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「それで……かつおを放り込んで味わったところで余波が消えぬうちにぎゅいーっ! とキンッキンに冷やされた冷酒を飲み込むの。たまらないわよ絶対」
彼女の勧めに従い、先ずかつおのたたきから。……美味い。藁で焼かれたのだろう、ほのかに漂う炭火の風味が心地よい。そしてその余韻が消えぬうちにキリリと冷やされた冷酒を口に含む。
「くぁーっ。たっまんないねえ」
広坂の反応をにこにこと彼女は見守る。彼女のほうは、お酒は一口程度で我慢している。大好きなビールもノンアルコールで。
「なんか、……悪いね」
「なにが?」
「いや、……おれのほうばっかぎゅいぎゅいいっちゃって。きみも、飲みたいでしょう?」
「――もしものことがあったらって考えると、ね……」目を伏せ、刺身に手を伸ばす彼女は、「あのときああしていればよかった、っていう、後悔なんか、したくないの……。随分と回り道をしてきたから」
「……そうだね」広坂は思う。もし――自分がもう少し早く想いを表明していたら。あの山崎とさっさと別れさせて自分を選ぶよう告白していたら……。
いや、それはない、と彼は思う。結局この、夏妃と出会ってからの十年近くの歳月というものは、自分たちが考え、結論を出すうえで必要な年月だったのだと……。
後悔など、したくない。それでも、最初から『ああしていれば』と思うことはあれど、その都度その都度一生懸命考えた財産がこの結果なのだ。後悔することはあれど、過去の自分に誇りを持ちたい……広坂はそう思っている。
「あのお魚屋さん美味しいよね?」広坂は話題を膨らませる。「いっつもすごいひとで……休日なんか行列が出来るんだよ。年末年始なんかすごいことになる。おれいっぺん、実家に帰るついでに買ってったことあったけど……四五千円くらいのが売られてたかなあ? 年末スペシャル……だったよ。あとあすこの近くのまぐろ屋さんもめっちゃ美味い。今度買いに行こう?」
「……うん」
「なんか悩んでる?」
「……ん。なんで、毎日毎日こんなに愛し合っているのに、赤ちゃん、出来ないのかなあって……毎月きっかりやってくる生理が呪わしいくらいよ」
「……うん」と広坂は箸を止め、「昔だとさぁ、結婚して五年くらいで子どもが出来ないと不妊の疑いがあるから婦人科クリニックにかかってた……みたいだけど。いまだと一年や三年区切りでクリニック行くんだってね? ……辛い? ごめんね、きみばっか我慢させちゃって……」
「うーん。というより、出来ないことのほうが辛いかなあ……ここやっぱ家族連れが多いし。広坂さん、よく耐えられたよねえ……」
「それはもう、強力な結界張ってましたから」とおどける広坂。「幸せそうな親子四人とか見ても、なにも感じないように、無意識のうちに自分を、押し殺していた。おれのなかでいつしかそれが当たり前となり、なにを見てもなにも感じない……きみの推察した通り、無感動で無自覚な自分を、生成していた……それがおれにとっての生きることだった。
変えたのはきみだよ――夏妃。
きみと出会えたから、おれは自分の感情を取り戻せた。こんなに自分が感情豊かだなんて……知らなかったんだよ」
「週末はベトナム料理だよねえ」目を輝かせる彼女は、「うーん。楽しみぃー!」
ベトナム料理というのは、彼らの宅の近所にある料理店である。フォーが有名で。ランチは別としてディナーは予約必須。電車に乗って遠方からわざわざ訪れる客もいるらしい。こんな店が近所にあることが驚きだが……。
さて約束の土曜日の夜。開店きっかりに店に入る。
こじんまりとした料理屋という印象だ。テーブルや椅子が並び、トイレにすだれがかかる、ベトナムの音楽が流れる……以外は、別段日本食の定食屋さんと変わらない。
広坂が過去ここを訪れたのはランチだ。ランチの時間はランチメニューしか出さないので、せっかくなのでと、夜ならではのメニューを頼むこととする。生春巻き。揚げ春巻きが乗ったフォー。オーブンで焼いたスペアリブ。ベトナム風お好み焼き……。
店は、予約客で満杯で、親切そうなベトナム人の店主や奥さんであろう店員が、入り口に向かうたびにごめんなさいねえと挨拶をしていた。
シェフは店主ひとりであるため、やや料理に時間はかかる。然れどもこの期待感を損なうほどの威力は持たない。みんな、楽しみにしている。
さて手始めに揚げ春巻きの乗ったフォーから。フォーといえば熱いスープで飲むのが定番に思えるが……その昔羽田空港にもベトナム料理があったはず。
しかし、こちらの店でのこの料理。フォーという米麺のうえに揚げ春巻き及びたっぷりの刻まれた野菜が乗っており、後からあまくてすっぱいソースをかけて混ぜ混ぜにして味わうのだ。ものすごい量をふたりで分け合う。味を知る広坂は彼女に先に譲った。予想通り、
「美味っしい……!」
「でしょ」と広坂。「ぼくねえ、この店で食べるまで、パクチー駄目だったの。でもここで食べてみて美味さに……開眼した」
彼女は、気持ちいいほどによく食べる。夕食以外はさほど食べないようで、そこでバランスを取っているのか。或いは飽きるほどセックスを重ねているゆえ、消費できているのか。相変わらず、華奢で、強く抱いたら折れてしまうんじゃないかと、不安になるほどだ。
「譲さんも……食べて?」
一気に半分ほどを平らげた彼女から皿を受け取る。よく知る味……けれども毎度美味い。何層にも重ねられた揚げ春巻きは、いままでに見たことのない景色を見せてくれるし、甘酸っぱいソース、細い麺との噛み合わせがたまらない。加えて、アクセントを与えるかりかりとしたナッツ、パクチーや野菜の風味の豊かなことといったら。
生春巻きも、香草が利いていて、美味い。揚げ春巻きとはまた違った味わいで絶妙。狭いテーブルにどんどん料理が足されていき、彼らは急ぎ食さざるを得ない。けれどもそれは、幸せなひとときであった。周りの喧騒のなか……みんなが語らい、よく食べてよく飲む中で自分たちの時間を堪能する。愛する女と向き合い、美味しい料理に舌鼓を打つこのときが、広坂にとっての幸せであった。
「いぎゃ。2kg、増えてるぅ……!」
「食べたあとだから当然だよ」
「ねえ広坂さん」風呂上がりにはだかのまま振り返る彼女は、「ドレス、きつかったらどうしよ……やだやだやだ。結婚式直前だっていうのに、あたしったら、ばくばく食べてばかりで……どうしよ」
「――答えは簡単さ」
「というと?」
と広坂は疑問を口にする彼女の髪を撫で、
「食べたぶんは消費すればいい」
腹いっぱいに食欲を満たした彼らが続いての欲を満たしきるまでにさほどの時間はかからなかった。
*