少女は磔になっていた。
まだ幼気な少女だが、それと知るのは難しい。その肉体は神々にも愛されるほどたくましく、人の野原の上で数え切れぬ武勲をあげていたがために。
真昼の太陽の銀の輝きに縁どられた王城下の広場に無数の人々が群れ集っている。磔刑台の上の少女の痛ましい姿に対して、人々は心無い言葉を投げ掛け、憎しみを貼り付けた顔で、禍々しく睨みつける。そのどれもが呪いに等しい力を持ちえたが、少女のもとまでは届かなかった。
少女は血に塗れていた。
全身を痛みが這い回り、頭の中を苦しみが巣食っている。青黒い痣に覆われた体のどこも動かない。腫れの為に半ば閉じた瞼の間から見えるのは、血に赤黒く汚れた襤褸と刑死者たちの血と糞尿で汚れた木製の磔刑台の床だけだ。血の溜まった耳から聞こえるのは学んで身につけた言語のはずだが、頭の中で意味が結実しなかった。
豊かな襞を作る大層な衣を纏った法官が一人やってくる。屍肉を貪る鴉のような耳障りな声で、羊皮紙に記された罪状を一つ一つ読み上げた。それらは何一つ揺るぎなき事実だ。少女の罪が一つ、また一つと積み上がっていく。
勇敢な戦士を殺した。賢明な軍師を殺した。偉大な将軍を殺した。
罪無き人々を殺した。
直接的な罪も間接的な罪も等しく、これから待ち受ける刑によって罰せられる。
法官は物々しく大それた言い方をしているが、やはり少女には知っているはずのその言葉が意味を結ばず、ついには可笑しな気持ちになって笑みを浮かべる。
法官に命じられて槍を携えた処刑人の一人がやってくる。血を吸った革の手袋の大きな拳で顔をぶたれるが、元々あった痛みとの区別はつかなかった。少女は笑むのをやめなかったので、何度も何度も殴られたが、そのまま死んでは困ると法官が止めた。
そしてさらに二人の処刑人が刑台に上り、待ちに待っていた群衆が歓声を上げる。計三本の槍の鋭い穂先が少女に向けられると、皆が固唾を呑む。
最期を前に法官が慈しみを称えた眼差しを少女に向けて、何か言葉を唱えたが、やはり意味は分からなかった。
法官が合図を発しようとしたその時、天が閃き、轟く。何もかもが真っ白に染め上げられ、耳が音に塞がれる。法官の、処刑人の、群衆の悲鳴が聞こえる。ただ一人、磔にされた少女だけは沈黙を保っていた。
少女が気がつくと、磔から解放されていた。台に立つ自分の足を不思議そうに眺める。目の前に何者かが立っていた。しかし痛みで顔を上げられず、少女はその綺麗な白い足だけを見つめる。法官が怒鳴っているが、やはり意味はすくい取れない。
その何者かは少女の痛みなど露にもかけず、少女の顎を持ち上げて、顔を見合わせた。
ただただ輝く黄金のような双眸に少女の目は惹きつけられた。他の何も見たくない。死ぬまでずっとその瞳を見つめ、その瞳に見つめられたい。そう思った。
少女が魅入られていると、目の前の麗しい蕾の如き唇が開く。
「私は君の名を知りたい」
その声は喜びだった。その響きは悦びだった。その調べは慶びだった。少女の全身を祝いと福が駆け巡った。
少女は救われた。
痛みを忘れ、苦しみを忘れ、罪を忘れて少女は呟いた。「シャリューレ」と。
シャリューレは跪いてその時を待つ。シャリューレにとって全ての日々はその喜びの時を待つ時間だ。
「面を上げよ」天上の宮の黄金の鐘の如き清らかにして厳かな声がかかる。
シャリューレは恐る恐る顔をあげ、眼前に現れた喜びを拝する。厚く立ち込めた雲間から覗く冴え冴えしい月よりも、鬱蒼とした森に深淵の如き影を遣わす真夏の太陽よりも遥かに輝かしい顔貌に浴する。黄金の髪と黄金の瞳の為に、身につけている彩り豊かな衣や輝きと物語を秘めた宝飾が色褪せている。
「ご機嫌麗しゅうございます、誉れと慰めの轟姫王妃陛下」とシャリューレは言葉を震わせる。
その広間にいるのはヴェガネラとシャリューレだけだった。
ヴェガネラは我慢できないという風に可笑しそうに笑う。「どこで覚えた? その言い回し。まるで似合っていないな、シャリューレ。それに大王国の王妃は陛下ではなく殿下だ」
「失礼いたしました。ヴェガネラ王妃殿下」
シャリューレにとってはヴェガネラという名を口にするだけで満たされる思いだった。
「良い。報せを聞かせなさい」
「はい。巌ヶ原の石の怪物、底無し渓谷の古砦を根城とする盗賊ども、魔女右耳、左耳、鼻の三姉妹、元騎士雷嵐率いる門破り傭兵団、全てヴェガネラ王妃殿下の名の下に殲滅せしめ、その他指定対象者七名を秘密裏に処分致しました。計百三十六品の重要魔法道具を押収し、その後全てを破壊、魔導書類物品は発見できませんでした」
「相も変わらず優秀だ。君は誰よりもライゼンを体現していると言える」
爪弾く竪琴の調べのように美しい声を聞いて早鐘を打つ己の心臓に負けない声でシャリューレは答える。「有り難きお言葉、幸甚に存じます」
「本当は君のような子供にさせたい仕事ではないのだけど、私とてやりたいことを全て押し通せるわけではない。許せ」と言ってヴェガネラはため息をつく。
「恐悦至極に存じます。しかし私がこの国に身を置くためには必要なこと。殿下がお気に病む必要はございません。ましてや私にとっては殿下の手足となって働けることはこの上ない喜びにございます。例え必要がなくともお命じ下されば何なりと実行致しましょう」
それに対してヴェガネラは冬の明け染めの星の如き微笑みで応えた。
「君は私のことをどう思っているのか、聞かせてくれ」
「どう、と仰いますと?」シャリューレは答えを待つが、ヴェガネラもまた沈黙とともに待っている。「私はただ殿下の如き偉大な主に仕えられることに感謝しております。私がライゼンへやって来る前のことも後のことも貴女様の全ての偉業を学ばせていただきました。殿下の勝利を寿ぐ門が建立され、殿下のもたらした繁栄を祝す碑が築かれ、歌人はこぞって殿下に詩歌を捧げています」
「偉業か。偉業といえば君がしてきたこともまた偉業だ。常人には達しえぬと謳われる行いを百、千と成している」
その言葉は幼い頃から褒められ慣れたシャリューレさえも震わせる。
「恐悦至極に、恐悦至極に存じます。殿下、私の身にはただ貴女様の微笑みだけで十分でございます。言の葉はこの身に余り、溢れて無駄になってしまいます」
ヴェガネラは頭を垂れるシャリューレの旋毛を見つめて言う。「たった一度、命を救っただけだ。大袈裟に過ぎる」
「それまで一度とてこの身を他者に救われたことはございません。殿下の他にはございません」
「優秀なればこそ、か。難儀なことだ。とはいえ、でなければ次の務めは果たせまい」
「なんなりと」
ヴェガネラは一呼吸置いて、大王の宮に響く妙なる楽の音の如き言葉を紡ぐ。
「この大陸に蔓延る数多の人攫い、その黒幕が救済機構だと判明した。そして、物心つく前にさらわれた我が娘、調べもまた。おそらく君と同じように護女として育てられているのだろう。我が娘、そして罪なき乙女らを、かの邪悪なる寺院から救い出してくれ」
シャリューレは再び首を垂れ、命令を拝領する。
「我が主の仰せのままに」
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