第2話 鍵の向こうの朝と夜
地下室にほんの少しだけ光が差し込む。
明がつけてくれた小さなランプの灯りだ。まぶしくはないのに、暗闇に慣れた目には刺さるようだった。
明は晴明の額に手を添え、優しく撫でながら言った。
「行ってくるね、お兄さん。
今日もいい子で待っててくれるよね?♡」
「……明くん……。ぼくが、行かないでって言ったら……どうするの……?」
晴明はまだ、縛られたまま。
手首に食い込む革のベルトは柔らかいのに、絶対に外れない。
「行かないわけないよ。僕、お医者さんだからね?」
明はにこりと笑う。
「だけど……お兄さんのそばを離れるの、ほんとは嫌なんだよ?」
「だったら……鍵、外してよ……一緒に……上で待ってるから……」
「だめだよ♡」
あまりにも優しい声だった。
晴明は言葉を飲み込む。
本気で逆らえば、もっとひどくなる。そんな確信があった。
明は出勤前の最後の確認のように、晴明の指先を包み込み、小さくキスを落とした。
「19時には帰るからね……それまで寝てていいよ?
お兄さんがさみしくならないように、お水もご飯もちゃんと用意してあるから。」
金属の扉が閉まる音が響く。
鍵がひとつ、またひとつと掛けられる。
そして、静寂。
いつもの学校の朝とは、まったく違う時間が流れていた。
明がいなくなると、音が世界から消える。
地下室は広くはないのに、空気がやけに薄く感じられた。
「……はぁ……どうしよう……」
晴明はゆっくりと体を起こそうとして、手首の拘束に阻まれる。
「っ……ほんとに……外れない……明くん……僕に、何させたいの……」
誰も返事をしない。
その“誰もいない”という事実が、一番つらかった。
明の声が聞こえない。
階段の軋む音もない。
ただ、静寂が続く。
昼前、スリットから小さな音がして、パンとスープが置かれる。
でも晴明は、あまり食欲がなかった。
「……僕……どうなるんだろ……」
逃げ道を探すように、視線が部屋を何度も彷徨う。
けれど、扉も窓も、換気口ですら分厚い金属で覆われていた。
明が“逃げられないように設計した部屋”だと痛感する。
昼間の時間は異様に長い。
5分が30分に感じる。
気づけば呼吸が浅くなり、胸がきゅっと締め付けられる。
「明くん……はやく帰ってきて……」
自分でも驚くような言葉が口から漏れた。
逃げ出したいはずなのに、孤独に耐えられない。
明の足音が聞こえないだけで、不安が膨らむ。
「こんなの、おかしいよ……
僕、どうかしてる……」
頭を抱え、膝に額を押しつける。
時間がわからない。
ランプの光も一定で、太陽も見えない。
思考がだんだんと曇っていく。
そして数時間後……
――ギィ……。
扉が軋んだ。
晴明は顔を上げる。
「ただいま、お兄さん♡」
明の笑顔が、地下室に暖かい光のように差し込む。
「……あ……明くん……」
声が震えた。
安心と、怖さと、混ざり合ったどうしようもない感情。
明は、晴明の頬に手を添える。
「泣いてるの? さみしかったんだね……♡
ごめんね、お仕事だったから……」
「べ、別に……泣いて……ないよ……
ただ……その……声が聞こえなくて……」
「ふふ……」
明は嬉しそうに笑う。
心の底から喜んでいる顔だった。
「お兄さん、僕がいないと不安になるんだ……。
そうだよね……それでいいんだよ……♡
ずっと僕を待ってて? ね?」
「……っ……明くん……こんなの……やだよ……
ほんとに……こんな生活……おかしい……」
「おかしくなんてないよ?」
明は穏やかに首を振る。
「お兄さんの世界は、僕一人で十分なんだよ」
拘束具の金具が軽く鳴る。
晴明は逃げようとしたわけでもないのに、勝手に身体が震えた。
「ねぇ、お兄さん。
今日も……いい子だった?」
晴明は、返事を迷った。
でも、言わなければいけない気がした。
「……うん……」
「よかった♡」
明はとても、嬉しそうに笑った。
その笑顔が一番怖いのに――
同時に、胸の奥が少しだけ温かくなった。
晴明は自分が壊れ始めていることに、まだ気づいていなかった。
コメント
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晴明君が、怖がりながらも明くんの事を待ってて帰ってきたら安心しちゃってるの明くんは予想してたのか…?この後どうなるんだ?続き楽しみにしてます!