遼と陽斗の放課後は、誰にも知られない静かな時間だった。
「……じゃあさ、今度の土曜、ピアノ見に行かね?」
陽斗がそう言ったのは、何でもないような帰り道だった。
「え?」
「楽器屋。街にでかいのあるって聞いて。さすがに俺には弾けねーけど、お前が触るとこ見てみたい。」
遼は驚きつつも、小さく頷いた。
「……行ってみる。」
その瞬間、陽斗は自分の心が跳ねるのを感じた。
友達でも、クラスメイトでもなく。もっと特別な感情が、自分の中に育っていることに気づきはじめていた。
⸻
週末。
楽器店の店内で、遼は真新しいグランドピアノの前に立っていた。
周囲のざわめきの中、鍵盤に触れた遼の音は、柔らかく空気を震わせた。
陽斗はその横顔を、ただじっと見つめていた。
(……なんで、こんなに惹かれるんだろう)
まるで世界に自分と遼しかいないような錯覚——
そのとき。
「……遼?」
声のした方を見ると、遼がはっとしたように顔を上げた。そこに立っていたのは、彼の名前を呼んだ女子生徒。
どこか洗練された雰囲気の、同年代より少し大人びたその子は、陽斗に軽く会釈をすると、遼に向き直った。
「久しぶり。……まだピアノ、続けてたんだ。」
遼の表情から、あっという間に温度が消える。
「……なんでここに?」
「たまたま。音でわかったの。あなただって、弾き方変わってないもの。」
陽斗はそのやり取りに割り込むことができず、ただ静かに見ていた。
遼の様子が、明らかにいつもと違っていた。
彼の笑わない目。閉ざされた口元。
その隣にいるはずの自分が、急に遠く感じた。
⸻
帰り道。
「……あの子、誰?」
陽斗がようやく尋ねたとき、遼はしばらく沈黙してから答えた。
「……昔、一緒にピアノをやってた。演奏のペアだった。」
「元カノ?」
「違う。ただ……少し、特別だった。」
その言葉に、胸の奥がずきりと痛んだ。
初めて感じる、焦りにも似た感情。
そして、口にすることができなかった想いが、陽斗の胸に残り続けていた。
(俺は……遼にとって、特別になれてるのか?)
陽斗はまだ知らない。
その「ノイズ」が、ふたりの関係にどんな影響を与えるのかを。
夕方のバス停で、陽斗と遼は並んで立っていた。
けれど、楽器店での和やかさは、もうそこにはなかった。
「……あの子、何か言ってた?」
陽斗の問いに、遼は小さく首を振った。
「ただ、“変わったね”って。それだけ。」
「変わった……?」
「昔の俺は、感情なんて音に出さなかったって。」
遼は遠くを見るようにして、ぽつりと続けた。
「その頃の俺は、“上手い”ことがすべてだった。誰より正確で、誰より音が綺麗なら、それでいいと思ってた。」
「今は違うの?」
「……陽斗といると、そうじゃない音が出る。」
バスのライトが近づき、ふたりを照らした。
遼は、光に目を細めながらぽつりと呟く。
「それが、怖いんだ。自分が変わっていくのが。」
陽斗はその言葉に、答えを返せなかった。
ふたりは並んでバスに乗り込んだ。座席に座っても、言葉はなかった。
陽斗の心の奥には、どうしようもない感情が渦巻いていた。
(“俺が変えた”って言ってくれたのに……なんで、他の誰かのことを、そんな風に話すんだよ)
心がざわめいていた。
これまで感じたことのない、焼けるような感情。
それが「嫉妬」だと、陽斗はまだ気づいていなかった。
⸻
翌日、学校。
音楽室に遼は来なかった。
それでも、陽斗は一人で音楽室へ向かった。
ドアを開けると、静けさだけがそこにあった。
ピアノの蓋は閉じられたまま。誰の音も残っていなかった。
陽斗は、窓際のいつもの椅子に腰を下ろすと、ポケットからスマホを取り出し、メッセージを打ちかけて……やめた。
(……俺って、なんなんだろう)
友達? それとも、それ以上?
陽斗はまだ、その境界線を越えることができずにいた。
⸻
音楽室の静けさの中で、ふたりの関係はそっと揺れていた。
まるで、次の旋律を探しているかのように——
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