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「よーし、今日は新居の家具、めっちゃ見よぉ―!」
光貴が張り切って愛車のエンジンを掛けた。
今日は久々の休日。サファイアのメジャーデビュー&ライブが遂に決定した。来年のデビューに向けて雑誌の取材・ミーティング・レコーディング等、怒涛のスケジュールが組まれた。デビューまでは休みなしだと思っていたけれど、やまねんさんの計らいで一日休みをもらったのだ。
光貴は気遣いに無頓着な男性だから、サファイアに加入が決定してから、私のことはずっと放置だった。仕方がないと解っていても、寄り添って欲しい時が多々あっただけに寂しい思いをしていた。それをくみ取ってくれたやまねんさんが彼を叱ってくれたのだ。
『身重のりっちゃんをもっと大事にしてやれ。一日休みやるから、家族サービスしてこい』と、光貴のお尻を叩いてくれたのだ。やまねんさんから謝罪の連絡もあって恐縮した。
彼に気を遣わせてしまったことを今度は私が光貴に説教した。
我が旦那ながら困った男だ。
「車内、寒くないか?」
車を発進させてすぐ光貴が私に聞いてくれた。
光貴は優しいから、こういう気遣いはできる。けれど、尽(ことごと)く私のツボは外してくる。だからそこについては仕方ないと諦め、求めないことにしている。
「うん大丈夫。対策済」
私はお腹を冷やさないよう持参したブランケットを掛けた。
季節は木枯らしの吹く冬へと移り変わっていた。つい最近までは暖かかったのに、急に寒くなったので冬物やコートを収納ダンスから引っ張り出したばかりだ。
マイホームも着工が始まり、仕上がりは来年の二月と聞いた。サファイアのメジャーデビューのライブも、詩音の出産も、同じ来年の二月だ。
夢のある未来。それが早く実現して欲しい。
お腹の中で元気に動き回る詩音と光貴と私の三人で一緒に出掛けられるのは、最高に幸せ。詩音が大きくなったら、今日の話をしてあげたいな。
詩音はお腹の中にいる時から、大事に大事にされていたんだよ、って。
光貴も忙しくなり、私も塞ぎがちになってしまったから、久々に夫婦で外出は心を浮き立たせた。
「機嫌いいやん」
「うん。今日は光貴と一緒だから。久々のお出掛け、嬉しいもん」
「……そうか」
光貴は照れてしまったらしく、しきりに鼻の頭を掻いている。これは彼のクセだ。照れ屋で気は利かないけれど、それでも大好きな人だ。
やっぱり傍にいてくれると安心する。一人じゃないんだと思うと心強い。
ボコン、と詩音が私のお腹を蹴った。「あ、今日も詩音、元気ー」
マイホーム完成と詩音の誕生は、どっちが早いのかな。順調に育ってくれていて、問題があるとは思えない程元気な詩音に、思わず笑顔がこぼれた。体調を崩しがちだった私も、嘘のように気分がいい。
詩音もパパとママとお出かけできるから、嬉しいのだろう。だから私の体調に影響しないように頑張ってくれているのだ。
「よし、じゃあパパの曲を詩音に聴かせよ」
そう言ってカーステレオのボリュームを上げた。サファイアの曲が流れだす。
光貴はサファイアの活動後、よほどのことが無い限りすぐさま家に帰って来てくれる。そして暇さえあれば、私の横でメタルのリフやフレーズをギターで弾いていた。
メタル女子になったら困るから止めてと言っても、メタル女子最高やん、と言って笑う始末。
イントロから激しく重厚感のあるサウンドが流れ出す。私もすっかりサファイアのヘビーリスナーになった。
メタルバンドは演奏が巧くて当たり前だけれど、中でもサファイアは、ヘビーさとメロディアスが見事に調和したサウンドを聴かせてくれる。
重厚感があって本当ににかっこいい。
こんなバンドに加入できるなんて、光貴に運が向いてきた証拠だ。彼の目覚ましい活躍を私が足を引っ張るわけにはいかない。
やっぱり光貴は、ギターを弾いている時が一番!
だから私は、光貴を一番のファンとして支えたい。
今日は目的地に到着するまで、サファイアのCDを聴き続けた。
光貴のデビューライブに行けない分、傍で彼のギターを聴いて過ごすのだ。出産とマイホーム完成が同時期だから仕方ない。でも、盆と正月が一気に来るみたいで楽しみだ。
遠方のインテリアショップに着いた。今日は新居の家具を揃えるのが目的なのだ。
私たちを待ち構えている黒くお洒落な建物内に入った。建造物は想像以上に大きく、敷地千六百坪の広さを誇っていた。見るからに複雑そうな家具が入口から並べてある。値段を見る前から、高級そうなにおいが漂っている。
その家具と一緒に、不思議な文房具が並んでいた。セール価格でひとつ千五百円の値段がついている……設定価格に焦りを感じた。
高すぎない?
早くも焦りを感じながら、受付で住所等を記載して中に入った。
輸入ものが中心に置かれていて、洋風でモダンなものが多い印象を受けた。
実際の家も建っていないのに、どうやって家具を配置するのだろう。乏しい頭ではイメージがわかなかった。
設計図のコピーに書いた寸法を見ながら家具を見ても、ぴんと来なかった。
フロア内を見ていると、仲の良さそうな夫婦に遭遇した。
彼らは私たちと同じ年齢くらいの若い夫婦だった。二の腕辺りまで伸びたブラウンショコラ色のパーマのかかった髪に、スラッとした背の高い顔立ちの整った綺麗な女の人が、同様に背の高いイケメンの彼に甘え、腕を組んでダイニングテーブルを見ていた。彼女はイケメンの彼に、早紀、と親しそうに呼ばれていた。
いいなぁ。羨ましい。私もやりたい。彼らに触発された私は、思い切って光貴に声をかけた。
「光貴。手、繋いでもいい?」
光貴はこういうことを嫌がるから、普段は言わないようにしている。
でも、少しくらい、いいよね?
毎日寂しい思いも我慢して、不安な気持ちも押し殺して、光貴のために頑張っているんだし。
お願い、光貴。どうか手を取って――
「他にも人いるし、恥ずかしいやん」
必死の願いもむなしく、光貴には何も通じなかった。いつもの調子で言われてしまったのだ。片手をGパンのポケットに突っ込み、もう一方の手で鼻の頭をしきりに掻きながら。
それを見て言いようのない淋しさが胸を占めた。この人を選んだ以上、すぐ傍で仲良さそうに肩を寄せ合って腕を組んでいる夫婦のようにはなれない。
彼はそういう人だとわかっていたけれど。
たったこれだけのことで、年甲斐もなく泣きたくなった。
今の精神状態は不安定すぎたのだ。
「早く行くで」
振り向きもしてくれなかった。
思えばこんな風に過ごせていたこの時が、二人の間が揺らぐことなく、幸せな最後の時間やったと思う。
この時もし光貴が振り向いて、私の傷ついた悲しい顔を見てくれていたら。
どうしたのかと聞いて、もっと私に寄り添ってくれていたら。
もっと早くに私の異変に気付いてくれていたら。
そしたら私は
光貴を裏切り、あなたを死ぬ程傷つけることはなかっただろう。
これから地獄が待っている。
どうすることもできない地獄が訪れることを、私達はまだ知らない――