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思考の時間だ。
今は11時10分頃、日陰で汗ばむ7/20。4月から3ヶ月半が過ぎたあたりである。まだ濡れた手をちゃんと拭かないとあかぎれができる季節から、湿り気が手どころか辺り一帯に広がっている日々に早変わりしていて、私が年を重ねたことを実感せずにいられない。
三年前や六年前であればもう少し時間の密度があったと思うのだが、肝心のその記憶は1人の人間にしてはスカスカで、密度以前に問題があるように思える。今が大学生になって数ヶ月であるから、六年前は中学一年で三年前は高校一年だ。あの頃らはろくに課題も出さない精神性だったのが一番印象的だが、なぜか今はある程度改善されている。これが中々不思議で、六年間悩んだ癖がいきなりマシになる現象が私に起こったことになる。もしそうであるなら、この世は割とマジで諸行無常を極めているように思えてくるが、そんなことはありえない。ある程度の大きさのあるきっかけが存在しなければならない。
確かあの頃は「人間が共通して持つ、現代で悪い癖とされている本能」に執着していた。まぁ要するに怠惰について思考を巡らせていたわけである。私達は自覚があるにしろないにしろ、なんらかの大切なものが存在する。我が身であったり、それに準じて家族や友人、恋人、趣味なんかも例に挙げられるだろう、そして私はそれらよりも怠惰を優先したことを自覚し、なぜそうしたのかについて考えるようになった。私がかつて出した結論はこうだ。「大切なものを想うのも怠惰も、人間特有ではない本能から形作られたものである。同じ作り方をされて同じ感情として存在するのならば、どちらを優先するのかは個体差がある。ゆえに私が怠惰を優先するのは運ゲーに負けた人種だからであり、ある意味で仕方のないことである。」単なる言い訳に聞こえるだろうが、これが案外、論破には苦労する言い訳なのがタチが悪い。自分のせいだと言われれば、自分をこのようにした別の要因のほうを責めるべきと考えて反省しない。環境にしろ出自にしろ、これからの人生の質にしろ、バカにできない運要素が必ず絡むのはだいぶ狂っているのは分かるが、どうしようもないことを首を突っ込んであれこれ言うんじゃないよと毎日考えていたものだ。
まるで犯罪者が弁明しているようだが、実際に犯罪を犯していたら反省や後悔をする機会が与えられる。対して私は機会を作ることすら自由な一般人だ。犯罪者という思考に最適な状況からは劣るだろうが、あの結論では陳腐な一般論に過ぎないことが私の思考を止めさせなかった。(陳腐化しているのならそれを完全に論破するほうも同様に陳腐化してほしかったが。)新しく導き出したのは、「その状態では群れから追い出されるのではないか」という着眼点である。本能は生きるための後付け設定に過ぎないため、その他に属性があったとしても、生きるための行動に抗う本能は価値がない。現代での怠惰は「役立たず」を生み出すとされている。確かに、そのような穀潰しの芽を摘み取ろうとする気持ちは分かる。私もそうする。
さらに、元々生きることを前提とした私達は生きるために群れを作った。ゆえに群れを追い出されると生きにくくなる。言うまでもないだろうが、私の古い結論は他人に嫌われることがほとんどである。それを軸にしていれば、いずれ生きにくくなるだろう。この点でも怠惰は本能として意味をなさないといえる。
とはいえ、腐っても本能である。怠惰は抗い難い。というか満足に抗えるのなら私の思考は要らない。運ゲーに負けてかわいそうであっても、皆が生きる為には排除されて然り。そして改善は難しい。ほんとこの世の中は
何が言いたいのか分からなくなってきた。
昼に書き散らしたことをすっかり忘れて、気づけば夕食を食べるいい時間となっている。
なんだかんだ考えておいてなんだが、私は今回の話題についてあまり関心を持てていない。仮にも悩み抜いた過去の私がいるのだから、もう少し真面目に考えられると思ったのだが、未だに怠惰はそのまま変わりないらしい。死ね。
寝不足の日の翌日で調子が悪い。今日書いたことの内容はかなり出来が悪いが、書き直すのも面倒なのでこのまま投稿する。
今は眠いが夜中はそうでもないんだろうな。毎日これで7時間睡眠が全くできない。はよ寝ろ