バツンッ──!
乾いた音と同時に
鋭い衝撃が身体に走った。
吊るされていた何かが弾けたのか
瞬間
足元に浮遊感が広がり
全身がぐらりと宙を泳ぐように揺れた。
首に掛かる強烈な締めつけが
喉から息を奪う。
「⋯⋯っが⋯⋯!」
呻くような掠れ声が漏れ
見開いた視界が
じわりと暗転しかけたその時
意識が蘇った。
(⋯⋯痛ぅ⋯っ!)
覚醒と同時に
脳髄を叩きつけるような鈍痛が頭に響いた。
意識が浮き上がると同時に
状況が否応なく押し寄せてくる。
目を開けると
薄暗い部屋の天井が
ぼんやりと視界に入り込んでくる。
首を吊るされた状態で視界が安定せず
世界がゆっくりと
回っているように思える。
蹲ろうとした身体は
地に倒れることを許されなかった。
チョーカーに通された鋼のワイヤーが
彼の動きを冷酷に制限していた。
つま先立ちの不安定な姿勢。
手は後ろ手に縛られ
肩に掛かる重みは容赦なく
喉元を締め上げている。
(⋯⋯なん、だ⋯これ⋯⋯っ?)
状況が理解できずにいたが
足元に落ちている切れたロープと
薄く漂う蝋燭の匂いが
全てを物語っていた。
かつて
自分の身体を支えていたそのロープは
時間を掛けて燃やし切られたのだろう。
重力が一気にチョーカーに集中し
首を吊る形になった。
(蝋燭で焼き切って⋯⋯時限式かよ。
随分と凝った真似しやがって)
ソーレンは息を整えながら
周囲に気配がないことを確認する。
それから
ごく僅かに重力を操作して
身体を浮かせた。
地に足をつけずとも
首への圧力は緩み
呼吸が幾分か楽になる。
(俺の能力、知らねぇのか⋯⋯)
舌打ちを飲み込みながら
ソーレンは冷静に状況を分析し始めた。
この部屋にはレイチェルの気配がない。
部屋は石造りのような
冷たい壁に囲まれていて
窓は無く
鉄扉が一つだけ設けられていた。
音が漏れぬように
何重にも対策が施されたような密閉空間。
(⋯⋯別室か。
レイチェルは⋯此処にいねぇ)
記憶がまだ曖昧だが、確かに──
あの時
逃げる途中で突如〝レイチェル〟が
ボトルを振り下ろしてきた。
手加減など無い
まるで殺意すら孕んだ一撃。
けれど
視界が暗転する寸前
ソーレンは確かに見たのだ。
レイチェルの後ろにいた
〝本物〟のレイチェルを──⋯。
男達に押さえつけられ
必死に叫んでいた。
(くそがっ⋯⋯!
やっぱあれは、化けた誰かだ⋯⋯)
怒りが胸を焦がす。
そしてもう一つ
胸を刺すような苛立ちが
喉元に残っていた。
首を吊るす為に使われたのは
自分が選び
レイチェルとお揃いで身に着けていた──
チョーカーだった。
ソーレンは顔を歪め、唇を引き結ぶ。
(⋯⋯大事なチョーカーに
引っ掛けやがって⋯⋯!
傷付いてたら、容赦しねぇっ!)
全ての怒りが
その一言に凝縮されるように。
重力を操る足元に、静かに力が籠る。
冷たい空気の中で
ソーレンの瞳が獣のように鋭く光った。
コツン──コツン──
規則的に響く靴音が
冷たく沈黙した空間に
不気味に染み込んでいく。
その音は
まるでこの場に存在してはならない
異物の鼓動のように
じわりと近付いてきた。
薄暗い部屋の奥
僅かに開いた扉の向こうから
黒のロングコートの裾が現れる。
その先には
長い黒髪を緩く一つに編み束ねた
華奢な体躯の男。
無機質で
感情の見えないアースブルーの瞳が
真っ直ぐにソーレンを射抜いていた。
その口元には
氷のような笑み──
冷酷で
残忍で
どこか愉悦を含んだ歪みが浮かんでいた。
「やぁ。ソーレン」
静かに
けれどもどこか不快な甘さを含んだ声。
その声音に
ソーレンは鼻を鳴らして
嘲笑いながら応じた。
「⋯⋯よぉ。てめぇ誰だ?」
まるで敵意も恐怖も感じていないように
逆に挑むような口調で言い返す。
ソーレンの瞳にも
一瞬だけ敵意の光が宿る。
吊られたままの体勢にも関わらず
彼の姿勢には威圧があった。
「ボク?⋯⋯ふふ。知らなくていいよ」
男は軽く肩を竦め
無邪気な口調で言いながら
にいっと口の端を上げた。
まるで、何もかもを見下すような笑み。
「そーかよ。
墓に刻む名前が〝ジョン・ドゥ〟に
なるだけだな」
間を挟んで
二人は同時に喉を鳴らすように嗤った。
だが、空気は笑いとは程遠い──
火薬と硝煙のように
緊張感と敵意が張り詰めていた。
「なら、隣の部屋の彼女は
〝ジェーン・ドゥ〟に
なってもらわないとだね?」
その言葉と共に
男の瞳がさらに凍りつく。
アースブルーの瞳は
まるで氷壁のように冷たく
吐き捨てるような声が
その美しい容貌に恐ろしさを与えていた。
「⋯⋯はぁ。
それよか、首のワイヤー外せよ」
ソーレンは鬱陶しそうに吐き捨てた。
「チョーカーに傷がつくの
ムカつくんだよ」
男はわざとらしく目を見開いた。
驚きを装いながら
その表情には薄っぺらい同情と
ねっとりした嘲笑が混ざっている。
「へぇ?
キミって薄情な男だねぇ。
女より
自分の見てくれの方が心配と見える」
「⋯⋯あぁ。
俺って、見た目もガタイも良い男だろ?
可愛らしいお嬢さん?」
不敵な笑みを浮かべながら
ソーレンは余裕たっぷりに
相手を挑発した。
それは、ただの強がりではない。
彼には確信があった。
レイチェルは大丈夫だ、と。
彼女はまだ完全ではないが
ソーレンの戦い方を理解している。
ソーレンが強くなる度
彼女の擬態能力も進化し
その力を半分使えるようになっていた。
だからこそ、ソーレンは怠らなかった。
自分を鍛え、鍛え抜き
誰よりも強くあろうとした。
それが
彼女を守ることに繋がると
信じていたからだ。
そして今──
その彼女が
きっとどこかで機を窺っていると
信じている。
ソーレンのその余裕に
男の顔が僅かに歪む。
そして
ゆっくりと彼の首元へと手を伸ばした。
(⋯⋯来た)
ソーレンの琥珀の瞳が
獣のように鋭く細められる。
その一瞬──
部屋の空気が、ピンと張り詰めた。
その瞬間を⋯⋯彼は待っていた。