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寒空からこぼれる月の薄明かりが、凍てつく空気に淡く射し込む。
肌を刺すような冷たさに、チカは襟元をぎゅっとかき寄せた。
明日から、いよいよ12月が始まる。
そしてチカ、ミサキ、タカユキの三人は――ついに、スタイリストとしての第一歩を踏み出す。
初めて自分が担当するお客様は、どんな人だろう。
胸が高鳴る一方で、不安もじわりと膨らむ。
それでも、冷たい夜道を急ぎながら、チカの足取りにはどこか希望が宿っていた。
「ただいま」
いつものように、誰もいない部屋に向かって小さく呟く。
部屋は静かで、テレビも点けず、レンジの音だけがやけに響いた。
夕食を食べながら、無意識にケータイを手に取る。
――付き合い始めた頃、“おやすみ”のメールを読むのが、いつの間にか眠る前の日課になっていた。
だから、なかなかメールが来ない夜は、朝方までケータイを握りしめていた。
そしてようやく届いたあなたのメッセージは、少しだけ低姿勢で――
それがどこか可笑しくて、でも妙に愛しくて、何よりも「ホッとした」。
そんな日々の中で、季節はいくつか過ぎ去った。
そして今――あなたから“おやすみ”のメールは、もう届かない。
けれど、不思議と眠れない夜はなくなった。
「チカ……おやすみ」
今は、耳元でそう囁いてくれるから。
緊張のせいか、目覚ましが鳴るよりもずっと早く、チカは目を覚ました。
隣で静かに眠るケンを起こさないよう、そっとベッドを抜け出す。
今日、ケンは午後から撮影の仕事が入っていた。
ケンのためにお弁当を作ろうと、チカはまだ薄暗いキッチンへと立った。
今日から、スタイリスト――。
何度そう思ってみても、どこか現実味がない。
嬉しさと不安が入り混じって、心の中で波のように揺れていた。
キッチンに立ちながら、手を動かしつつも、頭の中ではそのことばかりが巡る。
「おはよう」
背後からふいに聞こえたケンの声に、チカの肩の力がすっと抜けた。
「ごめん、起こしちゃった?」
「大丈夫。今日は早起きだね」
「なんか……目が覚めちゃって」
「今日からデビューだもんね」
ケンはそっとチカの背中に腕を回し、温もりをまとったまま耳元で囁く。
「チカが頑張ってたの、誰よりも俺が知ってる。チカなら、きっと大丈夫」
さっきまで胸に渦巻いていた不安は、ケンのその声と温もりに包まれて、すうっと溶けていく。
「ありがとう!」
その一言にすべての感情を込めて、チカは微笑んだ。
出勤の支度を終え、ケンに見送られて玄関を出る。
誰よりも早く店に着き、真っ先に予約表へと目をやった。
スタイリスト欄にしっかりと刻まれた「チカ」の名前――
それを見つめた瞬間、ようやく実感が胸の奥からこみ上げてきた。
視線を下へ移すと、自分の予約欄にこう記されていた。
[午前10時 ネリネ様/カット・パーマ・カラー・トリートメント]
――ネリネ?
昨日の退店時には、そんな予約は入っていなかった。
しかも、まさかの「指名」。
いったい、誰だろう――?
思わず出勤してきたミサキに尋ねてみたが、彼女も首をかしげるばかりだった。
それでも、初日から指名でお客様を迎えられるという幸運に、胸は高鳴る。
緊張と期待を抱えながら、チカは万全の準備でオープンの時刻――午前10時を待った。
そしてついに、オープンを迎える。
「いらっしゃいませ!」
受付から明るい声が響き、チカは胸を高鳴らせながらエントランスへと急いだ。
そして、そこで彼女が目にしたのは――ケンの姿だった。
「ケン!? どうしたの?」
「ジュンにお願いして、予約を入れたんだ」
「まさか……“ネリネ”って、ケンだったの? だから今日は午後からの仕事にしたの?」
ケンは少し照れくさそうに、けれど何度も頷いた。
――初めて担当するお客様がケンだなんて。
こんなに嬉しいことが、他にあるだろうか。
セット面へと彼を案内しながら、チカは自然と頬が緩むのを止められなかった。
「本日担当させていただくチカです! どうぞ、よろしくお願いします!」
「こちらこそ、お願いします」
鏡越しに目が合い、ふたりの間に照れ笑いが浮かぶ。
「チカがスタイリストになるまで、ずっと我慢してたんだ」
あなたは、いつも一番近くで応援してくれていた。
わたしの夢を、わたし以上に信じてくれていた。
今、こうしてスタイリストとしてこの場に立てているのは、あなたのおかげだ――。
ありがとう。
「でも、どうして“ネリネ”って名前で予約したの?」
「ネリネはチカの好きな花でしょ? 朝、予約表を見た時に元気が出るかなと思って」
「……元気出た! すごく元気出たよ。ありがとう!」
言葉の途中で声が震えた。
チカの瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
施術が始まる。
相手がケンだというのに、いや、ケンだからこそ――チカの手は緊張で微かに震えていた。
それでも何とか無事に施術を終え、チカはケンを見送るため、店の外まで出た。
「チカのスタイリスト姿を、最初に見られて本当によかった」
「私のほうこそ……ありがとう。いってらっしゃい!」
チカは歩き去っていくケンの背中に、大きく手を振った。
その後も次々にお客様を担当し、慣れない施術と緊張の連続で心身はすっかり疲れ切っていた。
営業終了の頃には、立っているのもやっとという状態だった。
それでもチカはなんとか足を動かし、自宅のドアを開ける。
「ただいま……」
部屋の明かりをつけた瞬間、テーブルの上に置かれた小さな箱と1通の手紙が目に入った。
心を弾ませながらそっと箱を開けると、中には可愛らしいケーキが入っていた。
ふっと頬が緩み、知らぬ間に溜まっていた疲労がふわりと霧のようにほどけていった。
そして、震える手で静かに手紙を開く――。
* * * * * *
チカへ
スタイリストデビュー、本当におめでとう。
そして2時間くらい早いけど、記念日もおめでとう。
今日はきっと疲れたと思うから、先に休んでいてね。
ケン
* * * * * *
ケンは、毎月二日を「記念日」と呼んでケーキを買ってきてくれる。
どんなに忙しくても、どんなに疲れていても、それだけは欠かさなかった。
明日でチカとケンが付き合い始めてから、10回目の記念日を迎える。
【2006年12月4日(月)】
この日のために、ケンは連休を取ってくれていた。
チカも、前から「空けておいて」と言われていたこの日にあわせて、有給休暇を取っていた。
行き先は知らされていない。
けれど、数日前にぽつりと告げられた「ドレスコードがあるよ」という言葉に、ただならぬ期待が高まっていた。
着慣れない黒のワンピースに身を包み、見慣れないスーツ姿のケンと並んで、お台場へと向かう。
駅を降りると、目の前に東京湾が広がっていた。
沈みゆく夕陽が、巨大な白い客船をまるで溶かすように包み込んでいく。
「はい」
そう言ってケンが差し出してきたチケットには――
“クルージングディナーコース”の文字。
その瞬間、胸の奥でときめきが爆ぜる。
スーツを着たケンを見るだけでも、胸の鼓動が収まらないのに――
今は、それとはまた違う音が、重なるように心の中で鳴り響いている。
まるで、恋と感動の二重奏のように。
船内に入ると、まるで高級ホテルのような煌びやかなロビーが広がっていた。
そこを抜けると案内されたのは、ガラス張りの広いレストランフロア。
中央には白いグランドピアノが置かれ、窓際の席がふたりを迎えてくれる。
窓に広がる黄昏がまるで1枚の絵画のように輝き始めた頃――
低く響く汽笛の音とともに、船が静かに出航した。
慣れないフレンチに戸惑いながらも、変わりゆく東京の夜景を背景に会話は弾んでいく。
たまに、ケンは愛らしい一面を見せる。
「ケン……ナイフとフォーク、左右逆じゃない?」
「あっ……本当だ」
ケンは照れ笑いを浮かべながら、慌てて持ち替える。
その額には、うっすらと汗がにじんでいた。
――緊張してるのは、私だけじゃないんだ。
そんなことを思いながらも、どこか心地いい緊張感のまま、ディナーは進んでいった。
そして、食事が終わりかけたそのとき。
レストランに静かに流れていたピアノの音色が、ふと変わる。
柔らかく紡がれた旋律は、誰もが知る“ハッピーバースデー”のメロディへと姿を変えた。
その曲とともに運ばれてきた、ロウソクの灯るバースデーケーキ――
それを見た瞬間、チカは思わず口元を手で覆い、言葉を失った。
「誕生日、おめでとう」
静かに、けれどまっすぐにそう言ったケンの言葉に、チカは両手で顔を覆い、感極まったまま、しばらく顔を上げられなかった。
「あと……これ」
ケンがそっと差し出してきたのは、小さな長方形の箱。
自分で包んだのだろうか。
淡いリボンと温かみのある紙の感触に、彼の不器用な優しさがにじんでいた。
「これは今日、俺が眠ってから開けて」
ケンがそう言って差し出した箱を見つめながら、チカは小さく頷いた。
「気になるけど……ケンがそう言うなら、我慢する! ……実は、私からもプレゼントがあるの!」
「えっ? どうして?」
「だって……ケンの誕生日、ちゃんと祝えなかったでしょ?」
あの日のことが、ふたりの胸に静かに甦る。
もちろん、ケンの傷はまだ完全には癒えていない。
あの日は、誕生日を祝うどころではなかった。
「そうかもしれないけど、俺は毎日のようにチカからプレゼントをもらってるよ」
「えっ? 私、何かあげてる?」
「幸せな毎日と、笑顔」
真顔で、まっすぐにそう言いきったケンを見て、チカは思わず視線を逸らした。
胸が熱くなって、顔が火照る。
それを隠すように、慌てて自分の鞄から小さな包みを取り出し、ケンに差し出した。
「遅くなっちゃったけど、誕生日おめでとう!」
「チカ……いつも、本当にありがとう」
ケンの目が伏せられる。
その瞳の奥に浮かんだ光は、どこか切なさを含んでいた。
「私のは、今開けていいよ!」
チカに促され、ケンは静かに包み紙を解いた。
中から現れたのは、小さなゴールドのフープピアス。
「……ありがとう」
声が震えそうになるのを押さえながら、ケンが呟いた。
「こちらこそ。――生まれてきてくれて、ありがとう」
チカのその囁きに、ケンの肩がわずかに揺れた。
視線を落としたまま、彼は言葉を飲み込むようにして、涙を堪える。
――あなたは、私の知らない「幸せ」を運んできてくれた。
あなたがくれたのは、“特別”という名の時間だった。
きっと、“当たり前”だと思っていた毎日が、本当はどれほど特別で、どれほど大切で、どれほど幸せなものだったのか――そのことを、私はあなたと出会って知った。
だから、私は今日も心から思う。
この“当たり前”に、ありがとう。
この“日常”に、ありがとう。
そして――あなたに、ありがとう。
デートの帰り道。
ここ最近は決まって、ケンがコンビニに立ち寄るのがお決まりになっていた。
彼のお目当ては、カフェカップのようなプラスチック容器に詰められた――チロルチョコ。
それを頬張りながら、無邪気な笑顔で歩く彼の姿がなんとも可愛らしい。
ビシッとスーツを着こなしているのに、手には子どもみたいなお菓子。
そのギャップがたまらなく愛おしかった。
「残り、あげる」
ケンがそう言って、さっきまで食べていたカップをチカに差し出す。
「どうせ、もう中身は入ってないんでしょ? いつもみたいに」
「ちゃんと入ってるよ」
カップを軽く振ると、カラカラッ……と乾いた音が鳴った。
「ほんとだ……!」
驚きと期待の入り混じる表情でチカはカップを傾け、そっと手のひらを差し出す。
転がり出てきたのは――チロルチョコではなかった。
キラリと輝く、細身のプラチナの“指輪”だった。
一瞬、息が止まる。
そして、次の瞬間には言葉よりも早く、涙が頬を伝い落ちていた。
「改めて誕生日、おめでとう。お揃いのペアリングだよ」
そう言ってケンが左手を差し出す。
彼の薬指にも、同じ指輪が光っていた。
「……嬉しい。ありがとう……」
あふれる涙を拭うのも忘れて、チカはただただその指輪を見つめた。
「チカはほんとに泣き虫だな」
ケンがチカの頭を撫でる。その手の温もりが、胸の奥までじんわり染み渡っていく。
「貸してごらん」
ケンはチカの手からそっと指輪を受け取ると、優しく、左手の薬指にそのリングをはめた。
そして、両腕を広げ――チカを包み込んだ。
「この先、どんなことがあっても、チカは俺の全てだってこと、忘れないでいてほしい。ただ、ただ……君を愛してる」
言葉のひとつひとつが、体温を持って心に染み込んでいく。
チカはケンの胸に顔を埋めながら、声にならない嗚咽を押し殺すように、こくりと頷いた。
「ねえ……今の言葉、メールで送ってほしい。永遠に保存しておきたい、大切な言葉だから」
「あとで送っておくよ」
ケンはもう一度、ギュッと強くチカを抱き締めた。
まるで、心ごと繋ぎ止めようとするように――。
“あの箱の中身は何だろう?”
一瞬、そんな思いが胸をよぎったが、今はもう少し、この幸せな時間のままでいたい。
チカはそっとその想いを胸の奥にしまい込んだ。
そのとき、耳元でふわりと吐息のような囁きが舞い降りてくる。
「今日は特別に、チカの願いをひとつだけ叶えてあげる」
考える間もなく、チカの唇は自然に願いを紡いでいた。
「これからも、ケンのメイクでたくさんの人が幸せになって……その場所に、たくさんの“笑顔”が生まれますように。……それが、私の願い」
抱き締められたまま、チカはケンの腕にわずかに力が込められたのを感じた。
見えないその表情に、言葉にはならない想いが滲んでいるような気がした。
――私は、心からそう願う。
そして思い出す。
前にあなたが言っていた、『君は、願いが“二つ”叶うとしたら、何を願う?』という言葉。
もしも……もう一つだけ願えるのなら。
そのとき、ケンの隣にいるのが、私でありますように――。
そう願った瞬間、チカの手の甲にひんやりとしたものが落ちてきた。
「あっ、今年の初雪」
白く小さな粒が、空から静かに舞い降りてくる。
チカとケンは揃って空を見上げた。
夜空に踊る粉雪が、音もなく世界をやさしく包み込んでいく。
「前から思ってたんだけど、ケンって雪みたいな人だよね。白くて純粋な心を持ってて、ふわふわした優しさがあって……降るたびに、人の心を笑顔に変える」
その言葉に、ケンは雪空を見上げたまま、どこか物悲しげに微笑んだ。
「……風邪ひくといけないから、帰ろう」
そう言って差し出された左手を、チカはしっかりと握った。
ぬくもりの通い合う手と手をつなぎ、二人は静かに家路を急いだ。
帰宅してしばらくすると、積もっていた疲れに体を預けるように、チカは眠りに落ちた。
隣では、ケンが穏やかな寝息を立てている。
――どれくらい時間が経ったのだろう。
ふと目を覚ましたチカは、暗がりの中でぼんやりと天井を見つめた。
隣を見れば、変わらずケンが静かに眠っている。
その寝顔をそっと見つめるうちに、あの言葉を思い出した。
「これは今日、俺が眠ってから開けて」
静かに体を起こし、チカはそっと布団から抜け出す。
そしてテーブルの上に置かれていたあの箱を手に取った。
胸の奥に灯る小さな緊張と期待を抱えながら、リボンをほどき、蓋を開ける。
中に入っていたのは――一通の封筒だった。
* * * * * *
愛するチカへ
23歳の誕生日、おめでとう。
君がこの世に生まれてきてくれた日を、隣で祝えることを心から幸せに思う。
出逢った頃の俺は、誰かを傷つけるために生まれ、誰かに憎まれるために生きている。そう感じていた。
けれど、君が差し伸べてくれた手に触れて、初めて“生きる意味”を見つけた気がした。
そして、君はたくさんのものをくれた。
本物の“幸せ”を。
“運命”を感じさせてくれる温もりを。
“永遠の愛”を信じる心を。
永遠の愛なんて信じていなかった俺が、君と出逢い感じた永遠の愛。
それは、きっと“本物の永遠の愛”なのだろう。
俺を見つけてくれてありがとう。
いつも隣にいてくれてありがとう。
この先、どんなことがあっても、ただただ、君を愛している。
ケン
* * * * * *
笑顔で瞬きをするたび、涙がこぼれ落ちる。
眠るあなたに向かって、唇だけを動かし、5文字の想いを伝えた。
幸せだった。
それは、美しく色づけられた、輝くような幸せだった。
だからこそ、幸せ以外のものが見えなくなっていたのかもしれない。
もしかすると、見ようとしなかったのかもしれない。
あなたとの幸せな今を胸に刻んだこの日――。
いつか、それが記憶に変わり、あなたが思い出すとき、あなたは何を願うのだろうか?
そう、私たちは、選んだ道を間違えてしまったのかもしれない。
【13日後】
シノブちゃんが亡くなってから、ケンが病院へ足を運ぶ回数が少しずつ増えていた。
ときには、わざわざ休みを取ってまで行く日もあった。
この2週間、ケンの様子はどこかおかしい。
「一人になりたい」
「今度の火曜は会えない」
そう言って、急に距離を置くようになった。
チカの中で、不安だけが膨らんでいく。
そんなある夜――ケンから1通のメールが届いた。
《話したいことがある》
その短いメッセージに、妙な胸騒ぎと拭えない予感が走った。
できることなら、聞きたくない。
でも、どうしても心はケンの言葉を求めていた。
嫌な想像ばかりが頭をよぎる中、チカは部屋でケンの到着をじっと待ち続けた。
――ピンポーン。
チャイムが鳴り、チカは息を詰めるように玄関へと向かった。
「お疲れ様!」
不安を隠すように、いつも通りの笑顔を作って出迎える。
けれど、ケンの瞳は――まるで、出会った頃のように深く、冷たい悲しみを湛えていた。
しばらくの間、何も言葉を交わさず、部屋には重い沈黙が降りていた。
その沈黙に耐え切れず、チカが先に口を開く。
「……話って、何?」
ケンは何度か口を開こうとし、ためらい、唇だけが小さく震えていた。
そして、ようやく言葉を絞り出すように口にした。
「ニューヨークに、戻ることになった」
その瞬間、チカの胸は爆音のような鼓動を打ち始める。
「どうして? どれくらい?」
焦りから声が上ずり、自然と早口になる。
「俺にしかできないことがあるんだ。もう、日本には帰って来られない」
淡々と語るケンの声には、決意と諦念が滲んでいた。
「……私は、どうなるの?」
チカの声はかすれ、震えていた。
「別れよう」
ケンは静かに、それでも容赦なく言った。
チカの頭の中は真っ白になった。
今まで心の奥に巣くっていた不安が、形を持った恐怖へと変わっていく。
「……いやだ。そんなの、絶対にいやだ」
涙が堰を切ったようにあふれ、弾けた。
視界を埋め尽くすほどの涙が、頬を伝ってこぼれ落ちていった。
それでも黙り続けるケンに、チカは堪えきれず感情を爆発させた。
「どうして、何も言ってくれないの? どうして……一緒に来いって、言ってくれないの?」
震える声が静寂を破った。
けれどケンは、眉一つ動かさず、淡々とした口調で言い放った。
「チカにはチカの夢があるだろ。俺には、俺の夢がある」
夢なんて、もうどうでもよかった。
今はただ――あなたを失うことが、何よりも怖かった。
「チカと初めて出会った日に聞いただろ。“夢”と“現実”のどちらを選ぶ? って」
あの日、私は迷いなく言った。
“両方を選ぶ”と。
けれど――
「二つを願えば、一つは失ってしまう」
その言葉をあなたに教えられ、私は立ち尽くした。
もしあの時、“現実”を選んでいたら――
今のあなたの決断は、変わっていたの?
「考えて、はっきりわかった。俺は“夢”を選ぶ」
その瞳を見た瞬間、私は悟ってしまった。
あなたの視線の先に、もう“私”はいない。
部屋のテレビから流れる音は、遠くに霞んでいった。
あなたの声すら、耳に届かなくなっていく。
私は、何も――もう、聞きたくなかった。
「それを、伝えに来ただけだから……」
それだけを告げるあなたは、どこか別人のようだった。
優しかったあなたの姿は、もうどこにもなかった。
「チカなら、もっといい彼氏が見つかる」
その言葉が、私の胸をえぐる。
あなたがいなければ、私は――生きていけないのに。
「……今まで、ありがとう」
そう言い残し、ケンは玄関のドアを開けて、静かに出ていった。
零れないように、両手ですくって守ってきた、あなたの愛。
けれど、それは指の隙間から、音もなく零れ落ちていった。
夢を捨てても、ただ隣にいたかった。
どんな未来でも、一緒に歩いていたかった。
――なのに。
あなたを失った私は、何も残らなかった。
私の笑顔も、涙も――全ては、あなたのためにあった。
あなたは、私の全てだった。
そして今。
その“すべて”を――私は、失ったのだ。
いつもと変わらない目覚ましのベルが、チカを夢から現実へと引き戻す。
ただ――いつもと違うのは、隣にケンがいないということだけだった。
泣き疲れて眠りについたのは、夜が明ける頃だった。
「昨日の出来事が夢だったらいいのに」
何度も、そう思った。
けれど、それは夢ではなく、あまりに残酷で、あまりに悲しい現実だった。
仕事ができる精神状態ではなく、チカは初めて体調不良と偽って職場に連絡を入れた。
外には出たくない。けれど、ひとりにもなりたくなかった。
布団にくるまりながら、チカはこれまでの幸せな日々を思い返していた。
――あなたが、そばにいてくれたから。
私はあなたの名前を呼べた。
私の声があなたに届いて、あなたの瞳に、私が映っていた。
あの日々は、当たり前じゃなかった。
全て、あなたが隣にいてくれたからこその日常だった。
ケンの姿が消えた今でも、部屋には甘く優しい香りだけが残っている。
まるで、まだここにいるようで――
いまにも笑顔のあなたが、ドアを開けて帰ってくるような気がしてならない。
神様――
別れさせるくらいなら、どうして出逢わせたのですか?
これが私たちの“運命”だというのなら、そんなものいらない。
諦めたくない。
諦められるわけがない。
こんな簡単に諦められるような気持ちで、私はあなたを愛してきたんじゃない。
チカは涙をぬぐい、ケータイを手に取ってメールを書き始めた。
《もう一度、ちゃんと話がしたい》
返事はきっと来ない。そう思っていた。
けれど、数時間後――意外にも返信が届いた。
《わかった。22時に井の頭公園の七井橋で待ってる》
もう会えないと思っていた。
でも、これが最後になってしまうかもしれないという恐怖が心を締めつける。
時計の針はたった3時間しか進んでいないのに、何年分にも思えた。
言いたいことは山ほどあったはずなのに、あなたの影が見えた瞬間、何も言えなくなった。
涙があふれ、言葉にならなかった。
もう、いくら泣いても、あなたは涙を拭ってはくれない。
そう悟ったチカは袖で涙を拭い、精一杯の声を振り絞った。
「いっぱい考えたの……」
けれど、ケンは何も言わない。
「私には私の夢があるってケンは言ったけど……私の夢は、ケンの夢を一緒に追いかけること。だから、ケンの隣にいることが私の夢なの」
「……重いんだよ、そういうの」
心の芯まで凍りつくような冷たい声だった。
「チカがニューヨークに来たところで、俺のお荷物になるだけだ」
「誕生日にくれた手紙も……この指輪も……全部、嘘だったの?」
ケンはポケットに手を入れ、左手の薬指を隠した。そして、鼻で笑う。
「まさか、本気で“運命の人”だなんて思ってた?」
「ケンは、私にとって運命の人……」
「運命? そんなもの、ないよ」
そのとき、夜空から雪が舞い降りてきた。
まるで、別れを急かすように冷たい風に乗って、白い結晶が肩に降り積もる。
「どうして、そんなひどいこと言うの?」
「今まで、何度“運命”だと思った出会いがあって、何度別れたと思ってる? 運命なんてない。あるのは、ただ……悲しい現実だけだよ」
冷酷な言葉に、チカはその場に崩れ落ちた。
「それでも……私はケンを愛してる。誰よりも……。私にはケンしかいないの。だから、お願い……そばにいさせて……」
立ち上がり、チカはケンにしがみつくように抱きついた。
その勢いに、ケンの身体が少しよろめく。
「やっぱり……お前って、ウザいな」
静かに、けれど確かな力でケンはチカの手を引き剥がした。
そして、背を向けて歩き出す。
何も言えなかった。
ただ、その背中は、出会った頃と同じ切なさだけを残して、遠ざかっていく。
“振り返って”
心の中で叫ぶ願いさえ、もう届かない。
降りしきる白い雪だけが、悲しみを深めていった。
風に紛れて聞こえた「ありがとう」の声。
誰が言ったのか、もうどうでもよかった。
別れがこんなにも辛いのなら――出逢わなければよかった。
こんな想いを残していくだけなら――好きにならなければよかった。
こんな悲しみしかくれないのなら――愛さなければよかった。
“さようなら”を告げるように、雪は静かに降り続ける。
悲しみに打たれ、チカの身体を白く包み込んでいった。
手を伸ばせば、まだ届いたかもしれない。
けれど――その力は、もう残っていなかった。
伸ばせなかった手に、雪の結晶がそっと落ちては、儚く消えていく。
あなたは、本当に――雪のような人。
だって……そうでしょ?
冷たい言葉と悲しみだけを残し、触れた瞬間に消えてしまう。
そんな、雪のように――私の前から、姿を消したのだから。
ケンが変わってしまった“本当の理由”は、わからない。
伝えられた言葉の裏に、何かが隠されていたのかもしれない。
けれど、それを探ろうとすれば――また、傷つくかもしれない。
知らないほうが、幸せなこともある。
そして、ケンが“別れ”を選んだ本当の理由をチカが知るのは――
それから73日後のことだった。
【翌日】
今日は、定休日の火曜日――。
いつもなら、あなたが隣で「おはよう」と笑ってくれるはずだった。
毎週のように一緒に過ごしていた火曜日。
あなたと過ごさない休日の過ごし方なんて、もう思い出せない。
“ウザい”――
昨日、あなたがそう言って、簡単に投げ捨てたあの日々は、私にとって何よりも大切な、かけがえのない宝物だった。
陽が沈み、空を闇が覆い尽くす頃――
玄関のチャイムが鳴った。
その音に、心が過敏に反応する。
“もしかしたら”という淡い期待が、まだ胸のどこかに残っている。
急いでドアを開けると、そこに立っていたのはミサキだった。
「やっぱりいた……何回も電話したんだよ?」
電話が鳴っていたのはわかっていた。
でも――出られなかった。
昨日、チカは泣きながらミサキに全てを話していた。
「今すぐ行く」と言ってくれた彼女に、「ひとりでいたい」と断った。
あの時は、自分の中の現実を受け入れるためにも、一人になるしかなかった。
「……大丈夫?」
心配そうに覗き込むミサキに、チカは黙って小さく頷いた。
「帰ったほうがいい?」
今度は、無言のまま首を横に振る。
「こんな暗くしちゃだめだよ。余計、落ち込むって」
ミサキが部屋の電気をつけると、久々の光がチカの目にまぶしく差し込んだ。
視界がにじんで細くなる。
「髪……ボッサボサじゃん」
ミサキはチカの髪に手を伸ばし、軽く笑った。
鏡に映った自分の姿に、思わず息をのむ。
腫れぼったいまぶた。頬には涙の跡。
笑えないほど、ひどい顔をしていた。
「でもさ。涙が出るほど誰かを愛せるって……すごいことだよね」
その言葉に、チカがようやく口を開いた。
「愛って……本当に素敵なものなの? だって、愛した途端に、こんなにも心をズタズタにされるんだよ」
それは、自分でも驚くほどに棘のある声だった。
意味もなく、ミサキに八つ当たりしてしまった。
けれど、ミサキはそれを受け止めるように、静かに微笑んだ。
「私は……まだ本気で人を愛したことがないから、わかんないけど。恋と愛って、やっぱり違うもんね……」
本当に、愛を知るって、こんなにも辛いことなの?
もしも、願いがひとつだけ叶うなら――
“もう一度”なんて、もう言わない。
だからせめて、出会う前に戻してください。
あなたの存在を知らなかった、あの頃の私に。
一人で強く生きていた頃の、何も知らない私に――戻してください。
その夜、チカはミサキに2時間ほど、話を聞いてもらった。
どんな言葉も慰めにはならなかったけれど、それでも少しだけ救われた気がした。
「……明日、仕事に来れそう?」
「うん……」
かすかな声で頷き、ミサキを見送る。
でも、現実は思ったよりも厳しかった。
本当に体調を崩してしまい、チカは数日間、仕事を休むことになる。
別れから、二日が過ぎた。
今朝も目を覚ました瞬間、夢だったと気づかされる。
夢の中のあなたと私は、手を繋いで井の頭公園を歩いていた。
立ち止まったあなたは、私をきつく、強く抱き締めてくれた。
「愛してる」
そう言って、優しく微笑んでくれた。
だけど――
一人では、手を繋ぐことも、抱きしめ合うこともできない。
一人で泣くことはできても、一人で笑うことはできない。
「愛してる」
そう言ってくれる人は、もう、いない――。
この指輪だって、本当は意味を成さないことくらい、わかっている。
一人で身につけるだけの、形だけのペアリングなんて。
それでも……外せなかった。
外したくなかった。
本当は、外さなければいけない指輪なのに。
――いつか。
もしも、あなたを本当に忘れられる日が来たら。
そのときは、きっと、この指輪を外そう。
けれど、きっと――
そんな日なんて、永遠に来ない。
この、止まることなく溢れる涙。
それは、今も私の中に生きている“あなた”が作り出している。
……なのに。
どうして、私の前から、いなくなってしまったの?
久しぶりに、窓のカーテンを開けてみた。
夕暮れの空。
どこか寂しげに色褪せていくオレンジのグラデーションを、ただ見つめる。
この、無限に広がる空の下に、あなたも、私も、きっといる。
会えなくても、触れられなくても、見上げる空は同じだと、信じていたい。
……雲が羨ましい。
形を留めることなく、ただ風に流されては、静かに消えていく。
何も残さず、何も縛られずに――。
私の心も、雲と同じであったなら。
こんなにも悲しみに満ちた涙を流すことも、なかっただろうに。
体調は、相変わらず優れない。
きっと明日も、仕事には行けそうにない。
別れから三日が経った。
目が覚めた瞬間、胸の奥にぽっかりと空いた隙間が疼く。
あなたに、逢いたくてたまらなかった。
枕元に置いたままのケータイを手に取り、画面を開く。
でも、そこにあなたからのメールはない。
着信音が鳴るたび、“もしかしたら”そんな淡い希望が胸をよぎる。……もう送られてくるはずもないと、わかっているのに。
付き合っていた頃、毎日のように届いていたあなたのメール。
今となっては、それも遠い記憶に変わりつつある。
あの日を境に、すべてが突然、途切れた。
朝まで何度も、何度も、メールボックスを開いては閉じた。
自分から送ろうと、文章を打ちかけては消して……
その繰り返しばかり。
“逢いたい”その四文字を画面に打ち込むたびに、“もう逢えない”という現実が心をえぐる。
けれど、それでも――
壊れてしまってもいいと思った。
どうしても、気持ちを伝えたかった。
震える指でつづった「逢いたい」の文字。
涙でにじむ画面を見つめながら、私はそのメールを送信した。
数秒後――
“エラー”
表示された無機質な文字列が、視界の隙間から突き刺さるように飛び込んできた。
……あなたは、本当にニューヨークへ行ってしまったのだ。
どうしてもその現実を受け止められず、私はそっとケータイを閉じた。
もう、二度と逢えない。
その残酷な事実を、壊れかけた心に静かに言い聞かせた。
あなたは、私にとって――何よりも、大切な人だった。
まだ伝えたいことが、山ほどあった。
まだ一緒にいたい時間が、果てしなくあった。
だから、今も消せずにいる。
あなたの名前が残るアドレス帳。
そして、変えられずにいる。
あなたが知っている、私のメールアドレス。
……今日もまた、届くはずのないメールと、鳴るはずのない電話を待ち続ける。
携帯を握りしめたまま、静かにまぶたを閉じ眠りについた。
別れから、四日が過ぎた。
夢を見た。
夢の中で、さらに夢を見ている――そんな、夢の夢。
だけど、そこにあなたの姿はなかった。
あなたが、もう遠くへ行ってしまったのだと――
そのことを、改めて突きつけられる。
ただの夢の中ですら、もうあなたに逢うことは叶わない。
あなたは、夢のような人だった。
だから、夢のように静かに、消えてしまった。
それでも忘れられないのは、あの頃が、かけがえのない幸せに満ちていたから。
幸せだった記憶しか浮かんでこないのは、今が、あの頃よりも苦しくて、空虚だから。
忘れたいのに、涙が止まらないのは――今でも、あなたを心から愛している証だから。
言葉にならない悲しみ。
抱えきれない切なさ。
そのすべてが胸を突き上げ、また静かに涙が零れ落ちる。
……けれど。
身体からすべての力が抜けて、ただ泣くだけ泣いたら――
あとは、立ち上がるだけ。
孤独に震えながら涙を流す夜も、悲しみに押し潰されそうになる夜も、それでも、きっと――私は、大丈夫。
この涙が「冷たい」と感じられるうちは、私の心のどこかに、あなたがくれた“温もり”が、まだ残っているから。
【翌日】
空が、ほんのりと明るみを帯び始める。
夜の名残を引きずりながら、新しい一日が、静かに始まろうとしていた。
チカは、久しぶりに身体が軽くなったのを感じ、仕事へ向かう準備を始めた。
部屋の隅にある時計は、昨日から違う時を刻んでいる。
それは、チカ自身の手で、狂わせたものだった。
――海の向こうで、今も生きているあなたと同じ時を刻むように。
けれどそのせいで、家を出る時間を見誤ってしまい、遅刻寸前。
チカは慌てて職場へと走った。
久々に顔を合わせたスタッフたちは、優しい言葉をかけてくれた。
けれどその優しさが、かえって胸を締めつける。
まるで、自分の痛みを見透かされてしまったかのようで――。
仕事とプライベートは分けなきゃいけない。
それは、わかってる。
でも、鏡の中の自分が浮かべる作り笑いにふと気付き、心のどこかで“こんな自分が情けない”と思ってしまう。
そうして、感情を押し殺したまま、なんとかその日の営業を終えた。
けれど、帰る場所には、もうあなたはいない。
温もりも、笑い声も、ただの余韻になってしまった部屋に戻る気になれず、チカは井の頭公園へと足を向けた。
冷えた両手を、ひとりで温めながらベンチに腰掛ける。
吐いた息が白く浮かび、夜の冷たさが静かに頬を刺す。
この場所は、いつも記憶を連れてくる。
私達の“愛”……。
始まりも、終わりも――すべてが、ここにあった。
好きにさせたのも、そして、去っていったのも、あなた。
私がもっと大切にしなかったから壊れてしまったの?
それとも、大切にしすぎてしまったから?
どんな風に愛せば、あなたを失わずに済んだのだろう。
私たちは、背中合わせのまま支え合っていたのかもしれない。
違う景色を見ながら、同じ場所にいるふりをしていたのかもしれない。
答えは、まだ出ない。
けれど確かなのは、あの頃のあなたの笑顔が、私の笑顔を作ってくれていたということ。
今の私は、笑えない。
こぼれるのは、涙ばかり――。
じゃあ、また笑えるようになるには、どれくらいの夜を越えればいいんだろう?
……それは、まだわからない。
でも、少しずつ、乗り越えていこう。
悲しみでいっぱいのこの胸を抱えたままでいい。
立ち止まっても、泣いても、それでも前へ――。
涙であなたの足音を待つ夜も、夢から醒めてあなたがいない朝も、きっといつか、ちゃんと越えていける。
ゆっくりでもいい。
私は、私の歩幅で、生きていく。
ケンとの別れから、もうすぐ2か月――。
チカは、少しずつ“一人”という時間に慣れはじめていた。
これまでケンと過ごしていた火曜日は、いつの間にか、親友のミサキと過ごすことが日常になっていた。
今日は、そのミサキと映画を観に行く約束がある。
少し急ぎ足で待ち合わせ場所へ向かっていると、ケータイが震えた。
画面を開くと、ミサキからのメッセージ。
《着いた! 今どこ?》
赤信号で立ち止まり、すぐに返信を打つ。
《もうすぐ着く!》
送信ボタンを押すと、間もなく返事が届く。
《わかった! 待ってる!》
その画面を見つめながら、青になった信号を渡る。
歩きながらメールを閉じようと指を動かしたとき――誤って、別のボタンを押してしまった。
画面に表示されたのは、たったひとつの保存メール。
忘れられない、あの夜にもらった言葉だった。
《この先、どんなことがあっても、チカは俺の全てだってこと、忘れないでいてほしい。ただ、ただ……君を愛してる》
一瞬で、時間が止まった気がした。
交差点の真ん中で、チカの足はピタリと止まる。
忘れようと必死だった感情が、鮮明に蘇る。
胸の奥から熱いものが込み上げ、目の奥がじわりと滲んだ。
“どんなことがあっても”
あの別れも、その“どんなこと”の中に含まれていたの?
“チカは俺の全て”
もし今でも、あなたの心に“私”がいるのなら――。
そう思った、その瞬間だった。
すぐ横で、大きなブレーキ音が響いた。
反射的に振り向く暇さえなかった。
衝突音とともに、鈍く身体に伝わる衝撃。
チカの視界が、一気に闇に閉ざされていった――。
運命の歯車は、静かに、だが確かに狂い始めていた。
告げられた“終わり”。
まだ知らない“真実”。
願ったはずの“永遠”。
そして訪れる、ひとつの“代償”。
それは、“別れ”よりも痛く、悲しい“再会”だった。
人は、“手に入れたもの”と“手に入れられなかったもの”――
果たして、どちらをより深く、強く、心に刻むのだろうか?