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文化祭本番を週末に控えた木曜日。教室内は、どこかそわそわとした空気に包まれていた。
クラスメイトたちは装飾や衣装の最終チェックに忙しく動き回っていて、普段は静かな氷室もその中心で淡々と指示を出している。
「パネルはあと三枚。道具室から持ってきて」
「照明のコード、床に這わせたままじゃ危ない。テープでしっかり固定を」
的確に動く氷室の声に、自然と周囲も応じていた。
俺はといえば、教室の端でパンフレットを折る地味な作業を黙々とこなした。班ごとの準備が進む中で、なぜか今日の俺と氷室は話すタイミングがうまく合わずに、すれ違ってばかり。
昨日、傘を差し出してくれたこと。あの優しい付箋のメモのこと。感謝を伝えたい気持ちはあるのに、忙しさに紛れて声をかけられないまま、時間だけが無常に過ぎていく。
(借りた傘すら返せないなんて……このままじゃダメだ。タイミングを見計らって、氷室に声をかけたほうがいいよな)
でも、そのとき。
「氷室くーん、このパンフレット、順番これで合ってる?」
「氷室、こっちの装飾、少し見てチェックしてほしいんだけど!」
別の女子生徒たちが氷室のまわりに集まり、矢継ぎ早に話しかけた。
(うわぁ……こんな様子じゃ、ますます入り込めない)
目の前の様子に、ちくりと胸が痛む。俺の言葉なんて、今の氷室には届かないんじゃないだろうか。そんな弱気が顔を出した。まるで背中合わせのような距離感。
同じ空間にいるのに、手が届かないようなもどかしさが、喉の奥に引っかかった。
準備が一段落した、夕方前。荷物を取りに行くついでに、今は授業で使われていない旧音楽室に立ち寄った。静かな空間で、コッソリ一息つきたかっただけなのに——なぜかそこには、氷室がいた。
「……氷室?」
氷室は小さなスピーカーを手にして、イヤフォンでなにかを聴いている姿が目に留まる。俺の気配に気づくと、少しだけ目を見開いて、それからイヤフォンを外した。
「葉月か。どうした?」
「……ちょっと休憩しようと思って。邪魔だった?」
「いや、別に。ここに座れば」
そのまま並んで座ることが照れくさくて、背中合わせでピアノの長椅子に腰かけた。
「氷室あのさ……文化祭、楽しみだね」
「そうだな」
短い会話のなか、俺は勇気を出して問いかけた。
「昨日……傘、ありがとう。あの付箋、すごく嬉しかったよ」
氷室の横顔が、ほんの少しだけ照れたように歪んだ気がした。
「……ああ。文化祭前に、葉月に風邪をひかれたら困るだろ」
「ふふ、やっぱ優しいな、氷室は」
そう言うと、氷室は少しだけまぶたを伏せる。
「……君には、つい余計なことをしたくなる。なんでだろうな、不思議だ」
その言葉に、胸の奥がぎゅっとなった。
背中合わせの距離が、会話のおかげで少しずつ向き合う形に変わっていく——そんな気がしたとき。聞き慣れない音が、音楽室に響き渡る。氷室が制服のポケットからスマホを取り出し、画面をタップして通話に出た。
「もしもし、氷室です。はい……はい、えっ?」
氷室の顔色が、一気に真っ青に変わった。
「わかりました。お大事にしてくださいとお伝えください。失礼いたします」
どこか気の抜けた言葉を口にして、ふたたびスマホの画面をタップし、額に手を当てる氷室。眉間にシワを寄せて、見るからにつらそうな表情を浮かべた。
「氷室、なにかトラブルか?」
「ああ、そんなところ。この学校出身のお笑い芸人を、メインステージに呼んでいただろ」
むしろそれが、文化祭のメインにもなっている。一般のお客様も見られるそのステージに、たくさんの来客を見込んでいたのだが。
「まさか、そのお笑い芸人が来られなくなったとか?」
「まさかのそれ、急病だそうだ。どうしたものか……」
俺は座ってる向きを変えて、手に持っているスマホごと頭を抱える氷室の肩に腕を回してやった。氷室の肩越しに、雨の日と同じように少し震えている体温を感じる。
「葉月?」
「今、思いついた代替え案、聞いてくれるか氷室?」
俯かせていた顔を上げた氷室は、縋るような眼差しを向けてくる。その視線が真っ直ぐで、俺の胸を貫いた。ずっと背中合わせだったはずなのに、今ははっきりと向き合っている。
「……君が言うなら、きっと大丈夫だな」
小さく笑った氷室の横顔は、いつもの冷静さより少しだけ頼りなく見えた。でも、その弱さを見せてくれることが、俺には嬉しかった。
文化祭の準備で張り詰めていた空気の中、背中合わせに座っていた俺たちは、ようやく少しずつ、同じ方向を向けるようになったのかもしれない。