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目が覚めると、いつものように朔くんが私の隣で眠っていた。
窓から差し込む朝の光が、彼の黒髪をやわらかく照らしている。
長い睫毛が整った目元に影を落とし、眠る横顔はあどけない。
実際、彼は私より三つ年下で、まだ二十六歳。
それなのに、こんな山奥で独り工房を構えて、あの不気味で美しい仮面を作り続けている。
私はそっとベッドを抜け出し、洗面所へ向かった。鏡に映る自分の顔を見る。
今日も変わらない。少し青白い肌、切れ長の目、小さな唇。穏やかな表情。
朔くんが「ツバキさんは本当に綺麗だ」と言ってくれる、この顔。
キッチンで朝食の支度をしていると、朔くんが起きてきた。
「おはよう、ツバキさん」
「おはよう。コーヒー淹れるね」
「ありがとう」
彼はいつも少し寝癖のついた髪で、眠そうな目をこすりながらテーブルに座る。
まだ眠そうな後ろ姿が少しだけ頼りなくて。
でも私を見るときだけ、その瞳に確かな光が宿る。
「今日は何か予定ある? 」
朔くんが尋ねる。
「特にないよ。あなたは? 」
「午後から少し工房で作業するけど、それまでは一緒にいられる」
「そう」
私は微笑んで、トーストとスクランブルエッグを彼の前に置いた。
朔くんの工房は、この家の裏手にある。
元は倉庫だった建物を改装したもので、中には無数の仮面が並んでいる。
壁一面――という言い方では足りない。
天井に近いところまで、白が重なっている。
仮面。
人の顔の形をしたもの。
そうでないもの。
同じ白でも、ひとつとして同じ色がない。
陶器のように冷たく光るもの。
粉を吹いたように鈍いもの。
人肌に近い、わずかに赤みを帯びた白。
右半分だけを覆う仮面がある。
片方の目元から、石膏で固められた涙が垂れている。
それは涙というより、時間そのものが固まった痕のようで、
見ていると、目を逸らすタイミングを失う。
その隣には、額からこめかみにかけて、黒い茨が絡みつく造形。
私の肌に刺さっているわけではないのに、皮膚が、勝手に痛みを思い出す。
さらに奥。
無数の小さな蝶が、顔の輪郭を形作っている仮面。
羽の一枚一枚が、異様なほど精緻で、止まっているはずなのに、動いて見える。
仕事帰りにたまたま立ち寄った彼の個展でそれを初めて見たとき、私は息を呑んだ。
不気味だと思った。けれどそれ以上に美しいと思った。
そして、どこか懐かしいとも思った。
「ツバキさん」
朔くんの声に我に返る。
「どうかした? 」
「ううん。ただ、ツバキさんがいてくれて嬉しいなって」
彼は少し照れたように笑う。その笑顔に、私の胸が温かくなる。
この暮らしは穏やかだ。会社を辞めて、ここに来てから、もうどれくらい経つだろう。
時間の感覚が曖昧になっている。
でも、それでいい。朔くんと二人、この山奥で、誰にも邪魔されず過ごす日々。
それは、恋人とか夫婦とか、そういう名前よりも、もっと単純な安心だった。