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「できるだけ生活は変えず、周囲の人にも当選の事実は伝えないことをおすすめします」
目を開けると、私はヒカリ銀行の応接室にいた。
明らかに宝くじに当選した28歳時点に戻っている。
(やった、戻れた! お金があればなんとかなるわ!)
「も、もちろんです。絶対に、誰にも言いません」
私は、そう言い残してヒカリ銀行を小走りで出た。
私は急いで自分のカバンの中を確認する。
中には前回の海外出張で使ったパスポートが入ったままになっていた。
(よし、運が向いてきた!)
私は、急いで近くの大手文房具屋に入りレターセットを購入した。
隣接しているカフェで会社に退職届を書く。
このような退職方法は非常識だとわかっているが、命には変えられない。
私はこれから7億を持って海外逃亡する予定だ。
そして、同時に博貴への離婚したい旨を伝える手紙を書いた。
とにかく彼が私と離婚したくなるように、どれだけ私が彼のプライドの高さと自分勝手さにウンザリしているかを書いた。
「生きるのに疲れたから、探さないで欲しい」と最後に付け加える。
本当は死ぬのに疲れたから、この人生こそは全うしたいと思っていた。
(ここまで書けば、彼は私と一緒にいたいとはもう思わないでしょ)
「よし、次は区役所だ!」
刑務所から出た後、就職が決まらず未来が見えなくて無気力になった時とは違う。
今、私は自分の将来に無限の可能性さえ見出している!
(今の私には前科もない! お金がある! いける!)
区役所で離婚届を受け取り、その場で自分の記入する部分を書いて署名をした。
それを先程、博貴宛に書いた手紙と共に封筒に入れて封をする。
ポストに博貴宛の離婚届と三ツ川商事宛の退職届を投函した。
「タクシー!」
走っているタクシーを手をあげて止めて急いで乗り込んだ。
「成田空港へ急いでください!」
私の言葉を聞いて運転手が頷き、タクシーが走り出す。
私は急いで航空会社のサイトを開き航空券を予約した。
(シンガポールが時間的にもちょうど良いかな)
「お客様、何かお忘れ物とはありませんか?」
運転手が聞いてくるのも無理はない。
私は国際線のターミナルに行くと言うのに、小さなハンドバックしか持っていない。
「見送りなので」
私は短くそうこたえた。
これは決して嘘ではない。
過去の迷い苦しんでた自分を見送って私は海外に逃げる。
私は親に「この度離婚することになりました。自分探しの旅に出るので、しばし放っておいてください」とだけメールをしスマホの電源を切った。
♢♢♢
私はシンガポールに来て3日目の夜を過ごしている。
最初はお金もあるし、優雅に過ごそうと思ってこの生活を楽しみにしていた。
しかし、働き蟻マインドを持っている私は優雅な時間の使い方を知らなかった。
時間が過ぎるのが非常にゆっくりに感じて、暇なことに苦痛を感じ始めていた。
お金があるから、手ぶらで海外に来てもなんとかなった。
しかし、5つ星ホテルの屋上プールにある夜景に感動したのは初日だけだった。
私はただ今日も夜空を眺めながら、街の光でほとんど見えない星の数をぼんやりと数える。
仕事とは、私のような働き蟻に用意された娯楽なのではないかとさえ思えてきていた。
「亜香里ちゃん!」
プールに水死体のように浮かんでいると、急に聞き慣れた声がした。
「飯島さん」
飯島翔太。
博貴の同期で唯一、博貴が事業に失敗した後も友達で居続けた男だ。
「どうしてここに? 私の水着姿でも見に来ましたか?」
私の言葉に頬を赤くして口元を手で押さえる飯島さんは私のことが好きだ。
私は彼の気持ちに初めて会った時から薄々気がついていた。
飯島翔太はとても純粋で、真面目でお人好しな男だ。
すぐに顔に感情が出るし、困っている人がいると放って置けない。
私と彼が出会ったのは博貴との結婚準備中だった。
博貴は結婚式の準備を、私に丸投げした。
そんな中、私に寄り添って手伝ってくれたのが飯島翔太だった。
彼は博貴から結婚式当日の受付をお願いされていただけだった。
しかし、忙しい中全ての準備を私が任されていることがわかると未来の夫のように手伝ってくれた。
「そんなんじゃないよ。俺はただ出張で偶然シンガポールに来ただけだよ。博貴が探してたよ。生きるのに疲れただなんてメッセージを残すなんて心配するよ」
私は慌てたように言い訳をする飯島さんの姿を見てほくそ笑んだ。
「私を探していたのは飯島さんじゃないんですか? シンガポール出張なんて、飯島さんの事業室じゃないでしょ」
私は笑いながら、プールサイドにいるスーツ姿の飯島さんに近寄る。
博貴が私を探していたとしたら、それは私を心配してではなく金づるがいなくなるのを心配してだ。
目の前にいる飯島さんは違う。
彼は博貴との結婚生活を送る中で苦しんでいる私を、いつも気にかけてくれていた。
「亜香里ちゃんの言うとおりだよ。君がいなくなるかもしれないと思ったら、いてもたってもいられなくて探していたんだ」
私は自分を気遣い続けてくれた飯島さんの言葉に体が熱くなった。
その熱を冷ますようなプールの冷たさが心地よい。
「私のことが好きですか? なら、私と浮気してくれませんか?」
自分でも信じられないことを言って、私はスーツ姿の飯島さんをプールの中に引き入れた。
部屋にびしょ濡れになった飯島さんを連れ込んで、息も絶え絶えにキスをする。
「どうして、そんなに私のことを好きなんですか? 飯島さん、モテるでしょ」
私はキスの合間に彼に尋ねた。
彼は物腰も柔らかいし、仕事もできるしモテる男のはずだ。
何も元同期と結婚した女である私を思い続ける理由はない。
「初めて会った時、博貴に振り回されても要求に応えようと頑張ってる君を見て、守ってあげたいって思ったんだ」
熱に浮かされたように飯島さんが私にキスを返してくる。
(今、私は法的には博貴の妻という立場だ!)
このまま彼と関係を結んでしまったら、不倫したということになってしまう。
(そんなのやっぱり絶対ダメ! 不倫をするようなクズだけにはなりたくない)
私は気がつくと飯島さんを押し返していた。
「本当に亜香里ちゃんは真面目すぎて損をするタイプだよね。俺のことを利用すれば良いのに⋯⋯」
寂しそうに言ってきた飯島さんの言葉に、胸が締め付けられた。
私は彼を利用して、博貴と離婚しようとしたのだ。
博貴が金づるである私とすぐに離婚してくれるとは思えない。
しかし、自分の元同期と不倫したという話が出たら別だろう。
私の有責で離婚して、慰謝料を払い財産分与をしても殺されるよりはマシだ。
私は飯島さんと色っぽい時間を過ごしている間も、瞬時にそんな計算をしていた。
そんな強かな女だということを彼には見抜かれていたようだ。
「飯島さん。あなたに惹かれているのは本当の気持ちなんです。多分、もうずっと前から。でも、私は今既婚者です。私が何のしがらみもなくあなたを愛せる時がくるまで待っていてはくれませんか?」
私の言葉に飯島さんは「もちろん」と言って微笑んだ。
彼のその優しい笑顔が愛おしかった。
飯島さんが部屋から立ち去ると、私はベッドサイドのテーブルの上にワインやフルーツが置いてあることに気がついた。
添えてあるメッセージカードを見ると私宛ではない知らない名前がある。
私はフロントに間違ったプレゼントが自分の部屋に置いてあることについて連絡した。
「申し訳ございません。お部屋係が間違えたようで、フルーツとワインはそのまま処理して頂いてもお召し上がり頂いても結構です」
私はなんだか得した気分になった。
博貴に浮気され、幸せを手に入れられると期待した繰り返した人生は地獄だった。
でも、今日、私を思い続けたという飯島さんが私を追いかけてくれた。
「その上、高級ワインも無料で飲めるなんて最高ね」
私は7億円を手にしても、染みついた経済感覚はなかなか変わらなかった。
(やっぱり、無料は嬉しいよね。得した気分になる)
ホテルに備え付けのグラスにラッキーで手に入れたワインを注ぐ。
「新しい、私の未来に乾杯! 今度こそ離婚するぞ!」
そう思って一気にワインを喉に注ぎ込んだ途端、急激な息苦しさに襲われ私の意識は途切れた。