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一緒にいますという言葉を聞いて、アベルは顔をほころばせた。込められた令嬢の勇気がいじらしい。
令嬢の髪に触れそうになって、アベルは自分を制止した。
あの日、令嬢が毒を飲んだ日のことを思い出す。
『結局、わたしは人質で、あなたは敵じゃない!』
当時の令嬢の声が、脳裏に過る。
事実、その通りだった。
フリージアとランバルドの停戦条件のひとつは、王子と令嬢の結婚。だが、令嬢の父の所業を見れば、ランバルドが停戦に好意的でないのは明らかだった。
フリージアを焚きつけて、停戦の約束を反故にさせようとしているようにも見える。
それが目論見だったなら、うまくいっている。
行われるはずだった結婚式は取りやめになり、婚約という形になってしまった。
停戦条件は満たされていない。
今、戦場が落ち着いているのはまだ民衆に気づかれていないからだ。フリージアとランバルドは依然不安定な状態にある。
令嬢がこうして傍にいてくれるのは、一部の記憶を凍結させているからに過ぎない。令嬢の氷が溶ければ、思い出すことになる。あの日、何が起こったかを。
「?」
令嬢が、あどけない顔でこちらを窺ってくる。
傷つけたくない。悲しませたくない。
本当は今すぐ抱きしめたかったが、怯えられてしまうかもしれない。
愛することで令嬢の氷が溶け、暗く、悲しい過去を呼び起こしてしまうかもしれない。
その矛盾がもどかしかった。
「僕も、君の近くにいたい」
絞り出すような感情で。
しかし、それを感じさせない滑らかな声でそう言うと、アベルは令嬢から離れて席に戻る。
記憶を凍らせたままにした方が、安全なのはわかっている。
腫れ物のように扱い、嘘の情報を与えれば。令嬢は何も思い出すことなく、婚約者として生き続けるだろう。
だが、それでは人形と変らない。
たとえ傷つけることになったとしても、人として彼女を愛したかった。
令嬢はアベルが席に戻っていくのを見て、もどかしくなった。
自分でもなぜかはわからないが、彼に抱きしめて貰えるような気がしたのだ。
それは彼に触れたいという願望が受け身の形で発露されたもの、満たされたいという甘い渇望が、少女の胸をちりちり焦がす。
テーブルの皿はからっぽだ。
ナイフとフォークも「食べ終わりました」とばかりに皿の端に揃えられている。
サラダだけの食事は味気ないけれど、令嬢の体調を慮ってのことかもしれない。
食事が終われば、アベルと一緒にいるこの時間も終わる。
少しでも長く一緒にいたい。
少しでも近くにいたい。
そういえば、アベルも「近くにいたい」と言っていた。
令嬢は椅子から降りて、隣に座るアベルにぴたりとくっついた。
食事が終わったのなら、別れの挨拶くらいしてもいいはずだ。
それは見よう見まねの拙いハグだったが、周囲の使用人と当事者であるアベルの心臓を破壊するには十分な威力を持っていた。後ろに控えていたジーナはもはや立ち続けることができない。無様な姿をさらさぬよう、奥に引っ込んで、ハンカチをいい意味で噛んだ。
ジーナの判断は正解だった。
なぜならその後、アベルが努めて冷静に令嬢を抱きかかえ、膝の上に乗せたからだ。
「えっ」
令嬢は内心慌てながら、邪魔にならないよう静かにしている。静かにしているが、心臓の鼓動はまったく静かにしてくれない。まるで早鐘のようになっている。
身動きとれなくなった使用人達に代わり、片眼鏡の執事がアームタオルを垂らして皿と銀器を片付ける。
まるで何事もありませんよといった顔でパントリーへ進むと、シェフにこう言った。
「ここからはすべての料理をひとつの皿にまとめて出してください」
頬に大きな傷のあるシェフは感づいて、言葉少なに執事に聞いた。
「状況は?」
「お嬢様は今、アベル様の膝の上です」
「メニューを変える」
本来出すべきスープを鍋に戻し、よく冷える地下の貯蔵庫から明日出す予定だったコンソメゼリーを持って来た。
これならスープより零れにくいし、零して火傷することもない。
「待て」
シェフが丁寧にゼリーを砕き、芸術的な氷河のようになったところにクリームを回しかける。
「持っていけ」
大盛りになったコンソメゼリーが運ばれ、テーブルに置かれた。
皿はひとつだけ、スプーンもひとつだけである。
これで「あーん」しろと言わんばかりに、堂々と鎮座している。
ひとえに文化の違いだろうか、少なくともこの食事では、皿ごとに銀器をセットするようだ。
今回のようなイレギュラーに対応しやすい、柔軟なテーブルセットと言える。
アベルの膝の上に乗った令嬢は絶句した。
食事はまだ終わっていない。
むしろ、これから始まるのだ。