これは「リーゼという少女が神を喪い、新しい神に出会うまで」の序章。現代の静けさの中に取り残された、古びた信仰と血の匂いをまとった物語。
リーゼは、いつも笑っていた。
朝に祈り、夜に祈り、夢の中でさえも、微笑みながら神の名を唱えた。
それが「純粋」だと教えられてきたからだ。
悲しむことは穢れ。怒ることは堕落。
笑顔こそ、神の光――イリス教会の子どもたちは、同じ笑顔を貼りつけて生きていた。
まだ冬の朝、聖堂の冷たい床に膝をつき、リーゼは祈りを捧げていた。
その耳に、神父の声が届く。
「神は、いつも君たちを見守っている」
――その瞬間、胸の奥で、何かが“嘘だ”と囁いた。
それが最初だった。
誰かが嘘をつくと、まるで心の奥が軋むように分かってしまう。
同じ信徒の微笑みの裏に、嫉妬や飢えが見えた。
神父の説教の裏に、恐怖と支配の匂いを感じた。
祈れば祈るほど、神の沈黙が濃くなっていく。
それでもリーゼは笑い続けた。
「穢れてはいけない」と、自分に言い聞かせながら。
やがて「神還の儀」の夜が来た。
その儀式を見届けられるのは、神に選ばれた者だけ。
リーゼは笑顔のまま扉の陰に隠れ、見てしまった。
“神と一つになる”はずの信徒たちが、祈りの言葉を唱えながら肉を喰らう光景を。
白い聖衣が赤く染まり、笑顔のまま血を舐め取る姿を。
頭の中で何かがひび割れた。
あの日から、彼女は肉の匂いを感じるだけで吐き気と、同時に渇望を覚えるようになった。
食べなければ死ぬのに、食べるたびに神を裏切る気がした。
――それでも笑う。神の教えを忘れられないから。
ある夜、リーゼは教会に火を放った。
燭台を倒し、油を撒き、笑いながら火の中を歩いた。
「神さま、あなたの嘘はもう、いりません」
炎が祈りの像を飲み込み、天井から灰が降る。
彼女はその光の中で、まるで儀式のように両手を広げた。
燃え落ちる天蓋の下で、リーゼは微笑んだ。
マッチをひとつ、指で転がした。
煙の中で、自分の笑顔が涙で歪んでいることに気づかないまま。
――そのとき、誰かの声がした。
「死ぬ前に、ひとつだけ訊いてもいい?」
振り返ると、そこに白衣の女が立っていた。
夜気と灰の中に立つその姿は、奇跡のように静かだった。
女は穏やかに笑った。
「あなたの神は、あなたを救ってくれなかったんでしょう?」
リーゼは言葉を失った。
誰も彼女の嘘を見抜けなかったのに、この女だけが――心の奥の“真実”を見抜いていた。
「だったら、新しい神を見つければいい」
焼けた聖堂の残光の中で手を差し伸べた。
「本当の神じゃなくてもいい。あなたが生きていける神なら、それでいいの」
その言葉に、リーゼは笑った。
祈りの笑顔ではなく、生まれて初めての“人間の笑み”だった。
涙で濡れた手で、彼女は手を掴む。
背後で、教会が崩れ落ちる音がした。
灰が舞い、鐘が落ちる。
リーゼの中で、“神”という言葉が死んだ。
――そしてその夜、彼女は新しい神を得た。
名を、狂犬がるるという。
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