」
短く呼ぶたび、息が絡む。
唇が離れると、どちらともなく吐息が漏れる。
「っ……は、ぁ……」
「……もう一回」
再び唇を重ねる。
今度は深く、苦しいほど。
唇の端を啄むように、舌が触れた。
「……っ、ん……」
元貴の声が漏れる。
若井はそれを聞いて、さらに強く抱き寄せた。
「……待たせたな」
「……先生……」
「ずっと触れたかった」
「俺も、ずっと……」
指が髪を梳き、首筋をなぞる。
互いの呼吸が乱れ、浅くなる。
「……っ、はぁ……は……」
「大森、声……抑えろ」
「む、り……先生が……そんな触り方するから……っ」
「……っ、クソ……」
若井は荒く吐息を落とし、唇を押し付けた。
角度を変え、舌を絡め、啜るように口づけを深めた。
「……っ、あ……っ、は……先生……」
「……可愛い声出すな」
「言うな……よ……っ」
吐息が教室に反響する。
机が軋む音が、2人の体重を支えきれずに鳴った。
「……大森、ここ……学校だぞ」
「……先生が悪い……俺、もう……」
「……っ、でも、ダメだ」
若井が顔を埋めるように肩を抱き寄せ、荒く息を吐いた。
「……ここじゃダメだ」
「……先生……?」
若井は耳元で囁いた。
「……俺の家、行こう」
元貴は目を潤ませたまま、震えた声で応えた。
「……はい」
若井がそっと唇をもう一度重ね、名残惜しそうに離れる。
「……行くぞ」
「……うん」
2人は机を飛び越えるようにして鞄を掴み、扉を開いた。
夜の冷たい風が2人を迎える。
頬を赤くしたまま、早足で校舎を出ていく。
背中合わせじゃなく、肩を並べて。
コメント
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epilogueきたぁぁぁ! 切ない感じがたまらない…!