テラーノベル
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蝉の声が耳に張りつくように響いていた。
夏休み最終日。空はどこまでも青く、眩しい。だけど、胸の奥は重く沈んでいる。
幼馴染の蓮と会えるのは、今日が最後になる。
明日には遠くへ引っ越してしまうから。
毎日顔を合わせて、他愛のない会話をして、当たり前にそばにいた存在が、いなくなる。
それがこんなに苦しいことだなんて、今まで知らなかった。
「…蓮…おはよ」
「悠、久しぶり」
たったそれだけの挨拶。けれど、今までと同じ響きが、今日はやけに胸を締めつける。
平気そうに微笑む蓮の顔を見ると、こっちが泣き出しそうで目を逸らした。
「じゃあ、行こっか」
そう言って、さっさと歩き出す。
その背中は、自分より少しだけ先へと進んでいるようで、少しだけ速い。
きっと気まずさを切り裂こうとしているのだろう。蓮らしいやり方だった。
最後に向かうのは、決まっていた。
ふたりで何度も来た海。夏休みの大半をここで過ごした。冬でも春でも、遊び場といえばここだった。
潮の匂いを運ぶ風が吹いて、記憶を一気に呼び覚ます。すーっと息を吸い込めばそこは蓮と悠、二人だけの世界だった。
砂浜に立つと、波の音が耳を包み込んだ。
太陽の光が海面を反射して、キラキラと光り目を細める。
その横顔を見ながら、思った。
もうこの風景を、蓮と一緒に見ることはできない。
「大丈夫。きっとまた会えるよ」
蓮がそう言った。
慰めのつもりなのだろう。
だけど、そう簡単に信じられるほど、心は強くなかった。
目の奥が熱くなり、涙が零れそうになるのを必死に堪える。そんな顔を覗いてニヤニヤと笑う君が、大好きだった。
ふたりで並んで座り、砂に足を埋めながら話をした。
笑いながら、思い出を語り合ったはずなのに──気づけば、その内容を思い出せない。
ほんの数分前の会話すら、ぼんやり霞んでいく。
まるで砂に描いた文字が、波にさらわれていくみたいに。
それでも、蓮が笑っていたことだけは覚えている。
そして自分も確かに笑っていた。
それだけで充分だと思えた。
やがて夕暮れ。空はオレンジに染まり、潮風は少し冷たさを帯びる。
帰らなければならない時間が、近づいてきた。
「……そろそろ帰ろうか」
「……うん」
立ち上がった蓮の背中が、ひどく遠く感じる。
振り返りながら手を振るその姿に、声が詰まった。
「ばいばい、蓮」
「ばいばい、悠」
言葉を交わした瞬間、胸の奥で何かがちぎれる音がした。
もう、会えないんだ、終わりなんだ。そんなのやだ。1日でも長く、蓮といたい。そう強く願った。
──そこで、目が覚めた。
蝉の声。母の声。妹のピアノ。
聞き慣れた日常の音が重なっている。
なのに、カレンダーを見た瞬間、息が止まった。
『8月32日』。
日付の下には、小さく「蓮(夏祭り)」と記されていた。
「え……?」
頭が真っ白になった。夢か現実か、わからない。
でも約束の時間は迫っている。考えるより先に、足が動いていた。
何時もより少し背伸びして蓮のセンスに合わせてみる。自分に合っているかと言われればそうではないが、蓮との絆がふっと心に渡るようだった。
夏の夕暮れ、待ち合わせ場所に立っていたのは、微笑む蓮だった。
「似合ってる」
「……ありがと。蓮も、意外とお洒落だね」
「うるさい」
どこか照れくさそうに目を逸らす。その仕草すら懐かしくて、胸が苦しい。
これは夢だ。そう思うしかない。
だけど、もし夢だとしても、どうか終わらないでほしいと願ってしまう。
屋台を回り、金魚すくいをして、綿菓子を分け合って。
時間は笑うほど早く過ぎていった。
けれど、不意に違和感が襲った。
さっきまで食べていた味が、思い出せない。
何を話していたのかも、霞んで輪郭を失っていく。
まるで世界が少しずつ削り取られているようだった。
それでも、隣にいる蓮の姿だけははっきり見えていた。不安になり、蓮の手元へと手を伸ばす。
蓮の手の温度、蓮の声の調子、蓮の横顔の影。
それがあれば充分だった。
夜空に、花火が上がる。
眩しい光が一瞬だけ世界を白く染め、すぐに夜に溶けていった。
その光に照らされた蓮の横顔を見ながら、心の奥に押し込めてきた想いが込み上げる。
「……好きだよ。恋として」
花火の轟音にかき消されそうな声。
視線を合わせる勇気はなかった。
だけど、伝えてしまった。どうしても、伝えたかった。
頬が熱くなる。蓮はどう思っただろう。
怖くて顔を見られないまま、横目に映った横顔だけが、少し赤く染まっていた気がした。
──翌朝。
『8月32日』の記憶は、まるで最初から存在しなかったかのように、誰の中からも消えていた。
自分の中でも、断片的にしか残っていない。
海で交わした言葉も、祭りの灯りも、告白の震えさえも。何処までが現実で何処からが夢なのか解らない。
でも、不思議と胸の奥には痛みが残っていた。
消えゆくはずの夏の一日が、確かにそこにあった証のように。
それが終わりなのか、始まりなのか。
答えを知るのは、未来の私だけだろう。
コメント
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情景伝えるのめっちゃうまくなってね!? おばさん嬉しいよ☺️