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「恋人契約って何ですか?」
恐る恐る尋ねると、慎也さんは目元を隠すように手を顔に当てた。
「⋯⋯その、美香さんも知っての通り、今、俺は余裕がないんだ。でも、彼女がいないとなると毎日のように告白されて⋯⋯」
「それは理解できます。告白されて断るのって労力がいりますよね。遺恨を残さず断るのが難しいっていうか」
私は高校時代を思い出していた。
告白されて振ると、必ず遺恨が残る。
悪い噂を流されたりする時もあった。
私はそういう事が子供っぽく思えて、余計に同年代の男が苦手になっていった。
でも、恋愛においては年をとっても心は幼いのかも知れない。
それは芹沢慎也ファンクラブのような女の子たちを見ていれば理解できる。
「告白? 最近されたの!?」
手首を掴まれ問いただされた時に香った爽やかな香りにホッとする。
「されてませんよ。誰が既婚者の私に告白なんてするんですか?」
「⋯⋯美香さんは素敵な人だよ。だから心配なんだ。また君が悪い男に引っ掛かって傷つくのが」
(またか⋯⋯)
慎也さんには海斗のことを洗いざらい話している。
客観的に見て海斗はクズで、その男を選んで結婚してしまうような私が心配で見てられないと言う事だ。
「私は大丈夫です。それよりも、恋人契約? って恋人のフリをするって事ですよね。それは既婚者の私ではなく独身のもっと可愛い子に頼んだ方が良くないですか?」
「恋人契約してくれたら、美香さんの足りないお金を払うよ」
芹沢慎也は私の事を思って言ってくれているのだろう。
でも、私は彼にそんな言葉を掛けられたのが恥ずかしくて土に埋まりたくなった。
「ははっ。本当に生活するってお金が掛かるんですよね。月、何十万単位で足りないんですよ。そんな簡単に言わないでください」
私は俯いて現状を彼に伝える。
教科書代だけでも、たまに五千円以上する教科書があったりする。
交際費を省いても、生活するだけで光熱費や食費が掛かる。
母が三百万円を私に託した時は、世間知らずの私はそれで十分大学生活が送れると思ってた。
私の考えは何もかもが甘い。
娯楽を排除して生きているだけでも、お金は飛んでいく。
「月に何十万でも、美香さんの安全が守れるなら払うよ。俺の精神衛生上、君が危険な目に遭ってると思うと居ても立っても居られないんだ」
彼は本当に優しい人なんだろう。
そして、素晴らしいノブレス・オブリージュの精神だ。
這いつくばる貧民を見ていられない。
彼の私への過保護っぷりを好意であると勘違いしていた自分が恥ずかしい。
彼はみっともない私を見ていられないだけなのだ。
「何十万円? 簡単に言いますね。お金を稼ぐって大変なのに」
私は嫌味で言ったわけではないが、彼には良くない内容で耳に届いたようだ。
「そうだな、自分で金を稼いだことの無いようなボンボンに言われても気分が悪いよな」
流石に彼の私の言葉の捉え方には異議を唱えたくて、私は慌てて彼の頬に手を当てる。
「悪意に捉えないでください! お金はお金です。私だってお金が欲しくて仕方ないですよ。でも、煩わしい女の子を避けるのに私と恋人契約をするのは違うと思います」
私が言った言葉に彼が目を見開く。
もっと敵人がいると気がついて貰えたのかも知れない。
しかし、彼から返ってきたのは意外な言葉だった。
「実はさ。それで俺と不倫の噂でもたって、美香さんが離婚できればと思ったんだ。旦那さん、プライドが高そうだし美香さんが他の男と関係したと思ったら、離婚してくれそうかな? とか思っちゃって⋯⋯」
彼のサラサラの黒髪が少し開けた窓からの海風で揺れる。
結局、彼はやはり可哀想な私の為に、常識はずれな事を企てようとしていた。
「何ですかそれ⋯⋯慰謝料を請求されますよ」
「不倫の慰謝料なんて三百万円程度だろ。それで、別れられるのなら安くない? それくらい俺が出してあげられるし」
イタズラを企むような顔をしている彼に私の心がざわつく。
芹沢慎也と私は価値観だけでなく、金銭感覚も全く違う。
私が逃げて来た時に母から受け取ったのは三百万円。
その額で母は私は何でもできると思っていただろうし、私も三百万円に無限の可能性を持っていた。
でも、芹沢慎也にとって三百万円は小銭なのだ。
コンビニでお釣りを寄付するボックスに入れる額と変わらない。
可哀想な人に役立てるなら簡単に出せるレベルのお金。
なぜだか、私はその金銭感覚の違いが住む世界が違うという警告に思えて息が詰まった。
私は口角を上げて精一杯の笑顔を作る。
「芹沢さん。不倫は軽蔑される愚行です。もし、私と不倫している噂でも立ったら、お父様の会社や妹さんの仕事に迷惑が掛かるかも知れませんよ」
「大丈夫だよ。俺は芹沢家ではシークレットキャラだし、美香さんの助けになれると思う」
私は思わず泣きそうになった。
頭が良くて評判な芹沢慎也がリスクを理解していない訳がない。
確かに芹沢若菜はフォトスタグラムにのせる時、兄の顔を隠してる。
それは目立つ事が好きではない慎也さんの意向だと若菜さんが言っていた。
ネットに載った写真をハートマークで隠しても、知っている人には分かる。
既婚者の私と関わったら、要らぬ噂を流されるリスクは高い。
その事は彼が大切にしている妹にも被害が及そうなのに、彼は私を優先しようとしている。
(やめて! なんで!?)
「恋人契約はお断りします。私、バイトも続けたいし、正直フリでも芹沢さんと恋人にはなりたくないです」
自分でも驚くほどに震えた声が出た。
慎也さんが私の言葉に傷ついているのが分かったからだ。
「確かに、フリとか苦手そうだよな。美香さんは⋯⋯。変な提案してごめん。今、家まで送るな」
慎也さんが真っ直ぐに前を見ながらアクセルを踏む。
彼が傷ついた顔を見られるのが嫌だと気付き、私も窓の外を見た。
「横浜って工場が沢山あるですね。工場の灯りって静かで落ち着く」
「京浜工業自体だからね。俺も工場の灯りが好きだよ。静かで癒される灯りが生活を守ってるんだよな」
彼の一言、一言が胸の奥に沁みる。
早くに母親を失った彼は良い兄、良い息子であり続けた。
遅れてきた思春期の反抗期と戦う彼は王子と評される彼とは違い等身大。
彼を思う度に愛おしくて仕方がない気持ちを恋だと思いたくない。
彼の気持ちは同情で、そこに恋心が混じったとしても、私はすぐに飽きられるだろう。
私は面白くも何ともない、親友からも夫からも裏切られた女だ。
「それでは、また金曜日に」
アパートまで送って貰い私は彼に頭を下げる。
私の頭を撫でようとして、手を引っ込めたのを風で感じた。
この時、私を心配してくれた彼の言うことを聞かなかった事を翌日には後悔する。
木曜日、塾のバイトが終わると外は大雨が打ちつけていた。
(どうしよう、走って帰るか)
一歩、足を踏み出したところで頭に雨が打ちつける。
「高杉さん! 待って!」
私に傘を差してくる神崎君を見て、思わず時間を確認した。
「神崎君、もう十時過ぎてるよ。急がなきゃ」
「⋯⋯じゃあ、高杉さんを家に送ってから駅までダッシュで急ぐよ」
「私は大丈夫! 走って帰って速攻お風呂に入るから」
傘の下から飛び出そうとした私の二の腕を彼が掴む。
「送らせて! 風邪でも引いたら、大変だ」
「う、うん」
真剣な表情で真っ直ぐ私を見つめてくる彼に従い、とりあえず傘の下に入る。
神崎君が持っていたのは折り畳み傘だったようで小さい。
私たちは肩がぶつかりそうな程、寄り添いながら私のアパートまで無言で急いだ。
アパートの前で立ち止まり、私は頭を下げる。
「ありがとう! 神崎君。おかげで助かったわ。気をつけて帰ってね」
その途端、骨が折れそうな程キツく抱きしめられた。
「このまま、帰る訳ないだろ。美香⋯⋯」
突然、熱っぽく名前で呼ばれた私はときめきよりも絶望を感じていた。
コメント
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うわあ、今回も心がぎゅっとなった…。慎也さんの「恋人契約」提案、金で解決しようとする価値観の違いに息苦しさを感じたけど、彼なりに美香さんを思ってるんだよね。でも最後の神崎君の急な展開! あの「美香…」って名前呼び、ときめきより絶望って台詞がリアルすぎて鳥肌立った。続きが気になるなあ。