「おっと、いけない」
根岸は2階建ての古い家の玄関をくぐった。
「ただいまー」
家の奥に向かって根岸が言う。家の中で誰かが言い争っている声が聞こえる。根岸の帰宅の挨拶に対して返事はない。
根岸はそのまま洗面所に行くと、灯りをつけた。新形風邪ウィルスが流行った時からの習慣で、時間を掛けて念入りに手を洗いった後、仕上げにうがい薬を使ってしっかりとうがいする。
フリーダは根岸の次の動きを読んで胸ポケットから素早く這い出し、Yシャツの肩部分にしがみついた。
根岸が前かがみになってうがい薬を吐き出す。
上半身を起こす時、ほんの一瞬だけ、鏡の中の自分と目が合った。目の下に隈を作り、精気の無い目をした少年が、肩の上に小さなトカゲを乗せて鏡の中から見つめ返していた。
根岸の上半身が真っ直ぐになると、フリーダは再びポケットの中に滑り込んだ。
「ただいまー」
台所の引き戸を開けて、もう一度呼び掛ける。
台所の中には2人の家族がいた。
ボサボサの髪型とうっすら生えた無精ひげ。不健康な生活のせいで肥満気味になった体を灰色の上下のスウェットシャツに押し込んでいる若者−−根岸の兄。
地味な服装を着た、心底憔悴した様子の中年女性−−根岸の母、だった。
根岸の顔を見るなり、兄・優一が弟に怒鳴りかかる。
「ヒロ、お前か?お前が俺のラーメンを食べたのか?」
「え?何?どういうこと?」
突然の詰問で思考停止した根岸は、助けを求めて母親に視線を送った 。
「あのね。ユウちゃんがお夜食用に買っておいたカップ麺が、食べようとしたらなくなっていたんですって」
「知らないよ。僕、今帰ってきたばかりだし」
「今日食ったとは限らないじゃないか。買ってきたのは1週間前だしな」
「まあまあユウちゃん。私がまた、明日の買い物の時に買ってくるから。ね?」
「違う、違う」
母親が取りなそうとするが、ユウイチは苛々と足を踏み鳴らした。
「食べたい時に食べられるように買っておくのが買い置きだろ?俺は、今、食べたいの!」
あー。
根岸と母は視線を交わし、声にならない声をあげる。
また、始まったよ。
最初に折れるのは、いつも根岸だ。
「じゃ、分かったよ。僕、コンビニに行ってくる。兄貴、何て名前のラーメン?」
「蒙古タンタン麺・特濃BIG」
兄がボソッと答える。
「悪いわね、ヒロ君。これで買ってきてくれる?」
母親が差し出した千円札を受け取ると、根岸は家を出た。
ついさっきまで立ち話をしていた、公園前のコンビニに向かう。家から一番近いコンビニはあそこだ。
「あーあ。今日1日で3回も同じ店を出入りしてる。そろそろ不審者って思われるかも……」
根岸の呟きに、フリーダがポケットの中から返す。
「世界はそれを、お得意様と呼ぶんだぜ」
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バカ兄貴登場の巻