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暴れ馬のように荒れ狂う嵐を抜け出し、勇ましき船は当てどなくも南下し、港町を避け、西高地近くの沖に錨を下ろす。
百戦錬磨の海の男たちでさえ精魂尽き果てる魔法の嵐を脱し、ようやく糧を得ることになった。運悪く見張りの当番だった者たちを除いて船に乗る者たちが何度かひっくり返したかのような食堂に会する。
「それにしてもこの人たち、どうやって雇ったんですか? あの大嵐を潜り抜けても文句言わずについてくるなんて」
ユカリは盛り沢山の魚料理を堪能しながら、酒の力を借りつつも何事もなかったかのように陽気に歌う男たちを眺めて言った。困難を乗り越えた自分たちの勇気と運命の慈悲に感謝し、祝杯をあげている。
「十分なお金ですね」とモディーハンナはきっぱり言う。
「信仰心とかは……」
「あるかもしれませんが、私が与えられるものではないので」モディーハンナは目の前の鱈と蕪の羹を掻き混ぜる。「予言通りガミルトンが沈んだ後、一人でも多くの罪なき人々助けるために船を出す準備をしておいてもらいました」
ユカリは少しばかり声を潜めて向かいに座るモディーハンナに尋ねる。「そういえば聖女アルメノンが大海嘯の黒幕だったことはどう受け止めているんですか? ジェスランが告白した時は半信半疑だったようですが」
「まあ、少しは悲しいですが。あの人となりですから。それに我々が信仰しているのは猊下ではありません」
モディーハンナの言葉を聞き、真摯な眼差しを受け止めると、ユカリは頷き、隣でへこたれているレモニカを盗み見る。
ユカリの母の姿で俯いて美味しい食事を不味そうに食べている。あれからずっとこうだ。従者であるシャリューレがユカリの腕を折ったことか、あるいは姉だというアルメノンに従い始めたことか、そのどちらもか。レモニカは相当の衝撃を受けたらしい。
気持ちは分かる、だろうか。もしも自分の親衛隊が……とユカリは想像しかけるがやめておく。それは想像でしかない。
「一応聞くけど、心当たりはないの? レモニカ」とユカリは尋ねる。一連の流れを何度思い返しても操られているようにしか思えなかったが。「シャリューレさんがアルメノンに従う理由がもしもあるのなら。今まではそういう関係には見えなかったし。まさか立場上ってことはないと思うけど。アルメノンが、その……」
レモニカの姉であり、ライゼン大王国の王女という身分であるために。
「分かりませんわ」とレモニカは一言だけ返した。
「あの人は本当にかの教敵シャリューレなのですか?」とモディーハンナは机の縁につかまってユカリに尋ねる。
モディーハンナの仲間の僧侶たちもこちらに注目し、聞き耳を立てている。何かを期待されている、とユカリは感じた。
ユカリはレモニカからモディーハンナに目を向けて言う。「モディーハンナさん、何か知ってるんですか?」
「いえ、直接的には何も」モディーハンナは謙虚に、小さく首を振る。「私が僧侶になったのは、シャリューレが救済機構を裏切り、寝返ったはずのライゼン大王国に裏切られて処刑された、とされている年から十年は後ですから。でもその名を知らない僧侶はいません。好意的かはともかく、真偽を疑われるほどの伝説を残した女傑ですから、今でもよく語られています。六歳で護女になり、その類稀な身体能力を買われて十歳で焚書官になり、十二歳で首席となって局長に叙任され、十四歳で亡くなった、と」
「それが本当なら伝説になって当然ですね」ユカリは感嘆して呟く。
少し妬ましい気持ちさえある。ユカリが昔から見聞きしてきた冒険譚に語り継がれる英雄たちも幼い頃から様々な偉業を成し遂げているものだ。ユカリの冒険は想像の内に繰り広げられたが、シャリューレは現実に超常的な困難を乗り越えてきたのだ。
レモニカも聞き耳を立てていることにユカリは気づいた。さっきからずっと食事の手が止まっている。
「他に何かないんですか? シャリューレさんの伝説」ユカリはモディーハンナを、仲間の僧侶たちを見て尋ねる。
すると僧侶たちが興奮した様子で今に伝わるシャリューレの偉業を語り出した。護女になった時点で大人顔負けの身長だったとか、聖火に飛び込んで無事だったとか、素手で竜を屠っただとか、戦場で千人を切り伏せただとか、大王国で百回処刑されて生き残っただとか。そういった話が延々と続いた。
「それが本当なら、私たちにはもう勝ち目がないと思います」とユカリが言うとレモニカは可笑しそうに噴き出して咳き込む。
ユカリはようやく安心して、レモニカにも聞こえるように言う。「伝説の真偽はともかく、シャリューレさんも無敵ではありません。アルメノンに従う理由があったのかも、と考えてはみましたけど。やっぱりあれはアルメノンに操られているように見えました」
モディーハンナは頷く。「私も同意見です。名前をを通じて支配しているようでした。渇望に潜む豊饒という名は明らかに護女の実り名ですからね。支配を解く方法があるとすればシャリューレ自身も知らないらしい本名が鍵だと思いますが……」
ユカリはレモニカを、モディーハンナは僧侶たちを見るが、誰もシャリューレの本名を知らなかった。
「わたくしはシャリューレを本名だと思っていましたわ」レモニカは鮭と玉葱と茸の煮込み料理を見下ろして言う。「シャリューレのことを全然知らなかったのだと思い知らされています。思い返してみればシャリューレがライゼンにやって来てから後のこともほとんど知りませんもの」
「ライゼンにやって来てから後!?」モディーハンナが驚いた様子で発し、訝しむようにレモニカを見つめる。「レモニカさん。貴女、ライゼンの方なのですか?」
「すみません。モディーハンナさんを傷つけるのではないか、と黙っておりました」
ユカリは話の流れが呑み込めず、推移を見守る。
「別にいいんですよ。いえ、その方が賢明です。シグニカには多くの難民やその子孫が身を寄せていますから、あまり大きな声で言わない方が良いでしょう」
「はい。心得ました」と誠実な響きでレモニカは言った。
モディーハンナのさっきの様子を見るに一般論を言ったのだとは、ユカリには思えなかった。モディーハンナ自身もライゼン大王国に対して強い思いがあるらしい。レモニカやアルメノンがその国の王の血を引いていることは黙っておいた方が良いのだろうと胸に秘める。
しかしそう考えると大聖君にして第七聖女アルメノンの特殊性が際立つ。敵国からさらってきた王女を、そのことを隠しているとはいえ、事実上の君主に据える国がどこにあるだろうか。中央グリシアンに広がる救済機構の信仰は常にライゼン大王国と隣接し、対峙している。そのようなことが内外に知られればただでは済まないはずだ。
「シャリューレの本名を知ってそうな人、誰かいたかな」とユカリは話を戻す。
「一人、心当たりがあります」と僧侶の一人が言った。「シャリューレの師匠だった男、ジェスランです」
「あ、忘れてた」とユカリは呟く。
ユカリは気にも留めていなかったが、ジェスランはシャリューレの剣の師匠で育ての親みたいなものだ、と以前に自称していた。
ジェスランは相変わらず帆柱の根元に縄で縛り付けられていた。ユカリたちがやって来て、ジェスランが顔をあげ、すがるように見つめる。
「ねえ、今なら何でも話すからさ。拷問はそろそろやめてくれない?」とジェスランはやつれながらも笑みを浮かべて言った。
「別に拷問なんてしてませんよ。嵐は大変でしたでしょうけど。他に縛り付けておけるところがないだけです」とユカリは冷たく言う。
街ごと家ごと海に沈められることに比べれば何ほどでもない。少しも同情心は湧かなかった。
「でも尋ねたいことがあったので丁度良かったですわね」とレモニカは言う。「ジェスランさん。シャリューレの本名をご存じありませんか?」
ジェスランはにやりと笑みを浮かべる。「知ってるけど、おじさんに温かい食事と寝床をくれたら教えてあげるよ」
ユカリとレモニカ、モディーハンナは顔を見合わせる。嘘くさい、と三人の顔に書いてあった。
「教えてくれたら与えますよ」とユカリは言う。「もしも嘘だったらどうしましょうか?」
「まあ、まず間違いないと思うよ。幼いシャリューレの唯一の持ち物、小さな石飾りに名前が彫られていたからね」とジェスランは得意そうに言う。
ユカリは頷く。「分かりました。約束しましょう。教えてください」
「ネドマリア、だよ」とジェスランは言った。
ユカリは大地の剣で縄を切り裂いて言う。「グリュエー。この男を海に沈めて」
風が巻き起こり、ジェスランの体が浮きあがる。
「ちょっと待って本当だって」ジェスランは力なくばたついて力なく叫ぶ。「ほら、あの時、君もいただろ? ジンテラ市の宝石店、盗賊団の塒の硝子張りの部屋で、僕が首に提げていた群青色の石飾りを女が奪い取ったじゃないか。あれが元々シャリューレのものなんだ。あれに書いてたんだ。嘘じゃない。信じてくれ」
ネドマリアの言葉を思い出す。これはこの世で私と姉以外に持っている者はいないはずなんだ、そう言っていた。
ようやく話が見えてくる。つまりシャリューレこそがネドマリアの探していた姉だということだ。二人の姉妹はお互いの名前が彫り刻まれた石飾りをそれぞれに持っていたのだろう。
レモニカとモディーハンナに、ネドマリアとシャリューレの事情、その推測をユカリは説明する。
「つまりシャリューレさんの本名が書かれた石をネドマリアさんが持っているはず」とユカリは力強く主張する。
「妹であるネドマリアさまに直接聞けばよろしいのですよ、ユカリさま」とレモニカに指摘され、ユカリは顔を赤らめ、
「とにかくネドマリアさんを探さないと!」と誤魔化す。
モディーハンナたちにもネドマリアの特徴を伝えるが誰にも心当たりはなかった。姉妹はあまり似ていない。少なくともレモニカとアルメノンほどには。
ユカリとレモニカが最後にネドマリアを見かけたのは大仕事の夜だ。探すための手がかりはそれだけだった。