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日本での最後の仕事を終えたジェシカは、その日をもってメイクアップアーティストとしての道を静かに閉じた。
その後――彼女はニューヨークの中心、マンハッタンにある4階建ての古びたビルを購入し、趣味として小さなアトリエ兼雑貨屋を開いた。
店内には、彼女が描いた絵画や選び抜かれた食器、古道具や愛用のメイク道具が並べられている。
どこか懐かしく、温もりをたたえた空間――まるで時間がそっと呼吸しているような、そんな場所だった。
その一角を間借りするようにして、ケンは病院に通う子どもたちや、外見に悩みを抱えた子どもたちのために、医療メイクとリハビリメイクを無償で施し始めた。
ジェシカの協力を得て、ニューヨーク市内のいくつかの病院と提携することができ、ケンの元には、日々たくさんの子どもたちが“変わるきっかけ”を求めて訪れるようになった。
――それは、ケンがかつて心に描いた叶えたかった夢が、現実として息づき始めた証でもあった。
そして今日――
“エマ”という12歳の少女が、母親に付き添われて店を訪れた。
ケンが静かに椅子を差し出すと、エマは言葉ひとつ発さぬまま腰を下ろす。
その表情には、感情の影さえ見えなかった。
「エマ……少し話せるかな? 君は本当の自分って、どんな自分だと思う?」
そう問いかけながら、ケンはそっと彼女の頭を撫で、左手に持っていた杖を傍らに置くと、自らも椅子に腰を下ろした。
長い沈黙――。
だが、ケンは急かさなかった。
静けさを壊さぬように、ただ彼女の言葉を待ち続けた。
やがて、時間がゆっくりと流れたのち、エマの唇がかすかに動き始める――。
「……こんな火傷の跡なんてない自分だよ。クラスのみんなには、こんな火傷の跡なんてないのに。こんな火傷だらけの自分の顔なんて、大嫌い」
その言葉は、ケンの存在すら拒むように鋭く放たれた。
少し戸惑いながらも寄り添おうとするケンの姿を、ユウは遠くからカメラのファインダー越しに見守り、ジェシカはその場の空気ごと抱きしめるような表情で微笑んでいた。
「そうだね。自分を好きになるって、本当に難しいことだよね。お兄さんもね、昔は自分のことが大嫌いだった。ずっと自分を、心の奥から憎んでいたんだ」
ケンがそう言って視線を落とすと、少女は、ほんの少しだけ顔を上げて問いかけた。
「どうして?」
「醜くて、歪んだ心を持っていたから……たぶん、それが表情にも滲み出てたんだと思う」
さっきまで拒絶していたのが嘘のように、エマはケンの声にじっと耳を傾けていた。
「でもね、そんな俺を変えてくれた人がいたんだ。その人は、俺の心の奥をまるごと見つめてくれて……傷ごと、痛みごと、そのまま抱きしめてくれた。心の汚れを、そっと洗い流すように綺麗にしてくれたんだ。まるで、心そのものにメイクをしてくれたような、不思議な感覚だった」
「心にメイク?」
「うん」
ケンは優しく頷いた。
「エマは、メイクってしたことあるかな?」
彼女は真っすぐにケンの目を見つめながら、静かに首を横に振った。
その動きには、ほんのわずかな興味と、ほどけかけた心の糸が見えた。
「そっか。じゃあ、エマのママはどんな時にメイクをしてる?」
「お出かけのとき」
「そうだよね。じゃあ、なんで出かけるときにメイクをすると思う?」
「……わかんない」
ケンはふっと視線を伏せ、机の影に消えた自分の手を見つめるように、少し寂しそうに微笑んだ。
「今の多くの女性たちはね、他人と向き合うために、いつしか無意識のうちに、顔にメイクという仮面を纏うようになってしまった。本来は心を映すものであるはずのメイクが、気づけば外の世界から自分を守る鎧へと変わってしまったんだ」
気づけば、エマの瞳はまっすぐケンを見つめていた。
その表情には、戸惑いと関心が入り混じった、幼くも真剣な光が宿っていた。
「でもね、本来のメイクは、そんなものじゃない。自分の心と静かに向き合って、その心に彩りを重ね、その想いを纏うためにするものなんだ。“Makeup that colors the heart(心を彩るメイク)”――。俺はそれを“Heart Makeup(ハート・メイクアップ)”って呼んでる」
「ハート・メイクアップ……」
そう繰り返したエマの声は、小さな息のように震えていた。
ケンは頷き、ゆっくりと左の口角をかすかに上げる。
右半分はもう笑えない。
それでも――彼の“心”は、確かに笑っていた。
「じゃあ反対に誰にも会わない日は、ママはメイクをしてる?」
「ううん、してない」
「それはね、きっと女性にとって、とても大切な時間なんだよ。すっぴんのままの本音と、心とがまっすぐ向き合っている静かな時間……。エマも、そんなふうにずっと、心の中の“すっぴんの自分”と向き合ってきたんだね。ひとりきりで、ちゃんと頑張ってきたんだね」
ケンが優しく彼女の頭に手を添えると、その瞳から一筋の涙がそっと頬を伝った。
「そんなふうに、心の中でずっと頑張ってきた自分を、少しだけでも受け入れてあげよう。心に、そっと彩りを纏わせる“ハート・メイクアップ”でさ。そして、新しく生まれ変わった自分に会ってみない?」
ケンのその言葉に、エマは静かに首を縦に振りこう言った。
「そんな自分に会えるなら……会ってみたい」
その瞳からは、抑えきれなくなった涙がそっと溢れ出した。
「それじゃあ本当のエマに会ってみよう。こっちにおいで」
ケンは左手で杖をつきながらゆっくりと立ち上がると、店の奥にある三面鏡のドレッサーへと彼女を導いた。
鏡を閉じてから彼女の正面に座り、自身の杖を静かに脇に置いた。
「じゃあ、始めるね。……目を閉じて」
エマがそっとまぶたを閉じたのを見届けると、ケンは左手だけで丁寧に、時間をかけてメイクを施していった。
その指先には、痛みも、想いも、すべてが宿っている。
その横で、ジェシカが髪を整え、仕上げのヘアセットを完成させる。
やがて、すべての準備が整い、ケンは三面鏡の扉を静かに開いた。
「目を開けてごらん」
その優しい声に促されて、エマはゆっくりと目を開けた。
次の瞬間、鏡に映った“もうひとりの自分”を見つめ、彼女の顔には自然と笑みが広がった。
それは――まるで“笑顔”という名の光を一瞬で纏ったかのようだった。
その“笑顔”を見た瞬間――
ケンの全身を蝕んでいた痛みが、ゆっくりと和らいでいくのを感じた。
火傷の痕さえも霞み、鏡の中には“笑顔”だけが、柔らかな光のように浮かんでいた。
「エマ……その笑顔の君こそが、“本当のエマ”だ」
鏡越しにそっと告げると、彼女は嬉しそうに振り返り、その頬に滲んだ涙の粒が、まるで光を孕んだ宝石のように煌めいた。
「ありがとう……ありがとう……」
「“笑顔”は、誰もが纏うことのできるメイクなんだ。そして――“笑顔”より美しくなれるメイクなんて、この世には存在しないよ」
しばらくエマの笑顔をじっと見つめていたケンは、ふと声を落とし、祈るように囁いた。
「エマ、その“笑顔”の自分を――どうか、絶対に忘れないで」
「うん!」
屈託のない“最高の笑顔”をもう一度見せてくれた彼女を目に映した、その瞬間――
ケンの意識がふっとかすんだ。
ふらついた身体が傾いた刹那、ユウが素早くその背に手を添える。
少女を心配させぬよう、自然な仕草でケンを椅子へと座らせ、穏やかな声で続けた。
「このお兄さんね、昨日ちょっと階段で足をくじいちゃったんだ。それで慣れない杖をついてたから、今少しバランスを崩しちゃったみたい。びっくりさせちゃったね、でも大丈夫だから心配しないで」
そのまま、変わらぬ穏やかな口調で言葉をつないでいく。
「エマちゃん、その“最高の笑顔”をカメラで撮りたいんだけど、いいかな?」
「うん! 撮ってほしい!」
無邪気に笑ったエマの声に、ユウはやわらかく微笑みカメラを構える。
「Okay, ready? Three, two, one, Smile!」
シャッター音と同時に、笑顔が一輪、光の中に咲いた。
その様子を椅子に腰かけながら見守っていたケンは、静かに目を細め、心の内でそっと微笑んだ。
――“子供たちの笑顔”。
それは今のケンにとって、唯一、痛みを和らげる薬だった。
その日の夜――。
しばしの休息で少しだけ体調を取り戻したケンは、ゆっくりと階下へ降りる。
1階のアトリエに灯りを点け、机に腰を下ろすと、手元のスポットライトをそっと灯す。
あのときのエマの笑顔を思い返しながら、ひとつひとつのメイク道具に、丁寧に心を込めて手入れを施していく。
それはまるで、笑顔の記憶を磨き上げているかのようだった。
その後も、ケンはひとり静かに店に佇んでいた。
ふと、スポットライトに浮かび上がった自分の影に目をやる。
ぼんやりと揺れる影の中に、微動だにしない右手の輪郭があった。
生きているなら、動くはずの手。
命が灯っているのなら、きっと応えてくれるはず――
ケンは静かに息を詰め、右手に力を込める。
けれど、どんなに力を込めても、わずかにさえも反応しない。
それはまるで、すでに別の存在になってしまったかのように、意志も感覚も――すべてを失ってしまった“影”。
彼は、険しいまなざしで自分の右手をじっと見つめた。
その眼差しには、恐れと怒り、そして……言葉にできない深い孤独が滲んでいた。
「くそっ……くそっ……どうして……どうして動かねえんだ……どうしてなんだ……」
嗚咽混じりの声が、静まり返った店内に響いた。
近くに置かれていたペーパーナイフを手に取り、その刃を右手の甲へ強く押し当てる。
繰り返し、無言で――いや、叫ぶように――突き刺し、切り裂いた。
赤黒い血がじわりと滲み出し、次第に勢いを増して床へと滴り落ちてゆく。
傷口から零れた命の色が、冷たい床を無惨に染めていった。
「なんで……なんで痛くねぇんだ……どうして、何も感じねえんだよ……。こんなに血が流れてるのに……俺の右手は……どこにいっちまったんだよ……」
その場に崩れ落ち、膝を抱えるようにして嗚咽を漏らす。
震える肩。止まらぬ涙。
それは、ただ肉体の異変への恐怖ではなかった。
その瞳の奥には、涙の滲む向こうに浮かび上がる“君の幻影”があった。
あるはずのない影を――
もう届かない温もりを――
まだ、必死に探していた。
「何してるの!」
物音に気づいたジェシカが階段を駆け下り、血の気を失った顔でケンに駆け寄る。
彼の右手から滴り落ちる血を見て、咄嗟にタオルでその傷を押さえ込んだ。
「どうして…こんなことを……」
ジェシカの声は震えていた。
ケンはゆっくりと、震える左手を動かす。
その指先が、感覚を失った右手にそっと触れる――まるで、そこにある“何か”を確かめるように。
「なあ……教えてくれ……ジェシカ……これは……いったい……誰の手なんだ……?」
言葉は不明瞭で、かすれていた。
片側しか動かない口から絞り出されるその声は、まるで助けを求める子どものように脆かった。
力を込めても微動だにせず、何をしても温度さえ感じない右手。
まるで、自分の一部ではなくなってしまったような――そんな絶望。
ジェシカは彼の手を包み込むように押さえたまま、静かに言葉を紡ぐ。
「ケン……ハートを持っていても、それを感じなければ意味がないの。そして、感じた痛みに蓋をしてしまえば……それはもう、心が死んでいるのと同じことよ」
彼女の声は落ち着いていたが、その瞳には涙が溜まっていた。
「身体が動いていても、心が死んでいたら、人は生きているとは言えない。でもね――あなたは苦しんでる。泣いてる。傷ついてる。それは、ちゃんと心が生きてる証なの。たとえ右手が何も感じなくても、あなたのハートは、今こうして痛みを感じてる」
激しく痙攣するケンを、ジェシカはさらに力強く抱きしめた。
壊れそうな彼の全身を、胸の奥で包み込むように――。
「その痛みが分かるから、あなたは子どもたちにメイクをしているんでしょう? 誰かの涙に気づける、そんな温かな心が、あなたの中にはちゃんとある。あなたは、ちゃんと生きてるわ、ケン。今を……生きてるのよ」
静かに流れ落ちる涙が、ケンの頬を伝った。
その頬の震えも、涙の熱も、きっと彼の中でまだ“生きている”証だった。
「今日、エマが見せてくれた“笑顔”を思い出して……。あなたに降りかかる悲しみも、押し寄せてくる苦しみも、メイクという“喜び”で塗り替えていきましょう。溢れ出す涙は、あなたが生み出す“最高の笑顔”で拭っていきましょう」
ジェシカの声は震え、抱き締める腕には静かに力がこもる。
「きっと、疲れ果てた心と身体で……すべてを受け止めているあなたに、私の涙なんて、何の慰めにもならないわよね……。ごめんなさい、ケン……」
痙攣がようやく収まっても、ジェシカは彼を放さなかった。
まるで、その細くなった命の火を、自分の体温で守るかのように――。
「怖かったわよね……辛かったわよね……苦しかったわよね……。何もしてあげられなくて、本当にごめんなさい……ケン……」
彼女の涙が、感覚を失ったケンの右手にポタリ、ポタリと零れ落ちる。
そのしずくは、まるで彼の代わりに泣いてくれているかのようだった。
「今、あなたは……目を閉じて、何を想っているの? 心に、何を感じているの……?」
――なぜ、人は“死”を恐れるのだろう。
それはきっと、痛みや苦しみがあるからではない。
残していくものが、あまりにも多すぎるから……。
普通に生きることが、これほどまでに難しいものなのだと、今、ようやく知った。
あまりにも長い間、当たり前のように生きていた。
仕事ができること。
右手が動くこと。
君が隣にいてくれること。
誰かに愛されているということ。
この命が、今日も確かにここにあるということ――。
それらすべては、まるで“奇跡”のような尊いものだったのに、自分はいつしか、それらを“当たり前”として生きてしまっていた。
その“当たり前”が、ある日突然、当たり前でなくなるだなんて――誰が想像できただろう。
けれど、きっと人はそうなって初めて気づくのだ。
“当たり前”の中にこそ、本当の幸せが宿っていたのだということに。
ただ普通に生きているだけで、何気なく刻まれていく「時」という名の数字――
その無機質な針は、ケンの命を少しずつだが確実に削り取っていった。
ジェシカの腕の中で、ケンは静かに意識を手放し、眠りへと落ちていく。
やがてジェシカはそっとケータイを取り出し、ユウに連絡を入れた。
以前、弟子たちが寮代わりに使っていたアパート。ユウは今、そこを拠点に暮らしている。
深夜の連絡にも関わらず、ユウはすぐに駆けつけてくれた。
事情を話すと、黙って頷きながらケンを2階の部屋まで運び、ベッドに寝かせてくれた。
そしてジェシカは、ユウに今夜の出来事をすべて語った。
ユウは、話を聞きながら言葉を失い、ただ涙をにじませ、無言のまま椅子に腰を下ろした。
茫然自失――その姿には、重くのしかかる無力さと悔しさが滲んでいた。
ジェシカはゆっくりとケンの部屋のドアを開けて中に入り、眠るケンの隣に腰を下ろすと、涙の痕が残るその頬に手を添える。
そして、語りかけるように、あるいは自分に言い聞かせるように、ぽつりと声を落とした。
「あなたがニューヨークに来て、私の弟子として初めてブラシを握れるようになった頃、こんなことを聞いたわよね――」
* * * * * *
「あなたは、どんなメイクアップアーティストを目指しているの?」
そう問いかけた私に、あなたは静かに、けれど確かな眼差しでこう答えた。
「俺の心の中にある“最高の笑顔”と、もう一度ちゃんと向き合えるようなメイクアップアーティストになりたい」
その言葉と共に、あなたは自分の過去をすべて打ち明けてくれた。
その時、あなたの瞳に宿っていた光を見て――私は初めて、自らの引退を意識した。
この子は、私の思い描いてきたメイクの本質さえも越えていく。
私のすべてを託すに足る存在。そう確信したの。
そしてあなたは、瞬く間に評価されていった。
大きな仕事を任されるほどに、名声と重圧は比例して膨らみ、より高く険しい壁となってあなたの前に立ちはだかった。
それでも、あなたは立ち止まらなかった。すぐに気づいたのよね――
「ジェシカ、“評価”って、ときに人の目を曇らせて、足を止めてしまうものなんだね。評価なんて、自分が選んだ道の途中にある、ただのオアシスにすぎないのにさ。他人の目ばかり気にして、居心地のいいその場にとどまり続けてしまえば、自分の価値が曖昧になっていく。俺は、そんなことをするためにニューヨークへ来たんじゃない。俺は俺が信じた価値のある道を、まっすぐ進みたい。だからこそ、俺は“メイクアップアーティスト”という生き方を選んだんだ」
その言葉を聞いたとき――あなたは、私にとって“弟子”から“ライバル”へと変わっていた。
その真っすぐなまなざしが、時に羨ましくて……
あなたに、嫉妬すら覚えたの。
「ジェシカ。一流パティシエが作るデザートって、どう思う?」
「やっぱり素晴らしいんじゃないかしら。味もデザインも。メイクアップアーティストと通じる部分があるかもしれないわね」
「万人に評価されるものを作れるのは、たしかにすごいことだよね。けれど、誰か一人……たった一人のためだけに寄り添って、考え抜いて生まれたものって、その人にとって世界にたった一つの、忘れられない存在になるんだろうね。きっとその記憶の中で、小さな光として生き続けてくれるんだと思う。……そんなメイクアップアーティストになろうと思うんだ」
私は、ただ……あなたのその声に、耳も心も奪われていた。
いつの間にか、メイクアップアーティストとして並んで歩いているはずのあなたが、ずっと前を歩いていることに気づかされたの。
そして、あなたは私の盟友――スチュアートと出会い、特殊メイクの世界に心を奪われていった。
仕事が終わると、夜な夜な彼に会いに行き、無我夢中で特殊メイクを学んでいたわね。
今だから打ち明けるけれど、実は私もあの頃から特殊メイクを学び直していたのよ。
あなたと、同じ景色が見たくて――同じ世界に触れていたくて。
そして、着実に特殊メイクの技術を身につけていったあなたは、やがて医療の勉強を始め、未知の領域へと静かに、しかし確かに足を踏み入れていった。
「メイクに医療を取り入れる。メイクの概念を変えてみようと思うんだ」
そう言い切ったあなたの眼差しは、誰よりも遠くを見つめていた。
それを“医療メイク”と呼び、あなたの探究心に導かれるままに、前例のない道が拓かれていく。
その背中を見つめながら、私の中に湧き上がったのは、ただ――“敬意”だった。
どれほどの決意をもって、どれほどの孤独と闘ってきたのだろう。
ずいぶんと遠くまで、あなたは行ってしまった。
その時、私はようやく自分の役目を悟ったの。
もう、私は“先を行く者”ではない。
あなたが照らす新しい地平の、その少し手前で静かに幕を引こう――
そうして私は、引退を決意したのよ。
* * * * * *
語り終えたジェシカは、滲むような微笑みを唇に宿した。
それは記憶の余韻に寄り添う、かすかな光にも似た表情だった。
その面差しに浮かんだあたたかな記憶は、次の瞬間、儚くも悲しみに変わり、静かな涙となって頬を伝う。
「ごめんなさいね……ケン……。涙を流すことしかできない私を、どうか許して……。あなたがもっと生きていられたなら――この世界はきっと、今よりもう少しだけ……優しく、美しい姿に変わっていたかもしれないわね……」
その声は囁きにも似た震えを帯びていた。
ジェシカはそっと毛布を整え、ケンの痩せた身体を丁寧に包み込むように覆い直すと、その場に一礼するように立ち上がり、深く息を吐いた。
そして静かに立ち上がり、ゆっくりと扉を閉めた。
【数日後】
容態が幾分か落ち着いたケンは、再びメイクの施術を始めていた。
この日、病院からの紹介でクロエという17歳の少女が訪れることになった。
だが彼女が抱えているものは、他の子どもたちとは少し性質が異なっていた。
しばらくの間、彼女は深く俯いたまま、まるで声帯ごと閉じてしまったかのように沈黙を保っていた。
ケンはその沈黙にそっと寄り添うように、優しく語りかける。
「無理に話さなくていい。……でも、よかったら少しだけ、俺の声を聞いてくれるかな?」
返事はない。
静かな空間に、ケンの声だけがふわりと浮かび、やがて静かに消えていく。
「最近、よく考えるんだ。……“花”って、どうして咲くんだろうって。蕾がほころび、花開くその一瞬……あれには、痛みが伴うんじゃないかって。“花びら”が分かれて咲くのは、もしかすると、痛みを分かち合うためなのかもしれないって……」
少女はうつむいたまま微かに顔を上げた。
その目は、遠くに差す灯を探すように、ケンのほうを見つめていた。
「花自身は、どんな痛みにも耐えて“笑顔”という名の花を咲かせてるのかもしれない。そんなことも知らずに、俺たちはその花を見て綺麗だって微笑んでる。けれど、もし本当にそうだとしたら、俺は花に伝えたい。“君は、ちゃんと生きてるよ”って。だから、傷や痛みを否定しないでほしい。もう、頑張らなくてもいい。だって、君はもう、十分すぎるほど頑張って咲いてるんだから。無理に笑わなくたっていい。いつか本当に心から笑える日がきっとくる。その時に一緒に、“笑顔”という花を咲かせよう。その時の君が、きっと、誰よりも美しいんだから」
その瞬間、クロエは静かに袖をまくり、自らの左腕をケンに差し出した。
その肌に刻まれていたのは――無数の傷跡。
そして、これまで固く閉ざしていた唇が、初めて震えるように開かれた。
「心を保つために……。明日を少しでも笑える日にするために……。たった一瞬の痛みで、この腕に残る傷で、それが手に入るのなら――そう信じて今日まで生きてきたの」
そう語る彼女の左腕には、無数の切り傷。
そのひとつひとつが、声にならなかった叫びのように並んでいた。
生きるための証――リストカットの跡。
ケンは何も言わず、ただそっと頭を撫でると、左手で静かに彼女を抱き寄せた。
「今まで、ずっと一人で頑張ってきたんだね。誰にも頼らず、たった一人で闘ってきたんだね。辛かったね……苦しかったよね。でも、もう一人で背負わなくていい。大丈夫――」
その瞬間、静寂だった店内に、彼女の嗚咽が突き抜けるように響いた。
胸の奥底に押し込めていた感情が、一気にあふれ出す。
「やっと……やっとわかった。私、ずっと……泣きたかったんだ……」
抑え込まれていた想いが、堰を切ったように彼女の声に乗って流れ続けた。
ケンは左手をそっと伸ばし、彼女の傷だらけの腕に触れる。
その手のひらで包み込むように、優しく覆いながら、言葉を紡ぐ。
「一人で抱えるより、二人で抱えた方が……痛みも、苦しみも、きっと半分にできる。だから、お兄さんにも……少し、背負わせてくれないか」
そう言うとケンは長く垂れた髪を耳にかけ、首元を見せた。
そこに刻まれていたのは、雪の結晶のような傷跡。
「見てごらん。お兄さんもね――クロエと同じ年頃の頃に、すべてが嫌になって、自分を傷つけたことがあるんだ」
そして今度は、右手に巻かれていた包帯を外し、その下にある深々とした傷跡を露わにする。
「少し前にも、自分で自分を壊しかけた」
彼女は、目の前に現れたケンの傷――自分の傷を遥かに凌ぐそれを見つめ、言葉を失う。
「お兄さんの右手はもう動かないんだ。感覚もない。触ってごらん」
促されるままに、彼女はおそるおそる手を伸ばし、ケンの右手にそっと触れた。
「本当に何も感じないの?」
クロエの問いに、ケンは静かに頷いた。
「ああ。この手をナイフで切りつけ、突き刺したときも、少しも痛くなかった。けれど……たとえ脳が痛みを感じなくても、心はちゃんと泣くほどに痛みを覚えていた」
「……私と同じだ」
彼女の声は、掠れるほど小さく、それでいて確かな響きを帯びていた。
「自分を傷つけるっていうことはね、自分だけじゃない。そばにいる大切な人の心まで、一緒に傷つけてしまうんだ。この右手を傷つけた日。そこにいる彼女と、あのカメラを持って立っている彼の心も、同じように傷つけてしまった」
そう言ってケンは、そっと視線をジェシカとユウに向けた。
「だから、俺は決めたんだ。もう二度と、自分で自分を傷つけることはしない。誰だって、決して一人なんかじゃないから。花だって、太陽の光や雨の恵みを受けて“笑顔”という花を咲かせる。人もきっと、それと同じ。独りでは、本当の笑顔は咲かせられない」
クロエはゆっくりと、深く頷いた。
その頷きには、初めて誰かの言葉を心から受け止めたような静けさと重みがあった。
「なあ、クロエ。さっき“いつか心から笑える日がくる”って言ったけどさ。それを――“今日”にしてみないか?」
しばらく彼女は自分の左腕を見つめたまま、唇を震わせた。
「この腕を……傷つけなくても、笑えるの?」
その言葉には、信じたいという願いと、信じきれないという怯えが同居していた。
「ああ。たしかに、傷ついてしまったものは消せない。でも――それは、君が懸命に生きてきた証でもある。見るたびに痛みを思い出していたその傷跡に……これからは、微笑みが灯るように。お兄さんが、そこに絵を描くよ。君だけの、小さな“花”をね」
その言葉に、クロエは涙を袖でぬぐい、真っすぐにケンを見つめた。
その瞳には、痛みの奥からわずかに差し込んだ光のような、切実な決意が宿っていた。
「変えたい……変わりたい!」
その言葉とともに、クロエの瞳から静かに涙が零れ落ちた。
それはきっと、これまでの自分と決別するための、最後の涙だった。
自傷行為とは、自らを絶つためのものではない。
それはむしろ、“生きるための行為”なのだ。
痛みを代償に、心の叫びから一時でも解放されようとする、切実な祈り。
そして、自分が“生きている”という確かな実感を得るための、孤独な儀式。
彼女はただ――誰よりも強く、“生きたい”と願っているだけだった。
ならばその願いに、そっと“花”を添えよう。
“生きている”ということが、どれほど尊く、美しいことなのかを――この肌に描き出すように。
ケンは、クロエの左腕にそっと植物由来のインクで花を描いた。
――“サフィニア”。
痛みのないジャグアタトゥー。
2週間ほどで消えてしまう、優しいボディアート。
けれどその一瞬が、彼女の心を確かに変える光になるように。
「これは“サフィニア”っていう花なんだ。日本では“咲きたての笑顔”っていう意味の花言葉があってね――今のクロエに、ぴったりだよ」
彼女はケンの言葉に、そっと微笑んだ。
その頬に、一筋の涙が伝う。
けれどその涙はもう、過去の痛みではなく――
これからを生きると決めた、“変わる”ことへの証明だった。
その微笑みに滲んだ光は、確かに彼女の中に新たな花が咲いたことを示していた。
「お兄さん……ありがとう」
「こちらこそ。君の“笑顔”を、ありがとう」
ケンはそっと微笑みながら続ける。
「日本には“花笑み”っていう言葉があるんだ。花が咲くようすを、人の微笑みに例えた、美しい言葉なんだよ」
その瞬間、クロエの口元がふっと綻び、まるで春の陽射しを受けた蕾が一気に開くように、その“笑顔”は表情全体にふわりと広がった。
「まさに今のクロエがそうだよ。君のその“笑顔”は、まるで花が咲いたようだ」
人は誰でも、心のなかに“笑顔”という枯れない花を咲かせることができる。
その花は、自分自身を照らすだけじゃない。
周りの人の心にも、静かに、そして確かに花を咲かせていく。
まるで広がっていく花畑のように――。
「クロエ……その笑顔を、どうか忘れないで」
そう言ってケンは、弱々しくもあたたかな微笑を浮かべた。
「うん……絶対に忘れない」
「また2週間後においで。もしそのとき、俺がここにいなくても……このジェシカって女性が、君の腕にまた花を描いてくれるから」
かすかにかすれるその声を、クロエの明るい返事がやわらかく包み込む。
「また、お兄さんに描いてほしいな!」
そう言って彼女は手を振り、しっかりと顔を上げ、前を向いて歩き出した。
――“また”。
その笑顔に、もう一度会える日は来るのだろうか。
陽が落ち、ニューヨークの街が静かに夜の帳に包まれる頃、ケンは一人、トイレにうずくまっていた。
身体の奥から、ゆっくりとちぎれるような痛みが這い上がり、やがて胸を締めつける。
意識が遠のいていく。
深い闇の底へ、音もなく引きずり込まれるように――。
目の前から、ひとつずつ色が剥がれ落ちてゆく。
ニューヨークへ来てから、いったい何度、この便器に顔を埋めて吐き続けただろうか。
わずか1か月半で、体重は10キロも落ちた。
痩せこけた身体。こけた頬。
その姿を鏡に映すたびに、得体の知れぬ恐怖が背後から忍び寄ってくる。
突き刺すような頭痛も、もはや鎮痛剤など歯牙にもかけなくなった。
“死”という言葉だけが、静かに脳裏をよぎる。
なぜ花は、散るのだろう。
枯れることを、誰が決めたのだろう――。
時間は容赦なく進んでいく。
想像していた通りの苦しみ……いや、それ以上の痛みと孤独だった。
それでも、想像を超えて胸を満たした幸せも確かにここにあった。
この場所で、この時間で、この命でしか出会えなかった煌めき――
それを思い出すたびに、花びらが一枚、また一枚と静かに剥がれ落ちていくのを感じる。
枯れ落ちるその日まで、ただもがきながら息をつなぐ。
最後の、そのひとひらが風に舞い上がる、その瞬間まで――。
目を閉じて、じわじわと忍び寄る闇の恐怖に呑み込まれながら、自分自身に問いかける。
“明日”は本当にやって来るのだろうか?
果たして、自分に残された時間は、あとどれほどあるのだろう――。
翌朝。
目覚めた瞬間、急に早鐘のように打ち始める心臓の鼓動が、“まだ生きている”という事実を告げてくる。
それでも、夜がまた静かに訪れるたび、あの底知れぬ暗闇に怯える。
こんなにも、一日一日が愛おしいと感じたことが、かつてあっただろうか。
これまで当たり前のようにやって来た“明日”。
その“明日”がどれほど脆く、どれほど尊いものだったか、ようやく知った気がする。
ただ、“明日”を見てみたい。
どれほど痛くても、どれほど苦しくても構わない。
美しいものを、美しいと思える心を、もう一度取り戻したい。
記憶のなかにある、あの“君の笑顔”を思い出せる日が来るのなら……。
雨が降る夜。
わずかに差し込む月明かりだけが頼りの、真っ暗な部屋。
ケンはその窓辺に膝を抱えて座り、闇の中に浮かぶ美しい三日月を、ぼんやりと眺めていた。
あのときの雨の色は、何色だっただろう。
そして、あの夜――
俺は……たしかに君の横顔ばかりを見ていた気がする。
チカ――
今、君は何をしてる?
笑っているのか。それとも、泣いているのか……。
そう思った瞬間、こらえきれずに涙がこぼれた。
“逢いたい……”
逢いたくて、逢いたくて仕方がない。
胸の奥が引き裂かれるように痛む。
その痛みは、もはや身体の苦しみをも凌駕していた。
どれほど願っても、何度手を伸ばしても、幻のように擦り抜けていく君の面影――
その喪失と絶望は、大粒の涙となって瞳から零れ落ち、心は今にも音を立てて崩れそうだった。
君のことは、忘れなければいけないのに。
そのはずなのに……なぜだ?
なぜ俺は、いまだに君の好きだった“ネリネ”の造花を作り続けている?
左手だけで、不格好に綴るこの花に――
いったい、何を託しているというのか。
君のいないこの世界で、俺は何を信じて、何を願い続けているのだろう。
それでも、ケンは毎晩のようにネリネの花を作った。
不器用な左手で、一本ずつ紡ぐように――。
まるで、チカへの想いを一本一本、形にしてゆくように。
枯れることのないその造花に、“永遠”という祈りをそっと宿しながら。