自室に戻ると、令嬢はベッドで先ほどの食事を思い出す。
まるで夢のような時間だった。本当にあのコンソメゼリーから全部あーんされたのだ。
何より恥ずかしかったのは、同じ食器をアベルも使っていることだった。これから夫婦になるのだから、おかしいことなんて何もないと言えばその通りなのだけど。それでも、慣れない。
膝から少し落ちそうになった時、支えてくれた手のひらの温かさが、忘れられない。
こんな日々がいつまでも続けばいいと思う反面、幸せすぎて不安になる。
「わたし、実は死にかけていて走馬灯を見ているとかじゃないわよね」
あまりにも都合がいいのだ。
愛される度に融ける心は、忘れていたことを思い出していく。
ベッドで仰向けになりながら、解凍された記憶を冷静に見ていくと、おかしなことばかりだった。
結婚式をあげるはずだったのに、婚約者という扱いになっているのもそうだし、敵国の花嫁になぜか優しくしてくれるアベル王子もそうだ。
使用人達もみんな優しい。でも、先ほどまで戦争をしていた国に恨みがないなんてありえるだろうか、友達を、親を、子供を、愛するひとを失っていないわけがない。
令嬢はなぜみんなが自分に優しくしてくれるかを考えたが、思いつかない。停戦のために、嫌々ながら機嫌をとっていると考えた方がまだ真実味がある。
ただ、そうだとすると婚約という立ち位置が気になる。なぜ結婚式はなくなったのだろう。何か問題があって延期になっているのかもしれないけれど。
その記憶はまだ未解凍だった。
どうやら、凍り付いた記憶は必ずしも新しいものから順に溶けるのではないらしい。
見たくないもの、知りたくないもの、思い出したくないものは頑なで、溶けにくい。
逆に、思い出したところで痛みを伴わないもの、自分とは関係のないものであるほど、溶けやすいようだった。
父と継母の名前を一向に思い出せない反面、義姉アンナの名前を思い出せるのは、アンナが恐ろしい存在であると同時に憧れでもあるからだろう。
溶け出した記憶の中には不可解なものもあった。
ひとつは、この城の見取り図だった。
どこになにがあるのか、なんとなくわかるのだ。
でも、それだけなら実際に目にした内装から配置を想像したものと考えることもできそうだ。
問題はこの街の全体図も記憶にあることだった。
この街の名前はトロンと呼ばれる辺境城塞都市。城壁は二重で、内部にある第一城壁は遙か古代に滅んだ帝国のもの。外側の第二城壁は現代になって作られたもの。
今いる城は二つの城壁に囲まれた最も安全な場所にあり、名を不在城と言う。
第一城壁区画はその外壁を水路で囲まれ、城の前にはカティ小修道院、第二聖堂教会、少し南に下ると、貴族御用達の学校がある。
第二城壁区画では商業が盛んで、世界中から様々な物品が持ち込まれ、しきりに商売が行われている。喧噪の絶えない穀物市場、旅人向けの宿舎通りではサイコロが振られ、裏通りを進むと子猫通りがにゃんと鳴くのだ。
解凍された記憶の中に、自分ではない誰かの記憶が混在している。
記憶とは過去から来るものだ。いくら記憶を辿っても、未来がわかるはずもない。
なのに、溶け出した記憶の中には未来のものも含まれていた。
父が攻めて来るのだ。
どうやったのかはわからない、どうやって城壁を破ったのかもわからない。
それでも、結果的に第二城壁は破られ、市場は火の海になった。第一城壁はよく保ったけれど、いくら籠城しても助けは来ないままで。遂には第一城壁も破られた。
これからみんな死ぬというのに、みんなは優しくしてくれた。
その優しさに、令嬢は耐えられなかった。
だから、その日まで弟切草の髪飾りに隠していた自決用の毒を飲んで死んだ。
「死んだ?」
令嬢はベッドの中で目をぱちくりさせる。
毒を飲んだのはこの前だ。飲んでしまった毒はもうない。なら、未来で毒を飲むことはできないのでは?
令嬢は混乱する。
混乱して混乱して混乱して、やはりこの記憶は過去のものなのではと結論付ける。
前回の、前世の記憶が凍り付いて内面に残留している。
だとするなら、このわたしは、何度も繰り返した後のわたしなのでは?
それは概ね正解だった。
この世界において、人は命を知らぬうちに繰り返している。そしてたまたま以前の記憶を覚えていた時、それを運命と感じるのだ。
ほとんどの記憶は時の摩擦に耐えきれず焼き切れてしまうが、凍結した記憶は摩擦に耐え、残留する。
令嬢がこれまでのループで過去の記憶をまともに見られなかったのは、心が凍り付いていて中身がわからなかったから。
愛されても、その愛を受け取ることができなかったからだ。
怖がり、踏み出さず、すべてを拒絶して。自ら死を選び続けたからに他ならない。
このループはこれまでの中で唯一。
令嬢が王子に心を開き、その愛を受け取ることができたルート。
愛の奇跡が存在する世界だった。