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和風BAR『KO-RO』に、いつものメンバーが集まっていた。それはもちろん、京子さんの話を聞くためである。
「単に『記憶』を操るって言うけどねえ、今まで二度しか使わなかったものがあるんだよ」
京子さんは煙管を吸いながら、今日も過去を語り出す。
蝶香と京子が共に過ごしてきて、かなりの時が経った。町では風邪に似た病が流行っていた。
「京ちゃん、ごめんね」
「体調、大丈夫?」
数日前から、蝶香の体調が優れない。京子は、かんざしの『記憶』を思い出してから、店の常連の中に、『記憶』の破片に見えた人物がいることに気がついていた。
「今日は、お店は休みかな?」
CLOSEと書かれた看板を掲げていたはずの店の扉を、誰かが開けた。京子はすぐに感づいた。
「やっぱり、あの刑事さんだ」
「京子ちゃん? なんか雰囲気が昔みたいだね。蝶香さんは、えっと、風邪かい?」
毎日店の手伝いをしている京子だが、いつも裏にいるため、表に姿を見せない。主な仕事は洗い物だ。だから、京子は刑事の姿をよく見ているが、刑事の方は京子の姿をしばらく見ていなかった。
「体調不良。刑事さん、今日はお店、お休みだよ」
「そっか……。僕にも、何か手伝えることはあるかな?」
「ない。蝶香さん、もう寝た」
刑事に、『記憶』がないことを説明している暇はない。とりあえず帰ってもらうように催促する。
「そう、だよね。ごめんごめん。今日はもう帰るよ。これ、僕の連絡先なんだけど、もし何かあったら電話してくれる?」
「分かった」
「ありがとう。蝶香さんをよろしくね」
何かあっても、京子は刑事を信用していないため、電話する気はなかった。しかし、刑事が帰った後、蝶香を医者に診てもらうと、流行り病にかかっていることが分かった。死者も出ている、恐ろしい病だ。
「蝶香さん、おかゆ、作ったよ」
「ああ、ありがとう……」
薬は解熱剤のみ。それ以外の治療法が見つかっていなかった。蝶香の声は次第に枯れ始め、あまり話せなくなった。
「京子、まだ『記憶』が……」
「そうだねえ。京ちゃん、香炉は分かるかい?」
「こうろ?」
蝶香は瘦せ細った手で、店の棚に飾ってある、壺のようなものを指さした。
「あれのことだよ。うちはねえ、代々『香道』と呼ばれるものをやってきたんだ」
「ごめんなさい、覚えてなくて」
「いいんだよ。でも、これだけは伝えておかなくちゃね。『忘れて』いても、京ちゃんはずっと、香道と真剣に向き合っていたよ」
京子は大切な『記憶』を思い出せず、もどかしかった。しかし、蝶香の言葉を聞いて、何かを思い出しそうな感覚になった。
「香道って、何するの?」
「香木っていうのを焚いてね、その香りを楽しむものなのさ。あの辺の棚に『聞香』用と『空薫』用の香炉があるから、持っていってもいいよ」
「もんこう? そらだき?」
難しい言葉が次から次へと出てくるが、京子はなぜかすんなりと受け入れることが出来た。
「空薫は店に飾っているもので、聞香はそれより小さい、主に香炉を手で直接持って鑑賞するために使うものだよ。作法については物置に本がしまってあるから、それを読むといい」
「京子は、ずっとそれをやってきたの?」
「そうだよ。京ちゃん、香炉だけは、途絶えさせてはいけない……守り続けてほしい」
蝶香は京子の手を握り、やがて眠りについた。
「香炉……大事なもの……」
京子は言われた通り、物置から香道の本を取り出し、棚から聞香用と空薫用の香炉を持って二階に上がった。聞香からやってみることに。
「えっと、香炉に香炉灰を入れて、炭団に火をつけて温める……」
本には分かりやすく図も載っていた。火傷をしないようにゆっくりとマッチで火をつける。
「次は、銀葉を使って、香炉の灰の上に香木を載せて……」
京子は銀葉挟みを使い、丁寧に載せていく。香木は沢山種類があったが、とりあえず適当に選んだ。
「最後に、香炉を左手で持って、右手を筒状にして香炉を覆って、香りを鼻に近づけて聞く……」
それは、蝶香と同じ匂いがした。
「うん。いい匂い」
次は空薫をやってみる。
「やり方は……うーん、こんな感じかなあ」
本の図を見ながら、説明に沿って香炉を焚く。部屋にある机に置くと、部屋中に香りが充満した。店でいつも使っている匂いのようだ。
「うん。やっぱりいい匂い」
京子はその香りに包まれながら、深い眠りについた。そして、『記憶』の夢を見る。
畳に正座している蝶香がいる。その隣に京子も正座する。
「ほら、こうやって香りを楽しむんだよ。やってごらん」
「こう?」
「上手上手」
初めて香道に触れたときの『記憶』だ。その日から京子は、毎日聞香をしていたことを思い出す。蝶香と京子、そしてもう一人、男性がそばにいてくれたことも。
「僕もお邪魔して良かったのかな」
「いいんですよ、刑事さん。楽しむ人は多い方がいいですから」
「そうだ、名前を言っていなかったね。僕は矢賀正義、この町に配属されてから二年目の、新人刑事だよ」
あの事件以来、正義はよく店に来るようになった。
「矢賀さん、京子と一緒にやる?」
「いいのかい? じゃあ、お言葉に甘えようかな」
「京ちゃんは香道が気に入ったみたいだねえ。あたしは嬉しいよ」
店が開く前から来る正義と、香道を教える蝶香は、次第に親密な仲になっていった。もやがかかり、次の『記憶』が見えてくる。
「蝶香さん、良かったら僕と、結婚を前提にお付き合いしてください!」
「あ、あたしで良ければ、喜んで……」
蝶香が二十二のとき、二歳年上の正義が蝶香にプロポーズをした。その光景を京子は笑顔で見ていた。しかし、共に忙しい二人は、籍を入れることなく、十年の時が経過した。その間で、京子は十分に正義に懐いていた。再びもやがかかり、次の『記憶』が見えてくる。
「京ちゃん、ずっと自分のこと、『京子』って呼ぶのかい?」
「うーん、じゃあ、今日から『あたい』って呼ぶ! 蝶香さんと同じ!」
「違うよ。あたいじゃなくてあたし」
京子が自分のことを『あたい』と呼び始めたのは、蝶香の一人称を真似てのことだった。
「あたい!」
「まあ、それでいっか。じゃあ、今日からあたしのことは『姐さん』と呼びな」
「どうして?」
蝶香は優しく京子の頭を撫でる。
「あたしが、香道でも店でも、京子にとっての『姉』だからさ」
「じゃあ、僕は京子ちゃんにとっての『兄』だから、『兄さん』って呼んでほしいな」
隣にいた正義もこの話にのってきた。
「分かった! 蝶姐! 正兄!」
「本当に、可愛い子だねえ」
京子は愛されていた。蝶香は『姉』として、京子をしっかりと育て上げ、正義は京子の『兄』として、それを支えていたのだ。
「どうして、『忘れて』いたんだろう」
京子が目を覚ますと、窓から朝日が差し込んでいた。これが京子の、香炉に関する『記憶』の破片。そして、これが十四年の全てだった。
「あたいは全てを思い出した。でも、その時にはもう、蝶姐は病が進行して、瀕死状態だったんだ」
京子さんは少しずつ話しづらそうにしていたが、それでも、言葉を絞り出していた。
「正義っていう人は、蝶香さんの最期を看取ったのか?」
「あたいと一緒に、蝶姐の横に居てくれたよ。ただ……」
俺の質問に答えてくれた京子さんだったが、何か、バツの悪そうな顔をしている。
「姐さん、もしかして力を使ったのか? おいらと初めて出会ったとき、姐さんはすごく寂しそうな顔をしてた。それって、単に周りの人がいなくなったんじゃないから?」
「かずのくせに、今回はよく頭が回るじゃないか。最初に言っただろう、今まで二度しか使わなかったものがあると」
京子さんは話の結末を語り始めた。
夢から覚めた後、京子はすぐに行動を起こした。
「蝶姐、あたい、全部思い出したんだよ」
「ああ、あたしの京ちゃん……」
「今から正兄呼ぶから!」
京子は正義に電話をする。ワンコールで繋がった。
「京子ちゃん? どうしたんだい?」
「正兄! 今すぐ店に来て!」
「この前はおじさん、なんて言われてちょっと傷ついたけど、いつもの京子ちゃんに戻ったみたいだね。すぐに向かうから、安心して待ってて」
電話が切れた数十分後、店の扉が開いた。
「蝶姐、正兄が来てくれたよ」
「やっぱり、ただの風邪じゃなかったんだね」
「ごめんなさい。あたい、この前まで『記憶』がなくなってて……」
京子は正義に『記憶』を忘れていたこと、それを全て思い出したことを説明した。
「そうだったのか。いいんだ、僕も忙しくてなかなか来れなかったから」
「医者も、もうダメだって……」
「そうか……。蝶香さん、僕だよ。君を、迎えに来たんだ」
正義と蝶香には、前々から準備していたことがあった。それを京子は、薄々気づいていた。
「正義、さん……ごめんなさい……」
「君が謝る必要はないよ。僕と、結婚しよう」
「あたしとの、関係は、『忘れて』……」
その言葉を聞いた正義は、大きく首を横に振り、蝶香の手を握る。
「婚姻届けだって一緒に書いたじゃないか。指輪も……プレゼントするから……!」
「もう、いいの……お互い、辛く、なるから……あたしも、『忘れる』から……」
「蝶姐……」
正義は目に涙を浮かべ、スーツの袖で一生懸命に拭く。蝶香も、涙で枕を濡らしている。京子は見ていられなかった。
「僕、ちょっと外に出てくるよ。すぐに戻る」
「正兄……」
「愛して、いなければ、こんなに、辛く、ならなかった、のに……」
蝶香の言葉に、京子は覚悟を決める。
「蝶姐。正兄、いや、矢賀さんはただの刑事さんだよね?」
「それが、いい……そう、だった……」
そっと頷く蝶香。それを見た京子は、ゆっくり蝶香の頭を撫でた。
「そう。それが真実だよ」
京子は蝶香の『記憶』を操作した。蝶香と正義は、遺族と刑事という関係でしかない。そう『書き換えた』のだ。
店の前でうずくまっている正義に、京子は頭を撫でながら声を掛ける。
「京子ちゃん……?」
「正兄、あたいたちは遺族と刑事、たったそれだけだよね?」
「……うん、そうだね」
こうして正義の『記憶』も、蝶香と同じように『書き換わった』。