テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
夜、ウィスキーを片手に窓辺から明るい月を見上げていた。
「寝待ち月か」
部屋に灯りを点さなくとも月光が冴えて、窓ガラスに自分の姿が映る。
白いシャツはボタンを外して、整えた髪は少しほどけていた。
ガラスに写る己を見ながら千里様のことを考えた。
最初に仕方ないといえ、こちらを怖い存在だと認識させてしまった。この洋館に連れて来た当初は白い月のように表情がなく。
『私はなにをしたらいいのですか』と泣きも喚きもせず、じっと俺を見ていた。
そのような態度は不要だとこの三ヶ月で真摯的に向き合い、こちらの事情を説明し。どうにか日常会話が出来る間柄にはなった。
そして婚約者という立場も手に入れた。
本当に二十八歳の俺が十六歳の千里様を愛してるいる訳ではなく。あくまで政略結婚的な関係で充分だ。
仙石様に婚約のことを伝え。周知の事実になったら、ここ帝塚山の別荘ではなく。四天王寺の邸宅へと移り住む予定だ。
そこでは千里様に自由な生活を約束出来る。今は千里様の存在は秘密。公にして騒がしくしたくない。
仙石様に婚約を報告し、見届けて頂けたら千里様の立場は確固たるものになるだろう。
それで分家も馬鹿なことはしまい。
それに四天王寺なら都会も近いから、千里様が侍女たちと買い物など興じることが出来る。
そうやって時間を重ねていけば、良好な関係は継続出来るだろう。
彼女の前では模範的な良い大人を演じ続けていけばいい。そうして信頼を勝ち取ればいい。
「全ては家のため。桐生家当主の務めのうち」
まだ婚約と言うことに千里様に迷いが見られるが、
何しろ彼女は自分の血の重さを理解している、いや。今回のことで自覚したと言うべきか。
それも全て時間が解決するだろう。
推し並べて、順調だと思えばカランと氷が入ったグラスが音を立てた。
「そうやっていけば、千里様の中のあの男のことなど忘れる」
千里様はあの男──藤井澪が好きなのだろう。雑木林で見せた彼女の行動は誰が見ても一目瞭然。
気付いてないのは本人だけ。
「であれば、気づかないままの方が都合がいい」
まるで悪役みたいなセリフに笑ってしまう。
しかし、こうなったもの分家が偶然。宇治の山で千里様を見つけだし、愚かにも先走り。千里様を堺の街で見失ったせいだ。
なんでも宇治で療養を終えた外国人外交高官が、昔とても興味深い家族に出会った。その家族は大変教養が高く、茶道に精通していた家族だったと高官達に話したことがことの始まり。
その情報を手にした分家が、千里様の居場所を突き止めた訳である。
「長年、探していた我々がいるのに。時の運とは薄情だ」
苦笑して月をまた見上げる。
分家は千里様を手中に収めることを失敗すると、こそこそと身内の警察署を動かして。
人物の捜索や急に古美術、骨董品買取の店に頻繁に通うなど、不審な動きをした為に俺の預かり知るところとなった。
先走った分家はこの機会に解体してやった。他の分家への見せしめ。
本家がどれほど、淀君様を厚く敬っているか知らない訳ではないだろうに。
その敬意は他ならぬ、淀君様と連なる天子様への忠誠でもある。その忠誠心で桐生家は侯爵仙石家を始め、国の中枢におわす方々の信頼を得ているのだ。それを脅かすものは不要である。
「分家が求めた財宝など、壊れてしまえばガラクタと同じだ」
それよりも価値があるのが千里様。
歴史の背景、血筋、血統。彼女こそ真の財宝。彼女さえいれば、国の中枢へと近づける足掛かりとなる。
そんな存在を商人にくれてやる訳がない。
ふっと笑い、勝利の美酒とまでは行かないがウィスキーを飲めば、芳醇な香りとアルコールが心地よく体に沁みる。
分家が千里様を堺の街で見失い。
俺が事態を把握したとき、丁度。
宗南寺で藤井屋と言う豪商がなにやら素晴らしい茶会を開いたと言う噂を聞いて、もしやと思って調べると千里様を見つけたのだった。
なのに藤井屋の藤井兄弟が千里様を懐に取り組んでしまい。奪回するのに機を伺い、二ヶ月間の時間を要してしまった。
藤井兄弟は千里様のことを何も知らないはず。なのに側に居させていることに大変、違和感を感じた。
もしや二人は──そう言う趣味の変態かと思い。千里様を手籠にでもしているのかと藤井澪、藤井臣、二人のことを出来る限り仔細に調べた。
すると千里様の能力を高く評価して、藤井屋に雇っているということが分かった。
そして、それは大変な評判を産んでいると言うことも。
真正面からの交渉は全てを説明するのに無理がある。千里様をいきなり攫うと事件になる。
だから──あのような手を打った。
その上で藤井澪に相対したとき、ワザと『桐生』と言う名前を出した。
それは調べた結果。この二人は馬鹿ではないと分かったから。伊達に大阪の筆頭有力者なのは認める。
最初は奪われたことに、腹を立てるかも知れないが『桐生』の家に辿りつけば俺の後ろ盾の華族、政治家、官僚達との結び付きが分かると言うもの。
「それが分からない兄弟ではないだろうよ。もう三ヶ月も過ぎた。きっと立場の差が理解出来たと見るべきだな。ふっ、何が『奪い返す』だ。笑わせる」
少しアルコールが回ったのか、月に饒舌に語ってしまった。
気がゆるみ。ここには月しか居ないことを、いいことに僅かな本音が出た。
「千里様は無垢にして聡明。歳など関係なく、その存在に惹かれる高貴性を持っている。まさに高嶺の花だな」
だから群がる虫は潰すだけ。花を守るのは桐生家だけでいいと、残りのウィスキーを煽るのだった。
本日は午後から庁舎に出勤。
すでに制服を身に付けているが、肩の金色の飾緒。詰襟にバッジ。胸元には勲章。やや装飾の多いこの制服は好きではない。本当は現場に出る方が好きなのだが、役職的にそうもいかない。
今日は会議の連続で帰って来るのが遅くなる。その前に今朝届いた桐箱。これを千里様に渡してから出勤しようと思った。
千里様は確かこの時間庭にいるはずだと、足を庭に向けて、館のホールから庭へと出るとすぐに明るい声がした。
「リキ! こっち。ほらおいでっ!」
明るい日差しのなか、グレイハウンドのリキが芝生を力強く駆けて、千里様の元へと口に咥えたボールを運ぶ。
千里様はそれを受け取り。リキの頭を撫でまわし、抱きしめたあと。
華奢な腕でボールを高く放り投げる。するとまたリキが喜んで芝生を駆けて行く。
その様子を庭の木陰から二人のメイドが見守っていた。その近くの庭用の机の上に飲み物や菓子があり、良い息抜きをしていると思った。
手にした桐箱を渡す為に、まずはメイド達に声を掛けようかと近づくと二人の会話が始まり。ふと足を止めて耳を傾けてしまった。
「まぁまぁ。千里様のなんと可愛いらしいこと」
「リキがすぐに懐くのも頷けるわぁ」
「ふふっ。それを言うのなら、黎夜様も可愛い一面もあると思わない? あの実直な方が千里様に花やお菓子を届けているのが、なんだか可愛いらしくて」
「確かに! 普段は笑うことなんて、そうそうないのに、千里様には甘いわよねっ」
キャアキャアと騒ぐメイド達。
……そんな風に思われていたのか。
いや、仮にも婚約者。その千里様に硬い態度を取ってどうする。最初から桐生家が手荒な出迎えをしたのだから丁重に扱うのが筋だ。
それに千里様はまだ十六。大人の女性の扱いより。俺に妹が仮に居たら、と言う思いで接していたこともあるが──。
そう思いながらもメイドの雑談は続き。気になって聞いてしまう。
「そうよねぇ。微笑ましいお二人だわ。でも、千里様が一番笑っているのはリキに対してよね。黎夜様の前ではお人形さんみたいな……気のせいかしら?」
「さぁ。千里様は桐生家の縁がある、とある深窓のご令嬢なんでしょう? きっと千里様は殿方には縁がないのよ。それに黎夜様とは歳が離れ過ぎていて、仕方ないことじゃないかしら。それにどうせ……」
「どうせ?」
「秘密よ。噂だけど黎夜様はそのうち側室を迎えて、千里様をお飾りの妻にするつもりらしいわよっ」
「まぁっ。じゃあ、今は手懐けていると言うことなのかしら……っ!?」
二人のメイドが、さすがに聞き捨てならない会話に熱中する様子を見て。
わざと革靴をカツっと響かせて背後から声を掛けてやると、幽霊にでも出会ったかのように二人は体を強張らせた。
「桐生家、本家のメイドが私の言葉よりも噂を信じるのか。私がいつ側室を迎えると言った?」
低い声で言うと「申し訳ありませんっ」と二人は頭を下げた。その様子を見て「次はない」と短く言葉を吐き切る。
縮こまるメイドを見てこれは、由々しきことかもと思った。
俺は側室を迎える気など毛頭ない。噂の根元を処罰してやりたいが、こうしてメイド達が信じてしまう要素が俺にもあるのだろう。
それはまた、余計な問題を引き起こすかもしれないと思った。
何か対策を取るべきだろうと、考えたとき。俺の足元にボールが転がってきた。そしてハッハッと元気の良い息使いがした。
足元に目をやるとリキがボールを拾い、俺の足元を挨拶をするようにくるくると回った。
「リキっ。ごめんね、変なところにボール投げちゃった」
弾むような声と、たたっとこちらに駆けてくる足音。
音の出所はもちろん千里様だった。
黄色の袖がないワンピースを翻して、明るい柔らかな表情でリキを見つめていたが、私と萎縮するメイド二名を見るとさっと表情を消し去り。
俺に向かっていつものように、格式ばった挨拶をしようとしてくるので止めた。
「千里様、挨拶はいいです。どうぞそのままで」
「は、はい」
ぴたりと動きを止めた千里様にリキがボールを咥えて『遊ぼう』と、前足を千里様に向かって上げて甘え出した。
千里様は「今はダメだよ。大人しくして」と、慌てて宥めるので俺がヒュッと口笛を短く吹くと、リキはピタッと動きを止め。ボールを離してその場に座った。
「凄い。リキが大人しくなっちゃった」
驚く千里様に声をかける。
「千里様。リキと遊んでくれて、ありがとうございます。今から仕事に行く前に渡したいものがあり、ここに来ました」
「渡したいものですか?」
本当はこの桐箱を渡すだけだったが、メイドの噂も鑑みて少し自分の態度を改めて見ようと思った。
要は外に向けて俺が側室など不要。妻は千里様だけと思わせたらいいのだ。
手に持っていた桐箱を千里様に向かってぱかりと開けると、そこには金細工と翡翠で出来た蝶の簪があった。
陽の光で翡翠が新緑のように煌めく。
「今度の百合子様のお茶会に合わせて、京の職人に作らせた一級品です。受け取って下さい」
千里様が「翠緑色……」と感慨深そうに呟いて、そっと恭しく桐箱を手に取った。
「こんな高価なもの……ありがとうございます。大事に使わせていただきます」
言葉こそ丁寧だが、その顔に先程みせていた明るい表情はない。
なにやら、ずっと探していたものが今更見つかってしまった。いきなり現れた大金に困っている、そんな憂いの表情などに見えた。
なるほど。こう言うやり取りが俺が『側室を迎える』と言った出所の一つかと思い──。
千里様の手元にある霧箱から簪を取り出して、千里様に近づき。その黒髪にあてがってみた。
すると視界の端にメイド二人がいつの間にか顔を上げて、驚きの表情をしているのに気が付いたが、気にせず。千里様を見つめる。
「緑が黒髪に生えて、よく似合う」
「……本当でしょうか。私、まだ髪が短いままですし」
「気にしなくていい。誰かがそんな陰口を言うのなら私が逮捕しますから」
そう言うと、千里様は一瞬驚いた顔をして。
「それは大変頼もしいですね」
くすっと小さく笑った。それは今まで見たことない柔らかな表情だった。
その笑顔に釣られるように。
指先で髪を撫でてみた。さらりとした黒髪。伸ばせば、さぞかし美しいだろう。
「桐生様……?」
俺の行動に不思議そうに見つめてくる千里様に、はっとして。なんでもないように笑ってから、簪を箱に戻した。
「では、仕事に行ってきますので失礼します」
「あ、はいっ。行ってらっしゃいませ。簪、ありがとうございます」
その言葉に小さく会釈をして、庭を突っ切り。表に待たせている車へと向かう。
そして千里様の髪に触れた指先を見る。
「……他人の髪に触れたいと思うのは初めてだったな」
ふと出た言葉に何を言ってるんだと苦笑する。
指先に残る柔らかな感触を打ち消すように、上着から白い手袋を取り出し。きゅっと手に嵌めて気を引き締めるのだった。