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雨粒が光学迷彩を撫でては弾け、都心の高層群を覆う透過型防犯網に細かな干渉縞を生じさせていた。令和二十年。警視庁の新設部署――未来犯罪対策課(仮称コード:FCDU)の若手巡査部長・霧島 凌二十八歳。神経接続型携行端末を耳後部のポートに嵌合させ、現場保全ドローンのテレメトリを視界の端に浮かべた。
現場は港区の再開発エリア。床面の自己修復コンクリートはまだ乾ききっておらず、微細なアルカリ臭が雨に溶けて立ちのぼる。倒れているのは、情報銀行事業で台頭したベンチャー”イオニス・キャピタル”のCISO(最高情報セキュリティ責任者)、白鳥 朔。胸部中心から斜めに走る穿刺創。刺入角は28度、推定刃渡りは120ミリ。監察医の初期所見と、霧島の視覚補助が弾き出した数値は一致していた。
霧島は、呼吸を整え、現場の時間基準を同期させる。都市インフラのクロックはすべて高精度時刻同期(Precision Time Protocol)で束ねられている。だが、今日はそれがズレていた。わずか0.47秒。記録上の誤差の範囲内――のはずが、ズレてはいけない系統でズレている。嫌な予感が、後頭部の人工硬膜に触れて痺れる。二年前の事故で埋め込まれた神経保護プレートは、緊張の度に微かなホワイトノイズを生む。それが霧島の「予兆」だった。
被害者の懐中からは、量子乱数生成器を内蔵した鍵束タグが見つかった。企業秘密を扱う者にしては定番の持ち物だ。だが、タグの封印シールは剥がされ、再貼付の痕跡がある。ラベルの糊残りが示す剥離角は小さく、ピンセットではなく真空微吸着ツールの使用が示唆された。プロの仕業。
霧島は周辺の光学センサー群にアクセスし、時刻印を洗う。映像はある。防犯網の一つ”CIV-GLASS”には、22時17分、被害者へ近づく人影がくっきりと映っている。顔も歩容も鮮明だ。容疑者は”イオニス・キャピタル”の元社員、鵜飼 正嗣。だが同時刻、彼は品川の別会場で講演に登壇、その模様は多視点ライブ配信”マルチアングル・ストリーム”としてアーカイブされ、メタデータにはPTP同期済の正確な時刻印が付いている。完璧なアリバイ。完璧すぎる。
霧島は職務記録に簡潔な査定語彙で記す。「アリバイ強度:極大。偽造確率:低。例外仮説の必要性:高」
そこへ、雨粒を切り裂くように現れる人影。FCDU技術分析官・如月 沙耶、三十二歳。冷たい無機質な瞳に、エッジAIのダッシュボードが反射している。
如月 沙耶
「遅れた。CIV-GLASSの生データ、持ってきた。エッジ側でのベイズ更新が異常に重い。誰かが推定事後分布をいじってる」
霧島 凌
「事後分布に介入? 物理的に可能なのか」
如月 沙耶
「論文の世界では、ね。でも今日は現場で起きてる。PTP基準局の一つが、位相雑音の多いサードパーティに肩代わりされてた。切替ログは正規。でも署名鍵が、微妙に古い」
霧島 凌
「鍵更新が遅延した?」
如月 沙耶
「“遅延させられた”が正しい。タイムドメイン・スプーフィング 。時間の支配は映像の支配。映像の支配は現実の支配」
如月は床面の水たまりに携帯スペクトラム・アナライザをかざす。雨音に混じって、耳では聴こえない帯域の“ざらつき”が見える。副搬送波の歪み。CIV-GLASSが参照するPTPクロック群のうち一つが、サブナノ秒単位で揺らされ、都市の時空にさざなみをつくっていた。
如月 沙耶
「犯人は、時間を“遅らせた”。正確には、遅れ“だけ”を局所的に注入した。映像群の時刻印がリニアにズレればすぐバレる。だから、選んだのは“位相の片ズレ”。0.47秒。この値なら、監視系の自己修復アルゴリズムが“ノイズ”とみなす可能性が高い」
霧島 凌
「0.47。現場のズレと一致だ」
遠くでサイレンが短く鳴り、雨脚がわずかに弱まる。霧島は被害者の手首に巻かれたウェアラブルを外し、心拍ログのフットプリントを抽出する。ログは22時16分58秒で急峻に落下。映像の刺突と整合。だが、ここにも0.47秒のズレが潜む。まるで都市そのものが、ほんの気まぐれに瞬きをしたかのように。
霧島は口の中で、事件の骨組みを高速に組み立てる。アリバイの核は「時間」。偽装の核は「クロック」。クロックを揺らすには、基準局への介入が要る。介入には鍵が要る。鍵は被害者の懐のタグから採れた可能性が高い。では、誰が、いつ、どこで。
管制からの無線が入る。鵜飼 正嗣が任意同行に応じたという。彼は弁護士同席での事情聴取を希望。配信会社からの生ログ提供にも合意した。自信があるのだろう。完璧なアリバイを、完璧に提示できるという自信。
取調室。壁面は電磁的に中性化され、信号の出入りは監査室経由でのみ許される。霧島は神経接続型携行端末を耳から外す。生身の声に戻すことで、嘘の振幅が見えやすくなる時がある。
霧島 凌
「鵜飼さん。今夜、あなたは二箇所にいた。映像上は」
鵜飼 正嗣
「私が分身?馬鹿げている。講演の現場には百人以上の観客、十六台のカメラ、三社の配信プラットフォーム。時刻は同期。編集痕はゼロ」
霧島 凌
「ゼロに見えるように“遅らせた”。PTPの基準局に位相を注入したのは、あなたでは?」
鵜飼 正嗣
「そんな装置、どこに?」
霧島 凌
「港区の再開発エリア、整備直前の基準局サブノード。現場近傍の路面下に暫定設置されていた。サブノードの認証鍵は、イオニス社のCISOが緊急時に限って一時委譲できる。あなたは元社員。プロトコルを知っている」
鵜飼 正嗣
「“元”社員だ。権限は剥奪されている。CISOの鍵?彼が自分で保管していたはずだ」
霧島 凌
「懐から見つかった鍵束タグは再封印の痕跡あり。あなたは講演前、すれ違い様に彼の鍵束を“吸い上げ”、講演中に“戻した”。真空微吸着ツールで」
鵜飼 正嗣
「仮説だ。証拠は?」
霧島 凌
「証拠は、鍵束タグの中に残る“微小な時間の段差”。あなたは鍵の暗号封を破るため、タグのQRNGに外部同期をかけた。その痕が、0.47秒の“遅れ”として残った」
鵜飼の口角が、一瞬だけ不自然な形に跳ねた。弁護士が視線で制する。
弁護士
「推測で人を犯罪者にしないでもらいたい。こちらは全ログを提出する準備がある。あなた方の監視網のズレは、あなた方自身の管理不行き届きだ」
霧島は一礼し、取調室を出る。廊下で如月が待っていた。タブレットには、被害者の経歴、鵜飼の退職前後の権限移管ログ、そして配信会社の時刻同期系の構成図が並ぶ。
如月 沙耶
「配信会社のPTPマスターは、港区のサブノードを“補助基準”として見てた。停電や切断時のフェイルオーバー設定。犯人はそこを突いた。講演会場のすべてのカメラとミキサーは、数十秒だけ“遅れた時刻”に従って動いた。だから、鵜飼が舞台上にいる“22:17”という映像は、本当は22:16台の出来事」
霧島 凌
「その間に、現場で刺した。刃物は?」
如月 沙耶
「見つかってない。3Dプリントの単結晶セラミック刃だろう。使用後は粉砕機で微粉にして、床材のポリマーに再溶融した可能性。対流拡散方程式と温度履歴から、床面の局所に不自然なケルビン上昇がある。さっきラボにサンプル送った」
事件は、理屈の上では解けかけている。だが、霧島は胸の奥で微小なざわつきを抑えきれなかった。0.47という値が、彼にとって“既視感”だったからだ。
二年前の事故。高速走行中の搬送ドローンが、突然コースを外れて霧島の車に衝突した。その時、都市のPTPが0.47秒ズレたという技術報告を、彼はリハビリ室で読んでいた。あのノイズ、あの吐き気、あの“遅れ”。霧島の後頭部の人工硬膜を走るホワイトノイズが、ふと音階を持つ――気がした。
係長・牧野 稔が現場指揮車から顔を出す。年季の入った皮靴、雨に濡れても崩れない背筋。
牧野 稔
「霧島、いい線をいってる。ただ、鵜飼を落とすには決定打がいる。時間の遅れは都市の“環境要因”にされる。奴は言い逃れる」
霧島 凌
「決定打……鍵束タグの“段差”の再現実験を。外部同期に必要な周波数掃引の跡が、タグのフェリ磁性体に残存している可能性がある。磁区の向きの偏りを、低温走査で写せば」
牧野 稔
「科警研に投げろ。だが時間はない。明朝には記者会見だ」
霧島は現場から少し離れた、薄暗い連絡通路に足を踏み入れた。嫌な気配がする。壁面パネルの継ぎ目、清掃用ハッチの縁に、黒いインクで描かれた奇妙な記号。Σを崩したような形に、三本の短いハッシュ。見覚えがある。彼の後頭部の手術痕の近く、剃刀の刃が走った跡の脇に、同じ形の薄い痣があるのだ。医師は「血腫の名残り」と言ったが、霧島は一度も納得したことがない。
如月が近寄ってくる。
如月 沙耶
「それ、知ってる記号?」
霧島 凌
「いや……今は違う。見なかったことにしてくれ」
如月 沙耶
「そういうの、いちばん見逃しちゃいけないやつ」
霧島は無言で記号を撮影し、座標と時刻印を付与、封印フォルダに入れた。封印には自身の脳波パターン署名を用いる。彼はふと、自分の呼吸が合わなくなるのを感じた。都市の「遅れ」が、自身の「遅れ」と重なる時、脳内に薄い霧が降りる。意識の縁がぼやけ、記憶の輪郭が微振動する。彼はポケットの中で、硬い金属片を握った。母がくれた古い懐中時計。ゼンマイはとうに切れているが、掌の重みが彼を現実へ接続する。
ラボに戻る。如月が床材サンプルの熱履歴を可視化している。単純な熱だまりではない。フラクタル様の緩衝パターン。高周波の超音波粉砕と、瞬間局所加熱の合わせ技だ。”プロトコル化された犯罪”つまり、犯人は実験済み。テンプレートがある。
如月 沙耶
「霧島、見て。粉砕後の粒度分布が“人為的に美しすぎる”。自然なばらつきがない。しかも、分布の峰が三箇所。Σに三本のハッシュ。さっきの記号と一致する」
霧島 凌
「犯人の署名か。あるいは、誰かへの合図」
霧島は端末でイオニス・キャピタルの内部通達を洗う。二年前の“PTP異常事件”の技術資料がヒットする。作成者欄――白鳥 朔、共同執筆――鵜飼 正嗣。彼らは同じ異常を共有し、その修復に携わっていた。ならば、今日の手口は、修復手順の“逆回し”。
牧野から短い指示が飛ぶ。科警研、鍵束タグの低温走査、可。電子スピン共鳴”ESR”で磁区の偏りを可視化する。タグの腹に潜む「時間の段差」が、目に見えるかもしれない。
徹夜の準備をしながら、霧島はこめかみの疼きに指を当てた。Σと三本のハッシュ。脳裏に浮かぶ手術台の白、遠のく蛍光灯。断片的な記憶は、いつもそこまでで途切れる。あの日、彼は何を見て、何を閉じ込めたのか。
午前二時、科警研から画像が上がる。黒いタグの体内に、薄い年輪のような干渉縞。その縞のずれが、見事に0.47秒相当の外部同期パターンと一致した。決定打だ。鍵束は“遅らされた”。その遅れは、犯行のため。犯人は鍵を掌握し、PTPを揺らし、アリバイを鋳型から抜くように成形した。
霧島は、取調べ再開の準備をする。鵜飼の“完璧なアリバイ”は、今や「遅延の産物」にすぎない。だが同時に、胸の内の別の事件が、静かに濃度を増す。二年前の自分。0.47秒の都市。Σと三本のハッシュ。白鳥と鵜飼の技術資料。点は、線になりたがっている。
――その時、端末が震えた。差出人不明のテキスト。添付は一枚の画像。手術室の天井と思しきパネルに、黒いインクで描かれた記号。Σと三本のハッシュ。そして、短い一行。
差出人不明
「霧島 凌。君は“遅れて”ここにいる」
霧島は無意識に、止まった懐中時計を握りしめた。金属の冷たさが、現実を輪郭づける。だが、その輪郭の外側に、さらに薄い影が伸びている気配を、彼は確かに感じていた。
霧島 凌
「……必ず、追いつく」
彼は独り言を飲み込み、神経接続型携行端末を再び耳に嵌める。都市の全てのクロックが、わずかに鼓動を早めた。
如月 沙耶
「霧島、行くよ。時間は、待ってくれない」
霧島 凌
「時間は、“待たされた”。だから、取り戻す」
雨は小止みになり、夜の縁に薄明が差す。港区の再開発エリアを覆う”レイヤード・パリミタ”は次第に透明度を上げ、空の灰色へと溶けていく。
誤字脱字がありましたらすみません🙇🏻♀️
ここまで読んで頂きありがとうございます。
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