魔性の梟は山腹に沿うように、低く飛んでいるが、努めて目で追いかけなくとも見失う心配はなかった。その必要もないほどに瞬く星々を纏ったかのように煌びやかに輝いているからだ。
ユカリはグリュエーの追い風を頼りにして、血気盛んな颪のようにトマンの山を駆け抜ける。元の姿に追い風を加えると、魔法少女の姿で走るよりも格段に速い。羽ばたきを最小限にしているらしい魔性の梟に追いつくことも可能だったが、少し距離を開けて、どこに行くのか見極める。
行く先には森がある。ユカリが狼の遠吠えを聞いた小川の流れる森だ。
その巨体にも関わらず魔性の梟はためらうことなく森の中に飛び込んだ。それほど木々の密な森ではないとはいえ、とてもその翼を羽ばたかせることなど出来るはずがないとユカリは考えた。しかし梟は見事にそれをやって見せる。翼を上下する間に木の間をすり抜けて飛んでいる。
続いて森に入るとユカリは自分が今どこにいるのかと混乱した。
というのも魔性の梟の輝きは木の葉の厚い天蓋を聖火母の礼拝堂にも劣らないモザイク模様の天井画に染め上げ、濡れた下草を砂漠の王国の宝物庫にもあろうかという夢幻的な絨毯に彩色していた。その色の洪水は魔性の梟の動きに合わせて、森の奥へ奥へと流れて行く。迷うことはなかったが、地面の遠近感が狂わされ、ユカリは何度も足を取られてしまった。
ついに魔性の梟は地上に降り立つ。いまだ森の中ではあるが、そこは少しばかり開けている。まるで舞台に上がった役者のように、梟は巨大な岩の頂に降りると、その空間は羽毛の輝きで照らし出される。
そこには森の闇の中に潜んでいたのであろう狼の群れがいた。狼たちは鈍く輝く両の眼を、巨岩に降臨したその巨大で丸々とした輝きの塊に注いでいる。狼たちは一言を発するでもなく、微動だにせずただ梟の周りを取り囲んでいた。
すると魔性の梟が煌々と光る翼を大きく広げ、遠吠えを発した。聞き紛うことなき狼の遠吠えだ。巨大な銅鑼の音のような威圧的な大音声が森を震え上がらせる。竦むユカリの目の前で再び、その巨体が変身していく。
両の翼は丸太さながらの屈強な脚に変じ、輝かしき夜天の羽根は抜け落ちて、代わりに葡萄蔓のような太く長い体毛が全身を覆い尽くす。その総身は大地に深く根差した老木に似て、濃く鮮やかな緑の苔に塗れている。
その体表で何やら蠢いていた。ユカリが目を凝らしてよく見ると、栗鼠や鼠、蛇や虫が我が物顔で毛皮の大地に巣くっている。いつの間にかどこかから飛んできた普通の大きさの梟が枝のように堅くなった束状の体毛にとまる。それでいてその大狼は少しも己の身に棲む者たちを気にしていないようだった。
何が起こるのかとユカリが身構えていると、狼の群れは何事もなくじゃれあい始めた。狼の仔が走り回り、老いた狼が毛づくろいし始める。何頭かの若い狼がさっきまで梟だったフロウの変身した大狼と、まるで会話でもするように鼻をこすりつけ、匂いを嗅ぎあっている。
ユカリは逡巡する。フロウはどういうつもりでここに来たのだろう。
どうすべきか迷っていると、一頭の若い狼とユカリの目が合った。そしてその狼が唸るでもなく吠えるでもなく、ただユカリを見ている内に、一頭また一頭と狼たちがユカリの方へ視線を向け始めた。
「グリュエー。準備して」とユカリは囁く。
「グリュエーはいつでも臨戦態勢」とグリュエーは言った。
「逃げる準備だよ」
次々に視線が集まり、とうとう大岩の上で背中を向けていた大狼もユカリの方を振り向く。その威を発する眼光に射抜かれた瞬間、ユカリは本能的に一歩退く。しかしその瞳には少年のようなあどけなさも同時に持ち合わせていた。
「フロウ」とユカリが呼びかけると、応えるように大狼は少年の姿に戻った。
「やっぱり起きてたんですね」とフロウは言った。狼たちがフロウの後ろへと引き下がっていく。「出来ればこのことは誰にも知られたくはなかったんですけど、ユカリさんなら話してもいいかな」
フロウが優しい表情でユカリを大岩へと手招く。
「話しましょう。ユカリさん」とフロウは言うが、ユカリは狼たちを見てためらう。
「彼らは人間を取って食ったりはしませんよ。そう言い聞かせてあります」とフロウは微笑みながら言った。
ユカリは意を決して大岩へと近づく。深い森の開けた空間はまるで征服されて廃れた過去に麗しき王城の広間のようだ。下草は色の落ちた分厚い絨毯で、立ち並ぶ木々は戦火の熱で捻じれた青銅の柱、無数の星明りは難を逃れた燭台。苔生した大岩はまるで古から今に伝わる玉座のように、ユカリを威圧的に迎える。
ユカリの手助けをするためか、若い狼の何頭かが大岩の前にやって来て待ち構えていた。しかしユカリはグリュエーに一言を発すると、走り込んで、跳躍する。狼たちの上をふわりと飛び越え、大岩の上に降り立った。勢い余って苔に足を取られるも、差し出されたフロウの手に捕まって事なきを得た。
ただの少年の手だ。ユカリの手よりも小さくて、今に男の手になるであろう芯のある柔らかさだ。
「今のは魔法ですか?」
「竜殺しの英雄じゃないんだから、魔法も無しにこんなに跳べるわけがないでしょ」
「確かに」と言ってフロウは苦笑する。フロウは大岩に胡坐をかく。「ユカリさんは凄い魔法使いだったんですね。それにとても勇気がある」
「君ほどじゃないよ」とユカリは呆れたように言った。フロウと向かい合って座る。「宝石みたいな梟に変身して、大木みたいな狼に変身して、狼たちはまるで従士だね」
ユカリが辺りを見渡すと無数の黒曜石のような瞳がこちら見つめている。そこに緊張や警戒は存在しないようだった。
フロウは少しだけ照れ臭そうにする。
「僕が凄いわけじゃないんです」そう言ってフロウは懐から一枚の羊皮紙を取り出し、ユカリに渡す。
そこには前世の例の文字で、少ない紙幅に詰め込まれるように動物に変身する魔法について書いてある。どんな動物に変身できるだとか、動物に変身した時の注意点だとか。
そこから発せられているのは、ずっと感じていた魔導書の気配に間違いない。しかしユカリの持っている魔導書『わたしのまほうのほん』と比べるとまるで別物だ。美しい純白の紙ではなく、この世界で見慣れた羊皮紙なのだ。にもかかわらず、前世の文字で前世のユカリの筆跡だ。ユカリ自身、まだまだ魔導書について知らないことが沢山あるようだと思い知る。
「魔導書、持ってたんだね」とユカリは言って、探るようにフロウをじっと見る。
「すみません。悪気はなかったんですけど」とフロウは真摯に答える。
「どこで見つけたの?」
「北の荒野です」と言い、フロウはどこか遠い場所を見ながら続ける。「でもそこにあったという感じではなかったですね。風で飛ばされて来たのを拾っただけなので」
グリシアンの国々や偉大な魔法使いが奪い合っている魔導書を拾ったと言われ、ユカリは少し可笑しく感じた。
「じゃあ」と言うユカリは微笑みを湛えている。「独力で使い方を学んだんだね」
「そうですね。まあ、全てを理解できているかは分かりませんが。生物の鳴き真似をすると、その眷属を支配する王に変身できるのです」
「え?」と呟き、再びユカリは魔導書に目を通す。『王』とまでは書いていない。「どこにもそんなこと書いてないよ。どうやって分かったの?」
「些細なきっかけですよ。たまたま得意な鳴き真似をして、それで変身できたんです。王だということは姿を見れば分かりますし」と言った後、フロウは怪訝な表情に変わる。「それよりユカリさん。その文字が読めるんですか?」
「うん、まあね。昔に習ったの」と言ってユカリは魔導書をフロウに返す。嘘はついていない、と自分に言い聞かせる。「それでこれを何に使ってたの? この狼たちとは、どういうご関係?」
「家族みたいなものです。それに決してこの魔法を悪用したり、彼らに人を襲わせたりはしていません。むしろ逆です。人間や家畜に手を出させず、獲物を探してやるために使っていたんです。その方が争いも起きにくく、狼たちにとっても幸せだと思うから」
その瞳に真摯な色を浮かべて、フロウはユカリに訴える。共存できるならばそれに越したことはないのだろう。
魔導書を譲ってくれ、とはとても言いにくい。
「羊飼いが狼使いでもあったなんてね」とユカリは皮肉っぽく言ったが、それに対してフロウは何も言わない。
ただ、じっとユカリに眼差しを向け続ける。
「分かったよ。フロウを信じる」と言ってユカリはもう一度狼たちを見渡す。「君たちもね」
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