テラーノベル
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廃工場の外は騒がしかった。
パトカーの赤色灯。
無線の声。
走り回る捜査員。
その中を、
志摩一未は歩いていた。
腕の中に――
伊吹藍を抱えたまま。
伊吹はぐったりしている。
でも。
志摩の服を、指で掴んでいた。
弱い力。
でも離さない。
志摩は一度その手を見る。
そして小さく言う。
「……離さなくていい」
誰にも聞こえない声。
救急隊が近づいてくる。
「こちらへ!」
志摩は首を振る。
「後でいい」
隊員が驚く。
「でも――」
志摩は伊吹を見る。
焦点の合わない目。
かすかな呼吸。
そして服を掴む手。
志摩は静かに言う。
「離すとパニックになる」
隊員は言葉を飲み込んだ。
「……分かりました」
志摩はそのまま車へ向かう。
機捜の車。
ドアを開ける。
後部座席に座る。
伊吹を抱えたまま。
ドアが閉まる。
外の音が少し遠くなる。
車内は静かだった。
志摩は伊吹の顔を見る。
「……伊吹」
返事はない。
伊吹の目は半分閉じている。
口が少し動く。
「あ……」
志摩はゆっくり言う。
「大丈夫」
伊吹の眉が少し動く。
志摩は続ける。
「もう終わった」
伊吹の指が、また志摩の服を握る。
志摩はその手を軽く握る。
「ここ安全」
低く、落ち着いた声。
「俺いる」
伊吹の呼吸が少し落ち着く。
志摩は何度も言う。
「大丈夫」
「もう大丈夫だ」
数分。
車の中でそれを繰り返す。
伊吹はぼんやり志摩を見ている。
そして、
小さく声を出す。
「あ……」
志摩はすぐ答える。
「志摩」
ゆっくり言う。
「志摩一未」
伊吹の口が動く。
「……し……」
でも続かない。
志摩は急がせない。
「いい」
小さく言う。
「思い出さなくていい」
伊吹の額に手を当てる。
「また最初からでいい」
伊吹はぼんやり見ている。
でも。
志摩の服を掴む手だけは、
少し強くなった。
志摩はその手を見て、
小さく息を吐く。
そして静かに呟く。
「……バカ」
「ほんとに」
声が少しだけ低くなる。
「心配かけやがって」
伊吹は意味が分からないまま、
でも少し安心したみたいに
志摩の肩に額を寄せた。
志摩は動かなかった。
そのまま、
伊吹を抱えたまま。
ただ、静かに言った。
「もう離さない」
誰に言うでもなく。
小さな声で。
病院の個室は静かだった。
白い天井。
規則的な機械の音。
ベッドに横になっているのは、伊吹藍。
目は閉じている。
眠っているけど、落ち着かない呼吸。
その横に椅子を置いて座っているのが――
志摩一未だった。
腕を組んだまま、伊吹を見ている。
医者がカルテを閉じた。
「命に関わる状態ではありません」
志摩は小さく頷く。
「ただ」
医者が続ける。
「精神的なショックが強い」
「記憶や言葉が一時的に乱れている可能性があります」
志摩は黙って聞く。
医者は伊吹を見る。
「そばに信頼できる人がいると回復は早いでしょう」
志摩は短く言う。
「います」
医者は軽く頷いた。
部屋を出ていく。
静かになる。
志摩は椅子に座ったまま、
伊吹の手を見る。
点滴の管。
少し冷たい指。
志摩はその手を軽く握る。
「……伊吹」
返事はない。
志摩は視線を落とす。
「遅かったな」
誰に言うでもない声。
「もっと早く見つけられた」
沈黙。
志摩は小さく息を吐く。
「……悪い」
その時だった。
伊吹の指が動いた。
志摩の服を掴む。
志摩が顔を上げる。
伊吹の目が少し開いている。
ぼんやりした視線。
「……伊吹」
伊吹は志摩を見ている。
焦点はまだ曖昧。
でも。
服は離さない。
「……あ……」
小さな声。
志摩はすぐ近づく。
「俺」
静かに言う。
「志摩」
伊吹の眉が少し動く。
「あ……」
志摩はゆっくり言う。
「志摩一未」
伊吹はしばらく見ていた。
そして、
小さく声を出す。
「……し……」
志摩の喉が動く。
「……そう」
伊吹は言葉が続かない。
でも。
志摩の服を強く掴む。
離さない。
志摩はそれを見て、
ほんの少しだけ笑った。
「分かった」
低い声。
「ここいる」
伊吹の呼吸が少し落ち着く。
志摩は椅子をベッドの横に寄せる。
そのまま座る。
伊吹の手はまだ服を掴んでいる。
志摩はそれをほどかない。
そのまま言う。
「寝てていいよ」
伊吹はぼんやり見ている。
志摩がもう一度言う。
「俺いる」
数秒。
伊吹のまぶたがゆっくり閉じる。
呼吸が静かになる。
眠った。
でも。
服は離さない。
志摩はしばらくその手を見ていた。
そして小さく呟く。
「……ほんと」
「手のかかる相棒」
でもその声は、
少しだけ優しかった。
志摩はそのまま椅子に座り続ける。
夜が深くなっても。
看護師が来ても。
朝になっても。
ずっと
そこにいた。
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