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第266話 赤茶色の鼓動
【どこでもない層/深層】
Cの画面には、成人男性の身体が映っていた。
《器側受容率・基準値到達》
《腐食構造・定着》
《行動記録・転送完了》
《元人格干渉・検出されず》
残っている項目は一つ。
《自己認識》
その下に、一つの名が浮かぶ。
《LAST》
カシウスは画面を見た。
「入れろ」
白峰律が横から言う。
「名前を固定すれば、もう単なる残骸じゃない」
「分かっている」
「身体を持ったラストになる」
「そのためにやっている」
白峰は黙った。
オルガが男性遺体の内部反応を見る。
「拒絶はない」
「身体側に、自分を主張する反応がほとんど残っていない」
Cが告げる。
『最終固定を開始します』
黒い文字が一文字ずつ流れる。
L。
A。
S。
T。
四文字が男性の胸部へ重なった。
その瞬間。
これまで止まっていた脳内反応が大きく跳ねた。
《自己認識――接続》
《役割――固定》
《名称――LAST》
心臓。
一度。
ドクン。
動いた。
白峰の目が細くなる。
「始まった」
カシウスは静かに答えた。
「違う」
画面の中。
男性の指が曲がる。
「戻ったんだ」
◆ ◆ ◆
【現実世界・警察関連施設/地下監視室・夜】
警報が鳴った。
「心拍反応!」
技術職員が叫ぶ。
監視員が男性遺体の画面を拡大する。
「もう一回確認しろ!」
「確認しています!」
心拍。
一。
二。
三。
遅い。
人間の正常値とは程遠い。
それでも確かに動いている。
#魔法
こはる
134
上野文
8,802
#探偵
橘靖竜
6,366
ライラ🔮🌸🌙
30,609
「呼吸は?」
「ありません!」
「脳波!」
「出ています!」
監視責任者が振り返る。
「救命班を――」
そこで言葉を止めた。
通常なら。
死者に心拍が戻れば、救命処置をする。
だが、この遺体は普通ではない。
さらに床には、ラストと同じ赤茶色の腐食反応が広がっている。
「待て」
「中へ入れるな」
救命班への連絡を止める。
画面の中。
男性の右手がゆっくり握られた。
左手も。
そして。
胸が一度だけ持ち上がる。
初めての呼吸。
深く。
重い。
「……生き返った?」
誰かが呟いた。
技術職員は答えない。
男性の目が開いた。
黒ではない。
普通の人間に見える瞳。
数秒。
天井を見つめる。
「意識確認を――」
「まだ近づくな!」
監視責任者が遮る。
男性は起き上がった。
保存容器の中で。
ゆっくり。
動きにぎこちなさはない。
長い眠りから目覚めた人間のようだった。
「こちらが見えているのか?」
監視員がカメラを操作する。
男性の顔が映る。
表情はない。
目だけが部屋を見回している。
その唇が動いた。
音声は拾えない。
技術職員が読唇を試みる。
「何か言ってる」
「何だ」
もう一度。
男性の口が動く。
今度は室内マイクが拾った。
『……止まっている』
全員が黙った。
その言葉。
城ヶ峰たちから共有されていた、ラストの行動記録に何度も現れるものだった。
監視責任者が即座に言う。
「全区画封鎖!」
「蘇生じゃない!」
「ラストだ!」
◆ ◆ ◆
男性――ラストは保存容器の透明な蓋へ手を置いた。
押す。
開かない。
外側から電子ロックと物理ロックの両方が掛けられている。
ラストは手を離さない。
指先の周囲。
透明な樹脂が。
赤茶色へ変わり始めた。
「樹脂だぞ……」
技術職員が息を呑む。
金属ではない。
それでも腐食する。
色が変わる。
表面が細かくひび割れる。
ラストが呟く。
「止まっている」
バキ。
亀裂。
「止まっているものは」
バキッ。
亀裂が広がる。
「壊れる」
保存容器が砕けた。
警報音が地下全体へ響く。
ラストは裸足で床へ降りた。
足元から赤茶色の線が広がる。
◆ ◆ ◆
【地下区画・第一封鎖扉】
特殊部隊が配置された。
盾。
非金属素材を中心にした装備。
実弾銃もあるが、使用は最後の手段。
隊長が通信を開く。
「対象は成人男性一名」
「外見は人間」
「ただしラストと同一反応」
「近距離接触を避けろ」
隊員の一人が尋ねる。
「意思疎通は?」
「不明」
「人質化は」
「不明」
「武器は」
隊長は一瞬黙る。
「本人そのものが武器だと思え」
扉の向こうから足音。
ぺた。
ぺた。
裸足。
走っていない。
急いでもいない。
ただ歩いてくる。
隊員たちが構える。
足音が止まった。
扉一枚。
その向こう。
「来るぞ」
全員が息を止める。
何も起きない。
五秒。
十秒。
隊長が監視カメラを見る。
ラストは扉の前に立っている。
手を触れてすらいない。
「何してる」
次の瞬間。
ロック表示が消えた。
電子錠。
物理補助ロック。
扉内部の金属軸。
すべての表示が一斉に赤くなる。
《機能停止》
扉が前へ倒れた。
ドンッ!
隊員たちが後退する。
煙の向こうから。
一人の男性が歩いてくる。
見た目だけなら。
どこにでもいる成人男性だった。
赤茶色の粉が身体の周囲を舞っていなければ。
隊長が叫ぶ。
「止まれ!」
ラストが止まる。
一瞬。
隊員たちの緊張がわずかに緩んだ。
命令を理解した。
そう見えた。
ラストが隊長を見る。
「止まれ」
同じ言葉を返す。
「そうだ」
隊長が言う。
「そこから動くな」
ラストは首を傾けた。
「お前が」
一歩。
「止まれ」
隊長が反応するより早く。
床が赤茶色に変わった。
特殊部隊の盾を固定していた金具が崩れる。
照準器。
通信機。
銃の内部部品。
一斉に異常。
「装備を捨てろ!」
隊長が叫ぶ。
ラストは走らない。
それでも。
一歩進むごとに、周囲の機能が死んでいく。
監視カメラ。
照明。
自動扉。
時計。
次々に停止する。
◆ ◆ ◆
【湾岸旧研究施設/身体側固定室】
日下部の端末に警報が重なった。
「起きました」
城ヶ峰が振り向く。
「男性遺体か」
「はい」
「心拍と脳波が発生」
「現在、自力歩行」
木崎が聞く。
「ラスト反応は」
日下部は画面を見た。
赤茶色。
腐食。
停止。
そして。
過去のラストと一致する波形。
「同一です」
城ヶ峰の表情が硬くなる。
「ラストが身体を手に入れた」
「そう考えるべきです」
通信から声が入る。
『第一封鎖突破!』
『装備の一部が作動しません!』
『対象、地下二階へ移動!』
城ヶ峰が即座に命じる。
「人員を下げろ」
「固定設備に頼るな」
「近づけるな」
木崎が聞く。
「どこへ向かってる」
日下部は施設図を開く。
ラストの現在位置。
進行方向。
「まだ分かりません」
「出口か?」
「違う」
日下部の指が止まる。
ラストは最短の地上出口へ向かっていない。
地下区画を横へ進んでいる。
その先。
「白いコア?」
一瞬、そう見えた。
だが進路が少しずれる。
白いコア保管室を通り越す線。
さらに奥。
女性遺体の区画でもない。
「何を探してる」
木崎が呟く。
日下部は答えられなかった。
ラストは何かへ向かっている。
だが。
その目的地がまだ分からない。
◆ ◆ ◆
【警察関連施設/地下二階】
ラストが歩いている。
壁に貼られた案内板。
《保管区画A》
《保管区画B》
《搬送路》
《非常出口》
文字を見ても反応しない。
だが。
ある場所で足を止めた。
床。
何もない。
ラストが見下ろす。
その下には、地下三階。
さらに。
そこから遠く離れた場所へ続く、微弱な境界反応。
湾岸旧研究施設。
匠の身体側固定点。
ラストの目がわずかに細くなる。
「……止まっている」
胸の奥。
何かが反応する。
完全な現実にもいない。
完全な補助層にもいない。
身体はある。
意識もある。
だが。
二つは重なっていない。
雲賀匠。
その状態は。
ラストにとって異様に強い「停止」として感じられていた。
ラストが進行方向を変える。
地上へ。
◆ ◆ ◆
【どこでもない層/深層】
Cが進路を表示する。
『ラスト、湾岸固定点を感知』
オルガが言う。
「やはり反応したか」
白峰が画面を見る。
「匠の身体を狙うのか」
カシウスは少し考える。
「本人が狙っているとは限らない」
「では?」
「ラストは停止したものへ引かれる」
「匠は今、最も不自然に止まっている身体の一つだ」
Cが新しい分析を表示する。
《雲賀匠》
《身体・現実側保持層》
《意識・補助層》
《帰還意思・あり》
《同期・未成立》
《停止状態・高》
白峰の表情が変わる。
「近づければ、固定点を壊す」
カシウスは答えない。
「止めるのか?」
白峰が聞く。
「なぜ」
「匠の固定点は補助層にも繋がっている」
「壊せば、ハレルたちの帰還にも影響する」
カシウスは画面を見る。
「だから面白い」
白峰が眉を寄せる。
「利用するつもりか」
「ラスト自身が何を選ぶかを見る」
Cが静かに告げる。
『進路予測』
『湾岸旧研究施設』
『到達可能性・上昇』
カシウスは言った。
「観測を続けろ」
◆ ◆ ◆
【警察関連施設/地下厳重保管区画】
ラストが去ったあと。
地下三階には、赤茶色の痕跡だけが残っていた。
壊れた保存容器。
停止した設備。
床に散らばる部品。
だが、
女性遺体の保管室は無傷。
白いコアの保管室も。
まだ閉じている。
監視の復旧を試みていた職員が、ふと白いコアの計測値を見る。
「……待って」
一瞬。
白いコアが光った。
弱く。
誰かに気づいたように。
そして、
容器の内側から。
かすかな声がした。
「……たす……け……」
職員が凍りつく。
「今……」
もう一人が振り向く。
「どうした」
職員は白いコアを見る。
光は消えている。
「声が……」
「誰の?」
答えられない。
そのころ、施設の地上階では。
一人の男が非常扉の前へ立っていた。
ラスト。
人間の身体を手に入れた破壊者。
扉へ手を触れる。
赤茶色の亀裂が広がる。
夜の外気が入り込む。
ラストは
初めて現実世界の夜空を見上げた。
そして。
湾岸の方向へ歩き始めた。
コメント
1件
第266話、読み終わりました…。 ラストがついに身体を手に入れて動き出したんですね。あの「止まっているものは壊れる」って台詞が怖かったです。でも、目的地に匠さんの身体を選んだのは、ラストの性質上なのかな、それとも…。 ラストの目覚めと同時に、白いコアから「助けて」って声が聞こえたのも気になります。まだ誰か中の人っぽい存在がいるんですね。 穏やかな夜の景色の中で、ラストが歩き始めるラストシーンが印象的でした🌙